微量の酒の匂い


結局水を貰おうとしていた筈が出身が同じ養成所というだけあって、アルミンやコニー、サシャ達と訓練兵時代の話に華を咲かせていた。
彼らもキース教官に苛く扱かれたらしく、特に”通過儀礼”の話題になると一層賑やかになった。

「――えぇ!左手で心臓を捧げちゃったの」
「そうなんですよコニーったら!おっちょこちょいです!」
「おっちょこちょいで済ませるのかそれ…ただの阿呆だろ」
「いや、馬鹿だな」
「マジで死ぬと思ったなぁー…」

サシャ、ジャン、ユミルに貶されているのは目を半開きにして回想するコニー。自分が罵られているのは聞こえていないみたいだ。

「サヤさんはどうだったんですか…?あれを受けたんでしょうか」

アルミンの言葉に皆がこちらを見た。巨人が最初にウォールマリアの壁を突破したのは845年。つまりサヤ達の代が訓練兵となる約1年後の話であって、当然志願した者の中に巨人を実際に見た者は一人もいない。
先に地獄を味わった志願兵もいるエレン達の代とは少し違うのではないかというアルミンの質問だった。

「うーん。あったけど…私はあまり話したくはないなぁ」
「えっ、サヤ班長もやらかしたんですか!?」
「なに自分のこと棚に上げて目輝かせてんだよ、芋女」
「そそ、っその話はいい加減忘れてくださいよ!」

小競り合いを横目に今度はサヤが回想に耽る。
――あの恐ろしい教官の顔が視界いっぱいに広がった。自分は堅く敬礼をしている。キースが叫び、唾が頬に飛び散って、サヤは大きく口を開け、叫んだのだ。

“この世界こそ豚小屋です―――!!”

あの後散々異端を嫌う訓練兵達にいびられ、貴族の階級が邪魔をして大変な思いをしたのだ。思い出すだけで居心地が悪くなる。
…しかし、それと同じくらい大切なものができたのも事実で。

「…具合でも悪いんですか、サヤさん」

虚空を見つめていたサヤにアルミンが不思議そうに伺ってきた。

「あぁ、ごめん。ちょっと酔いが覚めないみたいで…」
「お酒…?そういえば、ハンジさんの餌食になってるって他の兵士が言ってたな…」

もう先輩兵からハンジの注意事項について教えられたのだろう、数名が同情する視線を送ってくる。
その時。

「――聞かせてほしいもんですね、その巨人の研究とやらを」

この集まりの端の方から声が投げられた。
顔を上げれば、肩幅が広く体格のいい金髪の男がこちらを見て笑っている。隣には細身で長身の男がびくついた仕草で隣の男とサヤを交互に見つめていた。

「あなたは?」
「ライナー・ブラウンです。ちょっと気になりまして…間抜けな巨人に執着するハンジ分隊長の成果とやらが」

口元を吊り上げて水を飲むその声色は、少し挑発じみている。周りの兵士も彼を咎めようとしたが、サヤが口を開くのが早かった。

「本当にそうかしら」
「…はい?」
「あの巨人達って、間抜けなの?消化器官も無いのに人間を捕食するから?知能が乏しいから?」

人間を、戦友を、無差別に引き千切り食べる巨人は確かに憎悪の対象になるのかもしれない。
けれどその巨人を違う見方で知ろうとするハンジを迂遠に貶したのは悪い。少なくともサヤにとっては…。

「でも、あれは”武器”になりうる」
「武器…だって?」
「別の視点で考えるの。栄養源でもない人間だけを食べ、殺す…貴方の言う”間抜け”な生き物とやらをね」
「ッ…」

ハンジが明かそうとしているのは、そんな万人が考え及ぶとは限らない事実だ。誰も調べようとはしない…けれど確実に意味のある研究。
サヤの言葉に唖然としたのはライナーだけでは無かった。ただアルミンだけは感心したようにサヤを見つめて、その白群色の瞳を揺らしている。

周りが賑やかな中、サヤのいる所だけに訪れた静寂に熱を帯びていた思考は急に蒸発した。まずい。酔いに任せて理性が無くなってきているのだろうか。

「まぁ…これは偏った仮説の一つでしかないけど…今のところは……」

決まり悪そうに微笑んでみせるサヤには、いつかの恐れが見え隠れしている。――瞳が怖い。異端だとみなし一線を引いてきた記憶が蘇った。

しかし、そんな重たげな沈黙に水を差したのは意外な人物で。

「オイ…何がなしここだけ空気が不味いようだが?」
「リヴァイ兵長!!」

突然の重役の登場に、ジャン達は頗る動揺したようだった。皆真っ青になり人類最強と謳われる男を凝視している。周りで和気藹々と食事をしていた兵士達も、その存在感に身を小さくしていた。
サヤも例外なくぽかんと口を開けてリヴァイを見上げている。

「お前か、元凶は」
「そ、そんなつもりじゃ…なかったんですけど…」

一旦否定したが非があるのは自分である。
尻窄まりに言葉をつないだサヤは力なく俯く。微量の酒の匂い。伏せられた睫毛は天井の灯りで赫いて――一瞬それに目を奪われたリヴァイは舌打ちをしたい気分になる。実際、周りに響いてしまったが。

「サヤさんは悪くないんです。むしろ、その…」

言い淀むアルミンの隣で、ミカサは黒いオーラを纏っている。

「そうか。邪魔したな」

それだけ言い残して、リヴァイはサヤを連行して宿舎へ去っていった。殺気を放つミカサは無視したようだ。


「――なぁライナー、なんであんなこと聞いたんだ?らしくねぇ」

再び賑やかな空気を取り戻し、食事を再開したジャンがパンを齧りながら尋ねる。ジャンの疑問に顔を上げたライナーは、ぎこちなく首を振った。

「さ、さぁな…よく分からん」
「はぁ?なんっだそれ」

戯けてみせようとするが、その額には汗が滲んでいる。隣に座るベルトルトは咎めるような…どこか怯えるような表情でライナーを見つめていた。



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