鼻腔を擽る幽香


 結界が敗れ静まり返った空間が、肩で息をする瀬亜と二人を包む。
 首の骨は砕かれはしなかったが、食い込んだ呪いの爪が瀬亜のそこからぽたぽたと鮮血を流していた。

「首出せ、手当すんぞ」
「っ」

 まだ意識のはっきりしない瀬亜に手を伸ばした五条はしかし、白い手に強く跳ね返される。

 まずい。せり上がる飢餓感に、瀬亜は息を荒くしながら目と口を塞いだ。
 熱く、甘い匂いが鼻腔を擽り鳥肌を立たせる。体内の呪力が不足しているんだ。早く呪霊の血を取り込まなければ…。

 そう慌てて手を伸ばした瀬亜の視界には、不快そうに眉を顰めている男の姿が映った。

「…傑、手当て代われ。俺さっきのオッサンに報告してくるわ」

 返事を待たず神社を抜けていく背中を追う瀬亜に、夏油が優しく声をかける。

「アイツは大丈夫だよ、瀬亜。それより今は呪力を取り込んだ方がいい。不足している筈だから」
「…はい、すみません」

 瀬亜はどこか遣る瀬無い気持ちになりながら、大人しくその提案に従った。

 彼が嫌いなわけじゃない。
 ただ、五条悟という男から漂う幽香が気を狂わせてしまうのだ。どんな呪霊の血よりも佳良な匂いをするソレを一度意識してしまうと、鼻を塞がなければ無我夢中に欲してしまいそうで。

 ―――ごくん。

 生臭い紫色の血を両手から飲み込む。呪力不足による吐き気や発汗は治ったけれど、今度は別の不快感に瀬亜は口元を押さえた。

「うっ…ぇ」

 邪霊の腐敗した残飯のような味は、何度飲み込んでも慣れやしない。

 濡れて凍える手を唇にあて嘔吐感を堪える。すると、蹲る瀬亜の肩に温かい何かが掛けられた。
 驚いて見れば夏油の大きな学ランで、隣に座る本人は白いシャツ一枚で瀬亜の背中を摩っている。

「こんな、大丈夫です。夏油さんが風邪ひきます」
「良いから、君を労らせてくれ。水に濡れたままでは体温が奪われるだろ」
「…」

 そう言って頬に張り付いた瀬亜の髪を耳に掛けたた夏油は、細い目を線にして微笑んだ。
 温かく大きな親指の感触に戸惑っていると、夏油は血の伝う瀬亜の口元を眺めながら「それに」と付け加える。

「不謹慎だけど、私は瀬亜に親近感を抱いているみたいなんだ。…不味い思いをして非術師を守る君に、自分を重ねてる」

 寂しそうに呟くそれを、瀬亜はただ眺めることしか出来なかった。言葉を掛けようにもどう言って良いか判らない。
 まさか五条と同じ雲の上にいる夏油傑という男が、自分に自分を重ねていただなんて、誰が想像出来るだろう。

「でも、私は貴方とは違います…。私は大義もなく、利己的な理由で此処にいるんです。死にたくないから」

 呪力でまわる体は、もし事故を起こして失血などした場合一般的な輸血では命は助からない。
 呪力に依存する故、社会生活が困難でこの世界に住うしかなかった瀬亜と、強者ゆえに人を守る使命を全うする夏油とでは比べ物にならないのではないか。

「ふむ…。君はもっと自分の価値を肯定した方がいい」

 自分の無力さに俯く瀬亜を覗き込んで、夏油は考える仕草をした。

「瀬亜は自分が思ってるより素敵な人だよ。今回だって、村の人を助けられた」
「それは五条さんが…」
「いや…これは私の憶測だが、夜蛾先生は掴み所のない呪いの存在を炙り出す為に、瀬亜をここに派遣したんだと思う。君には呪霊を惹き付ける能力があるだろ」
「それで私を?」
「ああ。囮に使われるのは毎度気分は良くないだろうが、私達は瀬亜の呪力の痕跡を追って目標を祓うことが出来た。…紛れもない君のおかげだよ」

 柔らかい声で頭を撫でる夏油に、凍える身体が弛緩する。

 確かに集落に着いたとき、呪霊の存在は霞がかっていて場所を特定するのは困難だった。その報告を受けていた先生が瀬亜の能力を買ってくれたのか――。

「おーい、嬢ちゃん。ずぶ濡れなんだってぇ?」

 そこに、分厚い毛布を担いだ先程の男が駆け足で登ってくるのが見えた。よく見れば後ろにのそのそと付いてくる五条の姿がある。

「あの坊主から聞いたよ。何か、よう分からんけど解決してくれんだろ。ありがとな、アンタ」

 座っていた夏油が立ち上がり、瀬亜の氷のような手を引く。

「……いえ」

 ずっしりと重く線香の匂いのする毛布に包まれながら、瀬亜は枯葉の鳴る参道を後にした。
 空には夕焼けに照らされた雲が炎のように輝き、一日の終わりを告げている。

「帰り補助監督に頼んでどこか寄り道してもらおうか。お腹空かない?」
「パフェ行こーぜ。駅前に有名な店あんだよ寄らせろ」
「…まぁ、今日は悟に付き合いますか。瀬亜も行くだろ?」

 覗き込むように見つめてくる二人を見上げて、瀬亜はぎこちなく頷いた。


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