短編 鬼 | ナノ

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morning

きちんと閉めきられたカーテンの下側。
フローリング張りの床が明々と照らされ、窓の冊子なんかがキラキラとしているのがなんとなく見えるものだから、朝が来たことをうかがい知る。

スマホのアラームが丁度6時を指し示し、それなりのけたたましさで私を起こしにかかっていた。

朝はそれなりに忙しくやっている。
例えば、一番に時間がかかるのは身だしなみだ。
ありのまま、だとかノーメイクが当たり前でも良いじゃないかと言われ始めているけれど、とんでも無いことだ。
朝はパックから下地まで、フルで水分を捩じ込まないと、20も半ばに差し掛かった徹夜まみれの社会人の肌は、水分という水分が蒸発しているのだ。
そんな顔を私は晒すことは出来ない。
別に、会社の人だとか、電車で隣に立つ人、通勤中にすれ違う人なんていうのは、わりとどうだっていい。
ただ問題なのは、お隣さんである。
今日もまだ起きているのかいないのかはわからないけれど、一枚壁の向こうの静まり返った一室に住む、件のお兄さん、だから所謂、お隣さん。つまりは不死川さんが問題なのだ。

髪をぐりぐりとコテで巻き付けながら、今日もどこか湿った息を吐き出した。



──不死川さんと初めて会ったのは、二年と少し前。夏の前であった。
勤務先での配属地が本格的に決まり、実家から片道一時間半の通勤を苦にし始めた頃。
先輩に誘われた飲み会の終わり、終電を逃したその日、私は引っ越しを決意した。

繁忙期に差し掛かろうとしていたので、内見もせず、立地とオートロックという、ただそれだけの条件でサクッと居住地を決め、その半月後にはキャリーケース二つで越してきたのだ。

くたくたになったまま、夕日の挿し込む窓へとカーテンだけをとりあえずつけた部屋を眺め、その日初めての食事にありつくためだけに部屋を出た。

最初はたまたまであった。

隣の部屋の扉が同時に開いたので、私は少しだけ頭を下げ「ご挨拶もできませんでしたが、」なんて然程する気も無かったのに、枕詞のように唱えてから初めましてと名前だけを伝えるような挨拶を交わした。

お隣に住むのは、なんというか、柄の悪そうな人であったから「あまり関わらないように、戸締まりをきちんとしないと」くらいに考えていたのだけれど、その人は少しだけ私を見たあと、キュッと目元を細くして、すごく可愛らしく笑ったのだ。

「初めまして、隣の不死川です。
ここ、家族で住んでる人もそこそこ居るみたいなんで、上には挨拶行った方が良いですよ。人居ねぇと思ったら、わりとはしゃいでるんで」
「そうなんですか」
「ア、ちぃと待っててくれ」

そう告げて、一度部屋に入り直した不死川さんの背中と、閉まっていく扉を眺め、私は慌てて髪を手櫛で整えた。

また開いた扉と一緒にやってきた不死川さんは、手に何やら包を持っていた。

「俺が越してきた時にはソコ、空いてたんで一個余ってんですよ」
「は、はぁ、」
「ご挨拶って書いちまってるから、好きに使ってください」
「え、と……」
「上に持ってっても良いですし、名字さんに使って貰っても」
「え、でも……」
「もともと、そのためのモンなんで」

すっ、と私の胸元まで押し付けられた箱には、ご挨拶の熨斗がついてある。
私が手を添えたことを確認した不死川さんは、自室の鍵を閉め、颯爽と去っていこうとするものだから、私も部屋の鍵を締めて慌てて後に続いた。

「一階で良いですか」
「は、はい!」

スラックスに、カッターシャツだけを羽織った彼は、胸元までをぱっくりと開け、その逞しい腕を見せつけるかのように袖口を織り込んでいる。
そこから伸びる少し筋張った手が、エレベーターのボタンを押し込んだ。

