短編集
ビタミン炭酸
四限目の終わりを告げるベルの音。
それが、教室中に響いていたシャーペンの芯が紙の上を滑る音を掻き消していった。
つい先程板書が始まるまでに熱の籠もっていた先生の声は、酷く残念だとでも言うように「今日はここまで」と、告げる。
途端に喧騒に包まれる教室の中。
私は自席の右斜め前へと視線を滑らせる。
「……ぅ、」
私は思わず声を漏らした。
見ていないと思っていた淡い紫の目が、二つともこちらを向いていたからだ。
まるでフルマラソンでもしただろうか、と言いたくなるほどに胸を打ち付ける何某は、そろそろ身体を蹴破ってしまうと思う。
私の、3つ前の席。それを更に右へ二つ。
一番前から2列目の、一番端より、一つこっち。
そこに、不死川実弥君は座っている。
なぜなら、そこは彼の席であるからだ。何ら変なことはない。
変なのは、そこを毎日、毎時、もしかすると、毎分見ている私の方だ。
目があった不死川君を、そのまま知らん顔するわけにもいかない。
私は小さく、胸の前でこっそりと手を振った。
それを見たはずの不死川君は、私に何かを返すということもなく、喋りかけてきたらしい左隣のクラスメイトへと、顔と一緒に歯をむき出した、みたいな。大胆な笑みを向けている。
どうやら、私を見ていたというわけではないのかも知れない。
残念と思うような。ホッとするような。
私は大袈裟な動きでノートを閉じた。
「どした?」
前の席のりっちゃんが、ぐり、と大げさな動きで身を捻り、私へと視線を向ける。
「えーと、何でもないんだけど……ちょっと飲み物買ってこようかな」
「まじ? 先食べててい? お腹すきすぎて死ぬ」
りっちゃんはもうお弁当をスタンバらせていたらしく、一秒と経たずに私へとお弁当包みを見せつけた。
「あは、わかった」
「じゃあみっちゃんとこで食べとくね」
「おっけ」
スマホとお財布だけを手に、私は椅子を引く。
きっとシワのついているのであろうスカートを後ろ手に整えながら教室を出て、すぐに右折。
渡り廊下を渡って一階まで降りる。それが、体育館横の自販機まで、一番近いルートだと思う。
梅雨独特の、ちょっとじとっとした風は心地が悪い。それでも無いよりはずっとマシだと思うくらいには、今日も暑かった。
そよそよと風が吹いている。髪を撫で付けられながら渡り廊下を歩く。
そうしたら、後ろから「名字」なんて、不死川君の声がした。
「おつかれー」
「おう」
「自販機? 珍しいねー」
「アチィから」
「一気にだよね」
「このままくたばっちまうよなァ」
「そんなに?」
ポケットに手を突っ込みながら少しばかり早足でこちらへ歩いてくる不死川君の胸元は、いつも通り涼し気にぱっかりと開いているし、中の柄物Tシャツが見えている。
今日はAZUKI GA SUKIらしい。
好きなんだ。やっぱり可愛い。と思う。
独特な髪色をして、この歳で体やら顔に古傷を持つ不死川君は、それはそれは目立っていた。
印象の話でいくと、入学初日から遅刻してきたらしいのも、でかい。
3年になった今だからこそ、こうして普通に話しを出来るようになりはしたけれど、実際私が初めて不死川君と話しをし始めたのは、実はつい最近のことだ。
普通に数ヶ月経っているけど、入学初日からと換算すれば、最近。でいいだろう。
ちょろすぎる私は、たまたま不死川君とかぶった日直で優しくされ。たまたま残り物の美化委員を一緒に引き受けてくれたことに感銘みたいな何某を受け。
委員会の時に話しをするようになって、そのうちちょっと仲良くなったりして。
席が隣になった弾みに、共通の趣味が見つかって。一つのスマホを一緒に覗き込むようになる頃には好きになってたとかなんとか。
今では入学式の日に、弟のオムツを変えていたから遅刻したなんて、可愛いお兄ちゃんな一面を知ってしまっていたりして。
2年のときも、同じクラスだったくせに、ほとんど話さなかった不死川君を、いつの間にか「カッコいいなぁ」なんて思う日々がやってきている、というわけだ。
「そんなにィ」
なんて。口角を上げる不死川君を、「可愛いなぁ」なんて思うわけだ。
「ね、暑いね」
「んー。そういやァ、知ってっかァ?」
「なにが?」
「コレぇ」
「えー? なに? 見たい」
不死川君が持つ、可愛いグリーンカラーのケースに入ったスマホが、私の方へと傾いた。
ここが二階であるとはいえ、渡り廊下だ。
