小説 | ナノ

盆終わりの時宜であったと思う。
裏の家に住む、荒木のおじさんが私が住まわせて頂いている里中さとなかの家の戸を叩いたのは。

「はぁい」

少しささくれ立った、年季の入った門戸を、一度磨いた方がいいのだろうか。そんなよそ事を考えながら、庭仕事で汚れた手を前掛けで拭い、私は表まで出ていった。

この里中の家と言うのが、この古くからある集落の一番の金持ちの家である。
とはいえ、この集落自体が然程大きなものでもない上、里中の家も「大きな家」とは言えない。けれど実質この集落では何かあれば「里中の家に」と言う何某がまかり通っている。そのくらいの家ではある。逆説的にここはそれがまかり通るほどには田舎であった。
里中の家の伝聞すべてを信じているわけでは無いけれど、昔はこの家の表通りを挟んだはす向かいの沖田の家を超えたところにある小さな丘。その向こうに広がるまた小さな村があるのだが、ここはその一部だったのだそうだ。
まだその村とここが一続きになっていた頃に、なにぶん『鬼が出た』とかで、この集落は切り離されることになったのだとか。
未だに私たちが村へ出向くことがあれば塩を撒かれる事があるんだとか。

とは言え、私は実のところその村の出身で、この里中の家に奉公人としてやってきている。帰ることは今はもう無い上に、私が向こうの人間だと覚えている人が居るのか居ないのかもわからない。
さらに言えば、鬼などとにわかに信じられるものでもなければ、旦那様なんかは良く、麓へ通りていくのだから、どこまでがただの噂で、どこからが本当なのか。そんな事はもうわかりはしないし、確認しようとも思わない。
こうして毎日がそれなりに暮らせれば、それで十分だと思うのだ。

門を開くと、荒木のおじさんが立っており、どこか焦った様子で「正造しょうぞうさんは居るか」と尋ねられる。
いつもなら手元に、朝収穫した野菜なんかを持ってきて「これ、炊きな!」などと言って下さるものだから、そう言った類だと思っていたのだけれど、どうにもあてが外れたようだ。

「旦那様は村に下りております。今日は帰って来られないと思うと仰られておりましたが」
「あぁ、ほんとうかい、なら久さんはおるかな」
「ええ、どうぞこちらでお待ち下さい」

荒木のおじさんを中へと通し、玄関に一番近い縁側まで案内をする。

「すぐに呼んでまいりますね」
「名前ちゃん、ありがとうね」
「いえ」

泥で少し汚れた足袋は三和土で脱ぎ、奥間で書き物をして居るのであろう奥様の久さんを訪ねた。
障子に仕切られた向こう側に、奥様はいつも居られる。
なにやら私には難しい書物がたくさん広がっているのを目の当たりにした日から、そこは私の苦手な部屋であった。お掃除が大変なのだ。

廊下に膝をつき、「おくさま」と呼びかけると、いつもと同じ、高く柔らかな音で「はぁい」と返事が返ってくる。

「荒木のおじさまが」
「あら」

ぱたぱたと、裾を裁く音と一緒に目の前の障子がサッと開き、私は体をもう少し奥へと引っ込めた。

「あの人は帰って来ないのに、困ったわね」
「旦那様にご用事だったようなのですが、居られないと伝えましたら、奥様を呼んでほしいと」
「そう、ありがとうね」
「なにか慌てておられたのですが、大丈夫でしょうか」

奥様の後を歩きながらそう尋ねると、口元へと長く滑らかな手をやった奥様は細い音を漏らしながら笑う。

「あの人、いつも大げさなんだもの。何もないわよ」
「……そうですね」

縁側へと向かった奥様とは途中で別れ、私はお茶の用意をする。
お盆へと乗せたお茶を運んでいると「まァ!」と奥様の高い声が響いた。
出来るだけ速足で向かってしまったのは、何もない日常に、なにか新しいものが吹き込むのではないだろうか。なんて予感がしていたのかもしれない。
日がな一日土をいじり、家事に明け暮れる以外に何かが起こるのではないかしら。なんて、私は思ったのかもしれない。