「ありがとうございます、その、先ほど言いそびれました」
「あァ、……そう言えば、ココ、管理人がすげェ爺さんなんで、草むしりとゴミ掃除だけは住民がやることになってるんですよ」
「あ、そうなんですか!それは、……参加しないとですね」
「月初の土曜にやってますよ、草むしり」
「……さ来週、あ、今月は来週ですか」
「……あァ、そうですね」

ウン、と一度不死川さんが頷いたところでエレベーターは軽やかに到着の合図を告げ、手入れの行き届いたホールが顔を見せた。
じゃ、と本当に軽くだけ頭を下げた不死川さんは、私よりもずっと長い足でスタスタとオートロックの向こう側へと去って行った訳だけれど、どこかでドキドキとした音をほんの少し、残していった──。


結局、未だに使うことも出来ない「ご挨拶」には何が入っているのかわからないけれど、青のストライプのかかった包み紙を撫でれば口角が上がるのだから、朝のルーティンとしては最適な気がする。
丁度巻き終えた髪へとスプレーをふりかけ、下地やら何やらを塗り込みながら適当にカットしたフルーツをつまみ、最後に姿見で全身をくまなくチェックしてから、玄関前へと向かう。

そうしたら、丁度、上階がバタバタと騒がしくし始める。
あの数日後に上の階へと挨拶へ向かえば、幼稚園生の子供二人とご両親が住んでいたらしく、「うるさくなかったですか?すみません、気をつけますね」と、人の良さそうな女性がペコペコとやるので、平日の日中は居ないので、どうか楽しく過ごして欲しいとだけ伝えておいた。
時折有給で平日に休んでいると、楽しそうな足音が響くものだから、不死川さんが言っていたのはこれだったのか。と合点がいった。

バッグの中身をチェックして、パンプスに足を滑らせる。
7時と、48分。
玄関の扉を開けば、いつもはエレベーター前で会う不死川さんが、丁度出たところらしかった。

「あ、おはようございます、不死川さん」
「おはようございます」

仄かに漂うコーヒーの香りと、整髪料だろうか。少しばかり爽やかな、シトラスの香り。
きらきらと光を受けてきらめく不死川さんの目が眩しくて、思わず手元の鍵へと視線を逃す。

「きょ、うは、いつもより少し、遅いんですね」

そこまでいってから、耳まで燃えるように熱くなった。
これではまるで、いつ彼が家を出ているのか、監視しているようではないか。
少し遅い?そんなことはない。多分、一分も変わらない。
断言するが、私は決してストーカーではない。
ただ、出勤時間が近いので、せっかくならエレベーターで一緒になるくらいのご褒美は毎日のようにあっても、バチは当たらないのでは無いだろうか、なんで考えているだけで、やましいことはない。
ほんの少し、出勤時間をかぶせている、それだけだ。

心のなかで、しようのない言い訳をしながらちら、と不死川さんを盗み見る。

そこからの記憶はいっそ、定かではない。

「名字さんも」

ただ、そう不死川さんの声が私の名前を呼んだ。
その事実だけで今日も一日何もかもを頑張れそうな気がしてくるほどに、私は舞い上がるのだから、不死川さんは罪深いひとだ。
そんな勝手なことを考えながら、今にもスキップしそうなほどに軽やかになった足を持て余した。





月始めの土曜日。
マンションの敷地内清掃の日になるのだけれど、バカ真面目に毎回参加しているメンバーは限られている。
不死川さんと、私。それから、理事会長と、その年の自治会長、それから上の階の子供たちとそのご夫婦。
後は三階の子供たちと、四階のやんちゃっ子たち。
いずれも、小学生低学年までの子供たちだ。
後は、気が向いた人たちがぽつぽつとやって来ては、少しばかり手伝って帰っていく。

