短編 鬼 | ナノ

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初戀

私は戀と言う字が、一等好き。
まるで、私みたいだと思うの。
もし良ければ、私の戀の話しを聞いてはくれないかしら。



私は病がちだった。
体が丈夫では無かったのね。
きっと。
けれど私は決して、母を恨んでいる事は無い。
それだけは声を大にして言えるわ。

母は、「丈夫に産んであげられなくてごめんね」と私に謝るのだけれど、私は別段、そこに不幸を感じてなどいなかった。
それは、母には終ぞ言えることは無かったわ。
私は決して不幸ではなかった。
幸せだったかと問われると、わからないの。
本当は、街に住んでいた頃に、窓から聞こえる子供のはしゃぐ声に、外を歩いている袴を纏う女学生の華やかな姿。
それが酷く羨ましくて、泣いた日もあったのよ。
けれどそれは些末な事で、少しばかり癇癪のように発散するために言っていたようにも思う。

兎に角、私の心も含めて苦しむ姿を見て、空気の綺麗なところに、と母までもが山中の人里離れた場所に住むことになったのを、私はむしろ「ごめんね」と謝りたいと思うの。

父は、立派に街で働いていて、時折私に贈り物を持ってきてくれていたわ。
母と父はきちんと想いあっているのに、私の為に離れてしまう事が申し訳なくて、どうせ死ぬのだから、早く死んでしまえば、母も父のもとに帰れるのに。
どこかそう思っていたわ。
本当に「どうして私なの、」と思う事はあったけれど、幸せな家庭で、母は優しく強く、父は立派で、全部が私の誇りだったのよ。
大好きだった。
だから、決して私は不幸ではないの。

一度、私は鬼に襲われたことがあったわ。母と山の麓に住む医者のもとに行った帰りだった。
本当は、本当は私、死んでしまってもよかったの。
これで母は、自由だと思ったから。
けれど、駆け付けた鬼狩り様が、鬼を退治して、結果、私と母は藤の家紋を掲げることになったのよ。
 
その方は、山奥に住む私たちを気にかけてくださって、藤のお香を贈ってくださったり、時折訪れて私の様子を見に来てくださっていた。
けれどその年の冬以降、もう訪れてくださることは無かったわ。
今思えば、亡くなったのだと、思うの。
この山奥に、訪れる方は殆どいないから、まだ来ない。まだ来ない。
そう、三度目の冬を迎えるまでは毎日待っていた。

三度目の、冬を迎えた頃。
私はあの真っ白な人に出逢ったのよ。
きっと、あの方がご自分の変わりに、って遣わせたんじゃないかしらって、私はそう思ったの。

まだまだ朝日が出ていない、とても早い時分。
その日、もう冬も終わりを迎えていたのかしらね。
空気は肌に痛かったけれど、雪はそれこそ降っていないし、積もってもいなかった。
ただ薄暗い山。
それだけ。
こっそりと家を出ようとしたのを母に気付かれてしまったの。
今までも、幾度か朝早くに散歩をしていたのよ。
その日も、少しだけ散歩をして、帰るつもりだったの。けれど、母に見つかって、叱られてしまったから、つい必死になって口ごたえをしてしまったのよ。
履物も履かずに飛び出したわ。

そうすると、そこには真白な、まるで空からの遣いみたいな、あの人が居たわ。
暗がりで見たその真っ白な方は、木に寄り添うみたいに囲まれて、木の葉の影から覗く月明かりでまるで光っているみたいだった。
すぐ近くでお顔を見たら、「あぁ、違うわね」って、思ったのだけれど、真っ白な御髪に真白い肌。真黒な詰襟に身を包んでいるけれど、真っ白い羽織ものが全部を包んでいて、兎に角、白かったの。
鬼狩り様なのに、これじゃあ夜に紛れることが出来ないじゃない。
って、思っていたのよ。
でも、鬼狩り様は目立った方が良いのかしら?