荒木さんの傍へと湯呑を置き、「なぁ、名前ちゃん」なんていう低くしわがれた荒木のおじさんの声を聞いた。

「え、……な、んでしょう」
「荒木さん!」

奥様の厳しい声を私はすぐ傍で聞いた。

「こんなところで遣いに出せる人間なんて、限られとる。若いモンでねぇと、あッこまでは厳しいだろうよぉ」
「そう言われましても、いきなりそんな!名前も、怖いでしょうに」
「なら沖田さんとこのそうちゃんにお願いするんです?それこそ無茶でしょうに」
「ヤマさん所の娘さんいらしてたでしょ」
「いやぁ、それが……ここだけの話、ずぅと籠っとる思ってましたら、おめでたやったらしい」

そこまでを荒木のおじさんが言うと、二人の視線が私へと向く。

「……え、」

パチンと荒木のおじさんは顔の前で手を合わせ、奥さまは静かに口元を着物の袖口で隠した。

「堪忍なぁ、名前ちゃん」
「名前、"鬼狩り様"って、知ってるわね」
「ぁ、……その、わかりません、奥様」

なんとなく、言葉から理解は出来はするけれど、果たして何かを例えているのかも知れない。
そう考えると判断がつかなかったので、私は素直に尋ねることにした。──まさか、本当に鬼やら何やらと、言うわけではあるまい、と。

奥様と荒木のおじさんは顔を向かい合わせ、小さくため息をこぼしてからどちらともなく話し始めた。

「ここいらでは昔、鬼が出た。そう言う話しはしてるわね」
「はい、奥様」

奥様ははらりと落ちた横髪を耳へと流しながら、また口を開く。
なんとも話しの読めない中、ただただ不安と疑問だけが私の胸の中で渦を巻く。
そんな私から目を逸らすように、荒木のおじさんは下を向き、親指の爪の間の土を落とそうと爪を捻じ込んでいた。

「鬼はね、"鬼狩り様"がやっつけてくれるのよ」
「おにがりさま……」

荒木のおじさんの爪をはじく、ぱちンと言う音が響く。

「そう、鬼狩り様。ここの集落も少し前にはね、鬼狩り様にお世話になったこともあったらしいのよ。なにぶん、少し前な事だから、もうその鬼狩り様は生きておられるかはわからないんだけどね」
「そう……ですか」
「私が産まれる、ほんの少し前の事らしいのよ」

奥様はそう続ける。

「それ以来、この集落と麓の村ではね、鬼狩り様がいらしたら、きちんと持て成しをしましょうね、って取り決めがあるのね」

私は小さく頷いた。

「この、上に居を構えるらしいのよ」

そう言った奥様が指さした先は、この山を切り開いてできた集落の、もう少し小高い位置だ。

「おもてなし、しませんと」
「そうなのよ」

私の言葉に、うんうんと頷いて、奥様はこうも続けた。

「ここに居を構える、って言う事は、その、つまりね、暫く住まわれる、という事よ」
「"鬼狩り様"が」
「そう」

奥様は少しばかり言いにくそうに言葉を、それでもしっかりと告げる。
なんとなく話しの風向きが分かった私は、まだ骨組みも何もない、空き地のままの少し開けた木々の向こうを見る。
鬼狩り様。にわかには信じがたい事ではあるけれど、大の大人がこうも戦々恐々とした面持ちで言うのだから、恐らく本当にそうなのであろう。
荒木さんがどこからこのお話しを持ってきたのか。それは私にはわからないところではあるけれど、奥様が言うのだから、本当の事なんだろう。改めてそう思うと、なんだか不安になるのだから、奥様も人がお悪い。サッと一思いに言ってくだされれば良いのに。
私はまた、奥様の顔を見た。

「鬼狩り様に助けられた家はね、"余裕があれば"『藤の家紋』を掲げてくれませんか、って打診が来ていたそうなのね。藤の家紋を掲げるとね、鬼狩り様たちの日々の憩いの場として提供出来ます、っていう意思表示になるらしいのよ。そうは言っても私たちにそこまでの余裕もないし、っていうのもあったものだから、なら『何かあれば力になりましょう』って言うことでお話しは終わったらしいのね。
そこまでが、先々代のお話しなのね。で、ここからが"今"のお話しなんだけど」