不死川君が画面を最大限まで明るくするけれど、それなりに見にくい。
画面の中身は反射するディスプレイに遮られ、不死川君の顔のほうがはっきりと見えている。
スマホへと影を作るために、私達の距離は自然と近くなっていく。
どきどき。
ばくばく。
私の心臓が、この瞬間に一番暴れていたりすることを、不死川君は知っているだろうか。
ちらっ、とだけ。
不死川君の方へと視線を向けたら、また、羨ましいくらいに長いまつ毛のくっついた綺麗な目が、私を見ていた。
「…………見えにくいね」
「あっち行こうぜぇ」
「うん」
今度は不死川君が前を歩いていた。
広い背中を覆うシャツから、薄っすらとTシャツの柄が透けている。
後ろまで書いてる。
OHAGI・YOUKAN・OZENZAI! 書かれた文字に、私は思わず吹き出した。
「ア?」
って身がすくみそうになる柄の悪い音は、不死川君の人となりを知る前なら絶対にビビりまくっていた自信があるけど、OHAGI・YOUKAN・OZENZAI! を知ってしまえば全然平気だ。
「待って待って……ん、ふ…………小豆……ん、ふふ」
「……」
不死川君は、先まで居たのと反対の校舎へと身をねじ込んですぐ。
自分のシャツを見下ろしてから、頭をガシガシと引っ掻いた。
昼休みに入ったから、移動授業用の教室の並ぶこの棟へは、自販機組と、一階端の売店組しか居ない。
しかも、ここは二階。人はかなり、疎らであった。
「ンな笑うんじゃねぇよォ」
「だぁって……ふ、」
んふふっ、と、笑いを堪えるために噤んだはずの口から、空気が漏れていく。
血色の良すぎるくらいの不死川君の頬を「照れてんの?」なんてからかって、「うっせぇ」と舌をうたれるくらいの距離感が、心地良いような。照れくさいような。
渡り廊下手前の壁に背中を押し付けて、スマホを覗き込む不死川君に合わせて、少し。踵を持ち上げた。
「んは、なにこれ」
「そォ」
画面の中。
兄に影響されて始めた格闘ゲームの美麗なキャラクター達が、何故かボタンひとつで劇画調になるという新しいギミックによって、見事に劇画調にイメチェンを果たした姿がある。
「画面の中、濃ッ!」
「だろォ? 目、チカチカするゥ」
「こっち! これも見たい!!」
「ん」
もっと良く見たかったものだから、不死川君の手に、思わず手を引っ掛けて、私の方へと傾けた。
「あは! やっばい!」
ほとんど無意識に、兄にするような感覚でしていたけれど、フッと顔を上げたら、息を飲んでしまうくらいに近くに不死川君の顔があったりして。
「……」
「……」
軽快なゲームの音が、ごく小さな音で響いている。
階下から、パンの争奪戦が開催されているのであろう音。
それから、不死川君の息遣い。とか。
今日一番近い距離。りっちゃんよりもずっと近くで視線が絡まったまんま。
熱くて熱くてどうしようもなくなった頬は、きっとこれも今日一番、赤くなっているんだと思う。
そろそろと手を引っ込めようとしたら、不死川君の指先が、私の指先に絡まった。
きゅっ。
「もー! からかわないでよーっ!!」なんて言いながら、反対の手で不死川君を押してみたりして。
右手の、火傷したみたいに熱の残る指先を、わざと壁にペタペタとくっつけながら階段を降りる。
なんだったんだろう。アレは。
今のはもしかして告白しちゃうべきだったのか。
いやむしろあそこで待っていればなにか言ってくれたかも知れなかったりとかするんだろうか。
ていうかなんで掴んだんだろう。からかっただけ?
私がすぐに赤くなるからーとか? でも不死川君だし。からかってる時はそういう顔するし。
今のは多分、そういう顔じゃなかった、と、思うんだけど。
一階と二階の真ん中。
踊り場まで辿り着けば、体がぎゅっと手摺りへと押し付けられた。
「わ! な、……に!」
振り返った先には、そういう顔をした不死川君が居る。
でも、そういう顔だと思っていたけれど、少し違う。
ちょっと、違う。
例えば、不死川君の頬が、凄く赤かったりとか。
例えば、よく見たら薄めの眉が下がってるとことか。
例えば、耳が、赤いとか。
「逃げんじゃねぇよ、バァカ」
って、笑ってから、とっとと階段を駆け下りていった不死川君の背中を、今度は私が追いかけた。
きっと次は、私が言う。
「逃げないでよ、バァカ」って。
動き始めた私のあしもと。
上履きのゴムが擦れて、キュッと甲高い声を上げていた。