子供たちの目的は不死川さんらしく、草むしり後に配られるジュース片手に敷地内の公園で遊んでもらうのを楽しみにしてやってくるのだ。

私も、不死川さんと時間を共有出来るから、などと不純な動機でここにいる辺り、子供たちに何を言うこともできない。
それがなければ、三回に一度程度の参加に留まっているだろうな、とすら思う。
寧ろ子供たちのほうが素直で、ゴミ袋を一つ渡せば、皆でパンパンにして来るのだから、侮れない。
ジュースのためだなんだと叫び、楽しくキャッキャとはしゃぐ声を聞きながら、私も目の前の雑草へと手を伸ばした。

グイグイ引っ張っても抜けない、立派な雑草の根本をスコップなんかでガシガシと音を立てて突いていると、ふ、と横へ影が出来る。

「抜けませんか」
「あ、……かたくて、」
「良いですか」

不死川さんであった。
彼の半身が、まるで覆いかぶさるように私の手の先の方へとかぶり、私の倍ほどある太い腕が、私の腕の直ぐ側を通って絡まっていくようであった。
ありふれた半袖のTシャツから覗く、ゴツゴツとした腕が、血管を浮かせながら、私の掴んでいた草を軽々とむしった。
その腕はすぐに離れていってしまったけれど、私の心臓はちっとも落ち着く事がない。

だというのに、ちら、と隣を盗み見ても、真っ直ぐに地面を睨みつけるようにして草をむしっていくTシャツにハーフパンツの涼し気な不死川さんの姿があるだけで、私にほんの少しでも意識をしてくれている素振りなんかは無い。

私はこんなにもドキドキとしているのに。

草むしりを終える頃。
私のぶんまでゴミ袋を抱えた不死川さんは、公園で遊び始めた子供たちを眺めながら「ジュース」と呟く。

「何にしますか。貰ってきますよ」
「い、いえ!私が行きます。ゴミ袋の片付けもお願いしてしまうので……何が良いですか」

草むしりの参加賞のように掲げられているジュースが、係の方から持ち込まれると、我先にと駆け出した子供たちが見え、思わず「残りますかね」なんて。

「じゃあ、残ったモンで選びましょうか」
「きっとあの抹茶ラテとミルクティーですね」
「あァ」
「前回もそうでしたもんね」
「名字さんはミルクティーを選ぶんだろォ?」

に、と口角を上げる不死川さんを直視できず、別に然程興味があるわけでもない子供たちの動向を見る。
どきどきする。

「少し前、知り合いから紅茶の美味い喫茶店を教えてもらったんだが」

どきどきと胸を高鳴らせたままに、私は不死川さんをまたちら、と盗み見るように見た。

「はい、」
「行きませんか」
「え、……と、はい、……え、?」

私のまごまごとした答えも聞いてか聞かずか。ゴミ袋を抱え、歩き始めた不死川さんは、ゴミの片付けの流れでボトルを二つと、ペンを一本持ち帰って来た。

「あ、の……すみません、ありがとうございます……」
「いえ」

抹茶ラテのボトルを一度服で拭ってから、サラサラと何やらを書き始めた不死川さんは、流れてきた汗を袖口で拭いながら、あとで、と呟くみたいに言う。

「今日の、昼過ぎとか、どうですか」
「……今日、」
「来れそうなら連絡してください」
「……は、い」
「スマホ、部屋なんでかけ直します」
「……はい」
「紅茶は、そん時で」
「はい」

ミルクティーのボトルをひょいと持ち上げた不死川さんは真っ白な歯を見せて少しだけ笑って、子供たちの呼ぶ方へと歩いていく。
時間にして、ほんの小一時間。

ずっと休まらない心臓が、きゅうきゅうと締め付けられて「くるしい」なんて喜色ばんだ悲鳴をずっとずっと上げている。
不死川さんから渡された抹茶ラテのラベルには、流れるような字で、数字が11桁。
これが何かわからない、なんてことはない。

不死川さんの居ないエレベーターで、不死川さんの事ばかりを考えながら、抹茶ラテのなみなみと入ったボトルの汗で、今にも消えてしまいそうな文字列を、触れないようにとなぜつけた。

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