そう言って、奥様はまた髪を撫で上げる。

「名前、ごめんね」

そう言った奥様の目が、私を見ていた。

□□□□■

そうして半月もしない間に建ってしまった、立派な塀に囲まれる、恐らく里中の家よりもずっと大きな屋敷を私は遠目から眺めた。
奥様と一緒になって拵えたお餅たちを詰めた重箱がそれなりに存在感を持ち、私の腕に納まっている。
ここから声をかけて、届くものかしら。
後ろを見ても、私たちの集落が目に入ることはない。竹でできた囲いが、視界を遮ってしまっているからだ。
集落の皆は、「鬼狩り様が来た、鬼はもう心配いらないな」なんて浮足立っている人もいるのだが、進んで自分から足を向けよう、と考える人は居なかったらしい。
私も、奥様や旦那様の言いつけでなければ、来たくは無かった。
鬼と戦う人がいる。そんな御伽噺を信じ切ってしまう気にはならないと思っていたのだが、奥様や荒木のおじさん、旦那様のそわそわとした様子から、「もしかしたら」が段々と大きくなっていき、今となっては「どんなにおっかないかただろう」と今にも震えだしそうな足を叱責しなくてはならない程であった。

かれこれ四半刻と思えてくるほどに長らく、立派な門構えを前にした私は、声を一つとしてかけられていない。
どうにも喉が震えるから、上手く言葉が出るかもわからないのだ。
とは言え、さすがにそこまでの時間は経っていない。九月とはいえ、こんなに暑い中にそこまで立ちすくむことは容易ではない。だから、あくまでもそういう気持ち、ということだ。
それでも、じりじりとした日差しは容赦なく私の手元を刺していた。

「あ、あのぅ……」
「オイ」

そうしてやっとこさ、と言っても良いほどに漸く絞り出した情けなく震えた声は、ずっしりと地に落ちそうな程にも聞こえる、男の声に一気にかき消された。
思わず跳ね上げた肩もそのままに後ろを振り返ると、男のその鋭い、鋭すぎる双眸に目を剥くことになった。

俺の家・・・になにか用かィ」
「きゃ、ぁ!」

私は漏れ出る悲鳴をなんとか口元を塞ぐことで堪えようとして、重箱を地に落とす。
がしゃッ、と可哀相な悲鳴を上げて落ちた重箱からは、昨夜から奥様と拵え、用意しておいた餅やらお煮しめが顔を出してしまっている。
一歩足を引いた。
あまりにも大きく開く血走った目に、顔中を走る傷跡。それは、大きく開いた胸元にすら色濃く刻まれてある。
すべての要素が、その男がただ者ではないことを如実に語っていた。
そうして更に男の眉間に皺が刻まれる頃には転げるように、私はその場を後にしていた。

恐らく、きゃあ、だとか、いやぁあ!だとか。
それはそれははしたない、奥様が聞きでもしたら「だらしない!」と一括されてしまいそうなほどの大声を上げていたと思う。


そのうち足を木の根元へと引っ掛けてすっころび、顔を手で覆って泣き出すころには、お重をそのまま放ってきてしまったことであるとか、せっかく昨夜奥様と拵えたものを無駄にしてしまった事をだとか。
そんな事を考えていたのかもしれない。
お重の末路を考えようとしても目に浮かぶように思い起こすことが出来るのは、あの塀に切り取られ翳った中でも爛々と、鈍く光る二つの眼光であった。
私はどうしてこんなにも圧倒的な存在感をあの男は放っているのだろう。そんなことを考えていたのかもしれない。
今度は痛みで震える足を踏ん張り、立ち上がる。

「オイ」

今度は先よりも、ずっと遠くで張り上げられた声であった。
けれどその音の持ち主を覚えていた私は震えあがり、結局はまた駆けだしていた。


その夜、私は旦那様と奥様にこっぴどく叱られて、ぐずぐずと鼻を啜りながらお許しを貰えるまで薪を割り続ける事になった。

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