目の前で倒れてしまったあの人を、母と二人で運ぶのは骨が折れたから、金輪際したくは無いわ。
その真っ白な人は、どこかに飛んで行ってしまいそうな見た目なのに、とっても重たいんだもの。

目が覚めたあの白の人が外に出てくるのを、私はとても楽しみにしていたのよ。
普段私は母屋には入ってはいけないから、外から見る事しか出来ないのだけれど、それでもお話してみたかった。

けれど、あの人はとっても不愛想で。
それは、見た目通りかもしれないわね。
近くで見た時に、おっかないなぁ、って、思ったもの。
父よりも、ずっと大きな体躯は木を彫りだしたみたいにごつごつとしていて、触ったら棘が刺さるんじゃないかしら、って。
運ぶときは怖かったのよ。

でも、私が咳込んでしまった時に「大丈夫か」と声をかけようとしてくださって、不愛想なのではなくて、不器用なのかしらって。思い直したの。
その日、とっても空が広かったのを覚えているわ。


あの方の代わりって言うのは、きっとそうでなかったのだと思う。
真っ白なあの人はあれから来て下さらなかったから。
私、また会えるものだと思って、ずっと毎日窓からあの人が来るのを待っていたのよ。

もうすっかり、無かったことのようになっていた頃。
正直に言うと、「忘れようとしていた頃、」ね。
烏がやってきたの。
山にも、たくさんの烏はいるけれど、そうでは無くて。
私の所まで来て、切り株に腰かけて草を眺めていた私の膝にとまったのよ。
それから。
それからよ。
私の毎日は静かに、けれど確かに色付いていったの。

嘴に咥えられたものは、可愛らしいハコベ。それから次の時は、綿だったかしら。
それから、列車の切符と千切れた和紙。
とんち問答みたいで、一体どんな意味があるのかしら、一体何に使われていた物かしら!って、考えて、お礼の手紙を何度も何度も書き直していたの。
毎日、切り株に腰かけて、押し花にした花を眺めて綿を揉みしだいて、和紙を擦り続けて。
太陽に翳してみたのよ。
そうしたら、「きっとこの油がついた和紙は、傘の切端だわ!」って、気がついて、急いで手紙を書き直したりもしたわ。

父以外の男の方から贈り物を頂いた事なんて無かったのよ。
文のやり取りのような事をしたのも、烏を使ってのやり取りも、たくさんの初めてに囲まれて、私毎日日が昇るのが待ち遠しかったわ。
夜なべして、星を幾度も数えたのよ。

私も、何かを返したかったのだけれど、いつ来てくださるか、とか、烏がやってくるのか、なんてわからないから、はじめのうちは毎日おやつを用意していたけれど、結局私のお腹に入っていっちゃうものだから、諦めることにしたの。

家じゅうの着物の綿を、全部私が抜いたわ。
父に本をおねだりして、切符を片手に本の世界を旅したの。
傘の切れ端が贈られてきたときには、一体何かわからなくて、わかった時にはもう本当に飛び上がる位に嬉しくて。
毎日傘をさして切り株の上に座っていたわ。
雨の日もそうしていたものだから、熱が出て、母にとびきり叱られたの。

でもね、私が毎日そうやって外に居るものだから、「最近、調子が良いのね」って、喜んでくれる。
それが一等嬉しかったわ。

それから、貝殻。
とっても素敵。潮の香りをたっぷりと、何度も何度も吸ったわ。
だって、あの人もきっとこの香りを感じていたんでしょう?
そう思うと、なんだかとても、胸が締め付けられたみたいに苦しいのに、頬が幾度引き締めても緩むのよ。
身体が火照って仕方がなかったわ。
何度も何度も嗅いだものだから、段々と匂いが薄れていってしまうのに、胸が痛んだの。

「次は、何かしら。」
「きっと、また素敵なものが来るんだわ。」って、ずっと、ずっと待っていたの。
そうするとね、私は素敵な事に気が付いたのよ。
空って、同じ色をしている日なんて、一日たりとも無かったわ。
毎日少しずつ、雲の形が変わって、光の差し方一つで七色に輝いて見せたりするの。
雨の日も、暗かったり、薄っすら明るかったり。
葉の光を反射して、青いお空は、よりたくさんの色に溢れていたわ。
あなたも、見ているかしら。
そうならいいのに。って、毎日毎日、その日のお話しをあなたに宛てて手紙を書いたわ。
すっかり引き出しに収まりきらなくなって、母に内緒で着物を一つ火にくべたの。
そのおかげで開いたところに手紙を入れ始めたのよ。
これは、きっといつか母に見つかってしまうわね。


「まだ、来ないかしら。」って。
雲の形が不思議な事に、烏に見えていたわ。
きっと、あの人を感じたかったのね。
そうしたら、その日ね、素敵なものを見たのよ。
雲の隙間から、まるで天女様が降りてきそうな程に綺麗な光の絨毯が降っていて、その光はだんだん大きく成ってこちらに向かってくるの。
「ああ、すてき。」って、呟いたときに、砂を踏む音がしたのよ。
やっぱりあの人は、神様か誰かが、私に廻り合わせてくださった方だと私思ったのよ。

あの日、思わず息をのんだわ。

「わ、あ……!!」

本当に、毎日お願いしていたの。「あの人が無事であります様に」って。

その日、初めて真っ白な人はお名前を教えてくださった。
私、こっそりとどこかで、あの人はこの世のものではないんじゃないか、って思っていたから、初めてあの人を普通の男の人なのね、って思えたのよ。
笑っちゃうかしら?

