微笑む残像
思いもよらない呪霊の情報が飛び込んできたのは、ある日の放課後のことだった。
「鏡?」
いつものように2人と帰路を歩く瀬亜は、隣でスマホを弄るリコを見上げる。
「そ。この前あの人達がウチの学校の噂話に興味持ってたじゃない?だから調べてみたのよ」
「話のネタにしようってことか」
「そうとも言う。いつ会えるか分からないし」
先日のカフェで呪霊についての情報を駄目押しで尋ねてくれていた夏油を思い出しながら、瀬亜は神妙な面持ちで頷く。
あの時は予想外の展開に気が動転していたが、やはり夏油は情報収集に余念がない。
「それで、鏡が関係してるってどういうこと?」
自分も後に続かねばと口を開いた瀬亜に、リコは意味深な目つきで二人を見回した。
「――割れてるらしいのよ、鏡が。自殺があった現場全てにその現象が起こってるから、警察も気味悪がってるって噂よ」
「共通して起こってんのは確かに変だな。…けどそれが自殺と何の繋がりが?」
「もー分かってないわねぇ!だから噂として盛り上がってんでしょ?たかがゴシップに現実性求めんじゃないわよ」
「はぁ、そう言うこと」
呆れて息巻くリコに、ミヅキが興味を無くしたように鞄を振り回し先を歩いていく。
その後ろで、瀬亜は目を丸くしたまま立ち止まっていた。
そうか。盲点だったと、瀬亜は手を握りしめる。
情報開示の権限で確かに現場の状況は頭に入れていたが、呪霊の仕業だと断定できる痕跡ばかりを追って手掛かりを見失っていたらしい。
「どうしたの瀬亜?」
固まる瀬亜を不思議がり、リコが振り返った。続いて気付いたミヅキも首だけ振り返り、きょとんとした顔で此方を見つめている。
「…今日は先帰って。教室に忘れ物した」
「課題?古文のプリントなら俺のコピー出来るけど」
「えっと、携帯も忘れちゃったから一旦戻るよ。ごめんね」
慌ただしく踵を返すそれを、2人は気の抜けた顔で見守っている。
やがて思い出したように振り返った瀬亜は、通学路に立ち尽くす小さな影をじっと見つめた。
この一件が片付けば、自分は彼らの前から消えなければならない。
嘘から知り合った友人。いずれまた無縁になると思って関わった世界の住人だ。なのに、惜しいと思うのは何故だろうか。
「どうした、瀬亜。取りに行かなくていいの?」
その声にはっとして顔を上げた。
「……ごめんなさい」
彼らに聞こえない声でそう呟いて、瀬亜は大きく手を振り高校へ戻っていく。
どちらにせよ、瀬亜の身体は非術師の世界では保たない。そこに選択肢は存在しないのだから、この感情は枷になるものだ。
そう振り払うように風を切る瀬亜は、心無しか暗い圧を放つ校舎の中へ駆け込んだ。
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1階の来客用トイレから隈なく調べて約30分が経過し、腕時計は18時を回ったところ。
呪霊の気配すら感じないまま3階の女子トイレの鏡の前で立ち尽くす瀬亜は、長方形に映る自分の姿と睨み合っていた。
(鏡を調べれば何か分かると思ったんだけど…)
制服に身を包んだ黒髪の女が、やや途方に暮れた顔で此方を見ている。
肩にある髪が俯くとともに胸へ流れた。冷たい手洗器に両手をつき、ゆっくりと顔を上げると――。
「え…?」
瀬亜は確かに、自分の口端が吊り上がるのを見た。
思わず一歩後退するそれはしかし、何の変哲もない鏡となって驚いた顔で此方を見ている。その瞬間僅かな呪力を頭上に感じて、瀬亜はすかさず携帯を取り出し担当の補助監督に電話をかけた。
「もしもし、星乃です。校舎の屋上に呪霊の気配がありました。"帳"の許可をお願いします」
それから校舎にいる人間の避難が完了したのは15分後のことだった。
報告の電話が入り、瀬亜は屋上へ続く扉の前で呪文を唱える。段々と夜になる景色を眺めながら、ゆっくりと扉を開いた。
ぬるい風。
一段と濃くなる呪いの気配に、指先が冷え切っていく。
「出てきてください。もう何処にも逃げられませんよ」
無意識に首元の小瓶を握りしめる瀬亜に、突如逆風が吹いた。
「ァ…ウウァ……」
「っ」
振り向けば、地面を這う人外の手脚がこちらへ近付いて来ている。唸り声を上げるそれは顔が見えず、汚れた体毛に埋もれて胴体の形も掴めなかった。
「あなたが一連の自殺の原因?」
「ァ……」
意味もなく喉を震わせるだけのそれに、瀬亜の顔が険しくなっていく。
こんな喋れもしない呪霊の力で、何人もの生徒が命を落としたのだろうか。
「くっ!」
妙な違和感に眉を顰める瀬亜の足元へ、それは音もなく急接近した。反応して攻撃するも命中せず、拘束された足を黒い呪力が犯す。
失せていく脚の感覚。続いて激痛が爪先から広がって、瀬亜は漸く敵の能力を把握した。
(毒か…)
気付いた時には下半身が痺れて動かせず、瀬亜は力無く地面に両手を付いてしまう。
「ウゥ…イヒヒ……ッ」
「なるほど…。私、運悪いな」
呪力が原動力の瀬亜にとって、体内に毒として呪力を送り込んでくる敵との相性は文字通り最悪だ。
けれどここで出し惜しみするつもりはない――、と体中の呪力を抽出した瀬亜の右手が発光すれば、それに興奮した呪霊が虫のように飛び込んできた。
ジュ、と何かが蒸発する音。
指先に触れた途端に動かなくなったそれからは、もう先程の唸る様な声は聞こえない。
なのに、どうして――。
「……どうして術が解けないの」
屋上で生き絶えたそれが灰となり突風に散らされていくのを見つめながら、瀬亜は苦い顔をして呟いた。
本体が祓われれば術式も消滅すると思っていたが、現時点の毒は元々は瀬亜のものだった呪力を体内で変化させたのだろう。
(とにかく、医務室に行かないと)
その為には体を動かせるだけの呪力が必要だと、瀬亜は首に掛かるペンダントを引き千切る。
ごくり。
熱いものが喉を通り一時的に痛みが引いた途端、瀬亜は帳を解放し、結界外で待機しているはずの補助監督の元へ急いだ。
「はぁ、はぁ…ッ」
階段を下っているだけなのに息が苦しい。
絡まる足を無我夢中で動かし、転がり落ちるように靴箱へ辿り着けば、校門の目の前で黒い車が待機しているのが見えた。
助かった。
電話で指定された場所では無かったけれど、帳を合図に近くまで迎えに来てくれたのだろう。
そう解釈し朦朧とする意識を繋ぎ止め近付いた瀬亜は、状況を説明しようと弱々しく顔を上げる。
(え…?)
――その瞬間、瀬亜の視界は真っ暗になった。