素足の夏は
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「石神さんがよければ…海に行きたいです」
食後のデザートを食べながら、そう夏子は言った。
週末、珍しく予定がぽかりと空いた石神が切り出した遠出の提案に、夏子は「海へ行きたい」と遠慮がちに答えた。
自分をいつも気遣ったように答える夏子の姿がいじらしい。
石神はフッとほんの少し口端を上げると、コトリとテーブルに皿を置いた。
「もう夏ですね」
「はい、夏です!」
「海、行きましょうか」
「え?いいんですか?」
嬉しそうに顔を綻ばす夏子に、石神は浅く頷いた。
そして珈琲を静かにすすると少しだけ目を伏せる。
夏はあまり好きじゃない。
突き刺さるような日差しも、まとわりつくような熱気も、どちらかといえば不快で、それを楽しむ者はずいぶん酔狂だと内心思っている。
とりわけ夏に何かしらの感慨があるわけでもなく、毎年気がつけば夏は終わっているものでもあり。
特に思い出に残る出来事も、過去の夏には見当たらない。
そもそも季節を愛でる習慣もさほどなかった。
しかし夏子と出会ってから、それは少しずつ変化を遂げている。
『春らしくなりましたね』
『夏ですね』
『秋になったな』
『もう冬か』
そんな何気ない瞬間が心に浮かぶようになったのも、夏子のおかげだと思っていた。
自分がこんなに感傷に浸ることができる人間だったのかと驚く。
感傷、というと少し語弊があるかもしれないが、そういうものに縁がなかったのは事実だ。
人間味に欠けている、そうずっと思っていたのに。
不思議だ。
むしろ今の自分の方が、本当の自分に近いのかもしれないとさえ思えてくる。
いつも表情を崩さない石神が、鉄仮面の下でそんな物思いに耽っていることなど分かるはずもなく、夏子は週末の遠出がよほど嬉しいのかスキップしそうな足取りで食器を台所に下げ始める。
「石神さん!今週末、楽しみにしてますね」
クルリと振り返って夏子が微笑んだ。
つられて微笑んでしまいそうになった石神は、つい癖できゅっと唇を結ぶと、いつものように静かな表情で「ええ」と答えた。
*****
あの約束から数日。
気がつけば金曜日を迎えており、石神はデスクに散らばった書類をトントンと揃えながら時計を見上げた。
仕事中に夏子の笑顔を思い浮かべるなどあってはならないことなのに、今日はなぜだか自分を甘やかしたい気分になる。
海を背景に立つ夏子の姿を脳裏に浮かべて、石神は端には分からない程度に頬を緩めた。
「あれれれ?石神さん、なんだかご機嫌ですね!もしかして…?」
頭上からうるさい声が降ってきて、石神は瞬時に眉間に皺を寄せる。
ニコニコと邪気のない笑みを向けつつも、しっかりこちらを観察しているのは黒澤だ。
「黒澤、そんなに残業したいのか?」
石神がつれなく答えると、黒澤は大げさに肩を竦めて退散する。
「怒られちゃいました」とおどけてデスクに戻る黒澤をちらりと見て溜め息をついてみたものの、(そんなに分かりやすく顔に出ていたのだろうか?)と、石神は思わず手で口元を覆った。
「お先に」
あのまま黒澤にニヤニヤと意味ありげな視線を投げ掛けられるのは不愉快なので、石神は早々と帰宅することに決めた。
短く挨拶をして、ビルを出る。
まだ明るい夕暮れが、夏の影を色濃く落とした。
家までの帰り道を黙々と歩きながらも、ほんの少し足取りが軽いことに気がついて急に恥ずかしくなる。
週末はずっと夏子と一緒に過ごせる。
それだけで、まるで遠足前の子供のように浮き足立っている自分が信じられなかった。
石神は少し冷静になろうと駅前のショッピングビルの前で足を止めた。
ふと目の前のショウウィンドウに目がいく。
しばらくそれをガラス越しに見つめていた石神だったが、思い立ったようにカランと店の扉を開けた。
*****
「ありがとうございました!またのお越しを!」
若い店員が威勢のいい声を上げながら店の出口までついてくるのに閉口しつつも、軽く会釈をして扉に手をかける。
彼の左手にはファンシーなデザインの大きな紙袋。
願わくばこの姿を誰にも見られていませんように、特に黒澤に…と思いながら石神は足早に店を後にした。
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