不死川さんに、何とかして毎日の喜びを伝えたくて、必死に話してしまってから、ちっとも不死川さんの言葉をきていなかった事に気が付いたの。
その日は、ご飯があまり喉を通らなかったもの。
もう、おしゃべりはしないって、その日に私、決めたもの。
それでもね、

「やる」

と、ただ一言ぶっきらぼうに落とされた言葉は私の耳孔から、頭の中に入っていって、頭の中全部を小刻みに揺すっていったわ。
全部の音が、不死川さんの声を響かせるために止んでいたような気がしたの。
それから、指先が触れたの。
それから、不死川さんは私を見ていた。
少しばかり、以前見た時よりも色付いた肌を晒して、私の眼を捕らえていたわ。

「また、お手紙、送っても、いい、かしら」

だから、息が、上手にできなかったのよ。
何だか、身体の自由が利かなくて。
これはきっと、病のせいなんかでは無かったわ。

「好きにしろォ」

顔を反らしてしまった不死川さんの眼が、またこっちを向かない事に、私も少し下を向くことになったのだけれど。
それで良かったと思うわ。
その時やっと、息が出来たんだもの。


「行ってらっしゃい」

その言葉に返事は無かった。
でも私、助かっちゃったわ。
それどころじゃなかったもの。
だって私、直ぐに叫んでしまいたかった。
もう、心臓がはち切れちゃいそうだったのよ。

石畳を踏みしめて少しだけ急いだの。
慌てて部屋に帰って、私、あの人と合わさった指を見つめる事しか出来なかったもの。
もう、駄目だったの。
いけない事なのよ。
なのに、あの人に、「お慕いしています」って、咄嗟に叫んでしまいそうだった。
今もそう、だったりするわ。
けれど、私はきっと、あの人よりもずっと、もっとずっと早くにいなくなるかもしれないから。
とっても言えそうにはない事よね。
あの人に、もう逢いたくてたまらなかった。
不死川さんに、逢いたかった。
ずっとずっと、不死川さんの温度が消えない指先が恨めしかったわ。
それでも、私の想いは届かなくていい。
届いてはいけないわ。
だからせめて、不死川さんを想うことは許して欲しい。
そう願うみたいに、許しを請うみたいに、彼の温度に口付けたの。




不死川さんに届けられることは無いけれど、私毎日彼に想いを綴ったのよ。
これは、私だけの秘密。
あぢさいの描いてある便箋が素敵だった。
傘の描いてある便箋はとっても筆が進んだのよ。
猫のものは、眺めるほうが長かったかもしれないわね。
そうして、父が定期的にくれていた便箋を使い切ってしまったから、不死川さんへの手紙がちっぽけな紙になってしまったことは、本当に恥ずかしかった。
父には、もっとたくさんの便箋が欲しいって、その後に強請ったわ。

毎日、何と告げればロマンチックかしら、って。
ずぅっと切り株に座って雲を眺めたわ。
星を、数えたわ。

『お慕いしています』『恋慕の念を抱いています』
『欣慕、』『鍾愛、』『愛敬。』
『恋焦がれています。』
どんな言葉で綴っても綴っても、不死川さんへの想いには到底届かなかったわ。
もっともっと溢れていって、ちっとも纏ってやくれなかったもの。
かさかさと音を立てる木の葉を見上げながら、不死川さんへの想いを毎日、一通綴ったのよ。

そうしていたら、烏が真っ白な雲を裂くみたいにやってきたの。
不死川さんの烏だって、直ぐにわかったわ。
だって、私の膝元の手紙を咥えて、行ってしまおうとするんだもの。
あの時、本当に清水から飛び降りたみたいに体全部が冷えたのよ。
本当に怖くて、それから手紙は部屋で書くことにしたの。

それでね、すっかり引き出しがたくさんになってしまったから、また、一枚着物を処分しちゃったのよ。
本当は、手紙を棄ててしまえば済むのにね。
どうしても、不死川さんへの想いを棄ててしまう気にはなれなかったのよ。
なんだか、私の心を棄ててしまうみたいで。
どうしても捨てきれないものが、箪笥の引き出しいっぱいに広がって、段々と増えていって。
まるで私の心を表しているみたいで、箪笥までもが可愛らしく見えてくるの。不思議なものね!

