睫毛を濡らしながら


 見知らぬ男の荒い息遣いが、ずり上げられた制服の下から聞こえて来る。
 抵抗しようにも先刻の戦闘で呪力を使い尽くした身体ではどうすることも出来ず、瀬亜は唇を噛み締めて声を殺していた。

 嫌な予感は現実となり、不快な手が瀬亜の熱を引き出そうと性急に身体を弄る。

「そんな我慢しないで、可愛い声聞かせてくれよ」

 気持ちの悪い猫撫で声から逃げたくて身体を捩れば、今度は恍惚とした顔で瀬亜の背中に腕を回した。

「っ嫌!」

 プチンと小気味良い音が響いたかと思えば、胸の圧迫感が消え外気を直に感じる。そこに生温い息を吐かれると、とうとう我慢ができなくなって情けない声が漏れた。

 湿った舌が先端を味見するように掠る。瀬亜の怯える反応を見るとさらに大胆に表面を押し付けてきた。
 拒絶の叫びは声にならず、呪霊の毒で弱っていく一方の身体では手首の拘束も意味を成さない。

 まさに絶望。真っ暗闇。
 このまま全身を毒に犯されて逝くのが先か、身体を弄ばれ心を手折られるのが先か――。

「――見つけた」

 刹那、澄んだ声が空間に響いた。

 自分に跨る男が驚いて振り向くと同時に、瀬亜の視界にも長身の影が飛び込んでくる。

(どう、して……)

 いつになく表情の読めない丹精な顔が、縛られて動けない瀬亜と、それに馬乗りになる男を冷たく見下ろした。

「五条さん…っ」

 絞り出すような声と溢れる涙は、安心したからではない。

 瀬亜は絶望していた。
 この空間に居てはいけない人が、呪力に飢え過敏になった鼻腔へ強烈な匂いを突き付けているのだ。

「もしもし、傑。居たわ…住所送った」
「誰だオマエ!?どうやってここに」
「お前が襲ってるやつのクラスメイト。方法はまぁ…秘密で」
「ハァ?」

 混乱気味に聞き返した男に一瞬で近づいた五条は、そのまま襟首を掴んで容赦なく右頬を殴る。
 男が地面に叩き付けられる音がすると、瀬亜の身体は軽くなり照明が視界を奪った。

「ヒッ…やめ、助けてくれ…!!」
「誰が聞くかよ、馬鹿が」

 逃げようとドアへ向かうそれを長い脚で転がそうとした五条はしかし、苦しそうに喘ぐ瀬亜の異変に気付き振り返る。
 ガタガタとドアへ体当たりをして逃げていく足音。半殺しにしてやろうとばかり考え興奮していた頭は瀬亜の乱れた制服に雑音が増すようで、五条は振り払うように頭を掻いた。

「あー…。放置して悪い」

 照明に晒された肌をなるべく見ないように近付いて手首の拘束を解く。赤く腫れ、くっきりと紐状に現れた青痣に思わず触れようとした瞬間、瀬亜が拒絶するようにその手を払った。

「ぁ……ごめんなさ、」

 またやってしまった。すぐに後悔するけれど、今はそれどころでは無い。

 五条の身じろぎで幽香が鼻先を切なく擽る。
 理性を掻き毟る飢餓感に目や耳、鼻腔からの情報を遮断しようとベッドの端に蹲った。

 沈黙。
 善意を拒まれた五条がどんな顔をしているのか容易に想像出来る気がした。叶うことなら今すぐ向き合って謝りたい。助けてくれたこと、探し出してくれたことに感謝したい。

 けれど今は駄目だ。駄目なのだ。

「瀬亜」
「っごめんなさい、来ないで。今は一人にして下さい」
「そんな状態でほっとけるかよ」
「大丈夫、ですから……こんなの、すぐに服着て戻りますから」
「そうじゃねぇ」

 少し荒っぽく、切ない声でそう言った五条が瀬亜の肩を掴み壁に押し付ける。無理矢理向き合わされ濃度が高くなる匂いに眩暈がした。

「…いやだ」

 睫毛を濡らしながら口元を押さえる瀬亜を、五条の揺れる瞳が覗き込む。

 間近で嗅いだ五条のそれは、花の蜜のような薫りだった。自分を壁に閉じ込める男の身体中から漂う誘惑に、瀬亜の背中が鳥肌を立てる。

「瀬亜」

 ――『飲め』

 だからその言葉を、最初は幻聴だと思った。
 頭が狂って自分に都合の良いように聞こえてしまったのだと、そう勝手に完結した瀬亜は五条が上着を脱ぎ始めるのを見て身を強張らせる。

「なに、して…」
「俺の血飲ませんだよ。服汚れるだろ」
「っ意味が分からないです。私は呪霊の血が……」
「オイ」

 その先を、冷たく綺麗な瞳が牽制した。

「ここへ向かう途中、俺が何を目印にお前を追ってきたと思う?」

 上着を全て脱ぎ終えた五条が、抜け殻を投げ捨てながら問う。ベッドの外へ消えていくそれを無意識に目で追った瀬亜は、質問の意図が分からず眉を寄せて男を見上げた。

「なんでお前から硝子の呪力が視えるんだろうな」
「!」

 その言葉に、瀬亜の肩はビクリと震える。分かりやすい反応に口元を吊り上げた五条は、瀬亜との隙間を埋めるように屈み細い顎を捉えた。

「お前が不自然に"呪霊"の血って言い切るのも、俺から逃げるのも納得。呪力があれば人の血も飲めるよな」
「…そんなの」
「したくないって?却下だ。そうやってチンタラ善人面続けてっと無理矢理飲ますぞ」

 一段と低くなった声が瀬亜の耳元に押し付けられる。

「ッ」

 その弾みで唇に触れた男の白い喉仏に、全身の血が逆流し熱く滾った。
 理性を屠った本能が当然のようにその首へ両手を伸ばし、皮一枚隔てた熱を求める。ギリギリのところで爪を立てないように震える瀬亜を見下ろし、五条は恐ろしく艶美な表情で目を細めた。


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