その時貰ったリボンを括るのは、骨が折れたわ。
とっても嬉しかったから、綺麗に結んで、不死川さんに見せたかったのだけれど、すでに結んでいるものを持ってきて下さったらいいのに!
って、悪くも無い不死川さんに文句の手紙を書いたわ。
言いたい事も、私の想いも、全部の籠った手紙が、毎日、増えていくの。
一日一通が、二通に増えて、三通に増えて。
彼からの便りが来なくなってから、ずっと。不安を誤魔化すみたいに書いていた。
便箋なんて、とうに尽きてしまって。
終いには真っ白い紙まで濡れて模様がついてしまうんだもの。渡すものではないけれど、それでも、とっても渡せるものじゃなかったわ。

だから、また小さな浅い紫の花が送られてきたときに、私、嬉しくて、安心して、初めて烏さんの前で泣いてしまったのよ。
声をあげて、わんわん泣いたの。
私を慰めるみたいに、ずっと傍に居てくれた優しい烏さんは、まるで不死川さんみたいだなぁって。おもったわ。

『サネミモ、テガミウレシイ』

その日、初めて喋る烏を見たものだから、本当に驚いて涙は止まってしまったし、不死川さんが腹話術でもしてるんじゃないかって、姿を探しちゃったのよ。
ちっとも見えなかったのだけれど。

「さねみ、さん……不死川さんね。」
『テガミ、マッテル』
「待ってるの?ふふ、嬉しい。」

嘴で、膝をつん、とつついた烏__いえ、烏さんは、私に不死川さんへの手紙を催促していたのよ。
不死川さんが手紙を喜んでくれている事を知って、私は心臓が止まってしまうんじゃないか・って。
慌てて近くの手紙を引っ掴んで、烏さんに持っていきながら文を読んで、火を噴いちゃうかと思ったわ。
急いで破ってから、烏さんに託したのよ。

『出逢ってくださって、ありがとう。』

そんなもの、渡せるわけが無いわよね。
頬を冷ましたくて、顔をめいっぱい扇いだわ。

後から知ったの。
父に貰った本に書いていたわ。
カタクリって、あんなに愛らしいお花を咲かせるのね。
凛として、とても力強いのよ。
気が付かなかったわ。
きっと、本当は私もどこかで見ていると思うのだけれど。
不死川さんは、そんなふうに、私に、いつも『ひろい世界』を教えてくれたわ。
私はそのたびに、指先が火照って火照って、頬が緩むのよ。


それから、病はやっぱりどんどん酷くなっていて、咳が止まらない事が増えていったの。
「もうそんなに長くない。」
お医者様に言われた言葉も、そうなんでしょうね、って。
受け入れられた。
きっと、素敵な毎日を送っていたからよ。
後悔なんてなかったもの。

薄暗い部屋でも、切り取られた空は美しかったわ。
蕩然としていた。
だから、毎日鶴を折ったの。
この悠悠たる世界に羽ばたけば良いのにって。
最初はね、『ご無事で有ります様に』って書いて折ったわ。
段々と、手紙の代わりみたいに、折って、箪笥に同じようにしまっていったわ。
『元気であります様に』『疫病退散』『幸福であります様に』
たくさん折ったわ。


不死川さんが来てくれた時、私体が跳ねたのよ。
本当よ。
もう殆ど布団に寝たきりになって、外に出られる時間が本当に少なくなっていたから、切り取られた広い世界をずっと眺めて過ごしていたのよ。
あの日も、綺麗な青が広がっていたように思うわ。
私ね、不死川さんが来る日は、いつも綺麗に光がさしている事に気が付いたのよ。
いつか、もう話さないわって決めたのに、はしゃいでしまって、またとってもたくさんお話ししちゃったの。
でも、今度は後悔なんてしなかったわ。

「握ってくれません?私、殿方と一度は手を繋いでみたかったのよ」

そういったけれど、本当は、不死川さんがよかったの。
彼をさいごに感じたかったのよ。

「もっとマシな男誘えェ」

って、言われてしまったけれど、
不死川さん以上に私が恋慕の念を抱ける人なんて、きっと居ないのよ。
私、そう確信していたもの。
これは絶対よ。
だって、いとし、いとし、って。心が言うんだもの。
ね?まるで私を表すみたいな文字でしょう?

不死川さんは、また、香袋をくださったから、嬉しくて。
私も、鶴を沢山折ったから、渡したかったのよ。
けれど、むせた拍子に汚してしまったから、もう渡せそうにもなくなってしまったわ。
この時ばっかりは、自分の体をとっても怨んだ。
泣き出したくなったのよ。
死にたくないって。
彼と、って。
もっと、もっとしたい事はあった筈なのに。
こんなときに限って願ったのは一つだけだったの。
「お慕いしております」って言って、彼に縋ってしまいたいって。
それだけだったのよ。

「やっぱり、無かったわ!」

声が震えていなければ、良いのに。って。
そうしたら、彼、初めて私の前で笑ったの。
不死川さんが、初めて、私の前で笑ったのよ。

初めて、笑ってくれたのよ。
私も、嬉しくて笑ってしまったの。

日が傾き始めていたわ。
不死川さんを攫って行ってしまうから、
私、黄昏時だけは嫌いよ。
口元を抑えたから、すっかり汚れた手だけれど、やっぱり不死川さんの温度はずっと残っているの。
だから私、彼をその窓から見送って、やっぱりその温度に何度も口付けたわ。


その後贈ってくださったものはね、
私、初めて意図が分かるものだったわ。
酷い。
そう思ったの。
不死川さんの優しさはいつも、私には、少しだけ痛かったのよ。
だからね。
「なら、あなたが貰ってちょうだい」って。
烏さんの前で叫んだんだわ。

「秘密ね」

って。
何度も烏さんにお願いしたの。
『ワカッタ』って、言ってくれるまで。
「言わないで」って、何度もお願いしたの。

烏さんが切り取られた空に向かって行ってしまってから、手の中でコロンと転がった蛤に、また涙が零れたのよ。

いつだって、不死川さん越しに世界が広がっていっていたのよ。
私の世界は彼が居て初めて広がっていくの。
だから、私の目の前で切り取られた広い世界がやっぱり、羨ましかったわ。
彼が溶けている世界に、私も行きたかった。
けれど、不死川さんを繋ぎとめる事なんて出来ないから。
せめて彼を感じていたかった。
ただその一心で、小さな私の世界で、小さな私への贈り物に、そう、と口付けたのよ。
ふわりと潮の香りが満ちたの。
その瞬間だけは、私は彼の隣で、波に足を浸していたのよ。

その日の星が、一等瞬いて見えたのは、きっと勘違いなんかでは無かったわ。




暫く熱が続いて、身体が酷く重たかったの。
だから、手紙も書けなくて、鶴も折れなくて。

それでも調子の良い日はあったわ。
でも、指が震えるから、綺麗に鶴が折れなくなって、小さな文字も書けなくなったのよ。
これじゃあ、烏さん、運べないかしら。
って、だんだんと大きく成る便箋に笑っちゃったわ。

『お慕いしております』

そう書いて、包んだ真っ赤な折り鶴。
これだけは渡せないわね。って、笑ってしまったのよ。

今度は渡すための手紙を書いていたのだけれど、視界がぼやけてしまって、ちっとも前が見えなかったものだから、書き切るのには随分とかかってしまったわ。

その日、まだお昼時を過ぎた頃だったのに、私は酷く眠たくて。けれど、烏さんが来てくれるかもしれないから、ずっと、切り取られた美しい絵みたいな空を眺めていたの。

そうしていたらね、野焼きか何かをしていたのかしら。
真白い煙が、遠くで燻っているのが見えた気がしたわ。

だからかもしれないわね。
私、彼への想いが、あの煙に乗って空高くまで溶けていけばいいのに。って思ったのよ。
そうすれば、私の気持ちって、ずぅっと空に残っていそうでしょう?
不死川さんと同じ、真白になれるでしょう?
その瞬間だけ、不死川さんの傍にいけるでしょう?

そんな事を考えながら、枕元に置いた香袋の藤の香りに包まれていたら、だんだんと指先に不死川さんのぬくもりを思い出したから、私はそのぬくもりに口付けながら目を閉じたの。

どうか夢で、彼に会えます様に、って。

きっともうすぐ、夏が来るわ。
青い青い八月の
真白をたくさん集めた雲の下で、
さんざめく波の声を聴きながら
彼と足元を濡らすのを、夢に見るわ。
                end

初戀


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