「何がそんなに怖い」


…真っ暗で最悪な世界に優しいこえが響く。

怖い?
何を言ってるんだろう。

海中に浮かんでいる意識は不思議そうに首を傾げた。けれどその答えは知っている。もう、ずっと前から、サヤが恐れているものは一つしかない。


(私が…この世界に"生きている"こと)


ただそれだけだった。
夢などではないのだ。目の前に広がるのは紛れもない現実。

外の世界に巨人がいること。
孤独なこと。
海が在り得ないくらい遠くの存在に思えること。
エイデルやノーラがいなくなったこと。

…そして、死んでしまったら、それは本当の"死"になるということ。

いつかこんな悪夢から目が覚めたら、本当の意味での日常に戻っていることを心の底から夢見ていた。見慣れた天井に心地良い生活音、テレビの音や洗濯機が回る音でも何でもいい。自分を元の世界に引き戻してくれる何かを待っていた。
でもそれはただの逃避で、だからこそ認めたくなかったのだ。この世界に生きているだなんて。


――馬車の車輪の音が意識の彼方に聞こえる。
自分は眠っているのだろうか、誰かの腕に支えられて安らかな息をしていた。さっきは噎び苦しかった筈なのに、今はとてつもない安心感を頭を預ける胸から感じている。長い時間眠っていた気がした。けれどもまだ瞼は開かない。

清潔な香り。夜の温い風に乗ってサヤの頭を鈍くさせる。頬が冷たいのは泣いたからだろうか。
どうして泣いたんだろう…。考えても疲れすぎていて答えに届かない。いい、考えるのは放棄しよう。

そうして再び意識が沈みそうになった時、ふいに誰かがサヤの名前を呼んだ。
返事に躊躇したのは意識がはっきりしなかったからではない、その声がやけに現実味を帯びていなかったからだ。洞窟の中から聞こえてきたような、反響を残す知らない声。女性なのだろうか、何かを謝っている――?

(誰?)

意識の中で問いかけた。
もちろん返事は無く、まるでサヤの質問が聞こえていないようにまだ喋り続けている。反響が酷すぎて言葉が理解出来なかった。何を言ってるんだろう。
耳を澄ますというより、意識を集中してその声を聴いた。そしてサヤは、この声は自分の記憶の中のものなのだと悟った。きっと断片的な記憶だ。確信はないけれど、何故かこんな時に昔の事を思い出したのかもしれない。
…どのくらい"昔"かは、判らないけれど。


「ん…」

口から漏れた声と同時に目を覚ますと、頭上で静かな溜息が吹きかかった。
ぼうっとして見上げれば、端正な顔立ちが冷たく月光に照らされている。この人は…、そこではっとした。

「兵長…」
「……起きたか」

背もたれに悠々と背中を預けるリヴァイの胸から、精一杯首を上げて見つめる。なかなか状況が読みこめず、そしてリヴァイも何も言わずにサヤを見下ろしていた。馬車の窓からの景色だけ時間が経過しているようだ。
リヴァイの視線はサヤの頬に残る涙の跡を伝った。感情を見せないまま目を逸らすそれにサヤは先程のことをやっと思い出す。

そうだ、逃げようとしたのだった。

「…どうして」

言わなければならない事は沢山あるはずなのに、なぜか非難めいた口調でそう言ってしまった。けれど闇によって漆黒を帯びた鋭い瞳から目が離せない。息を止めるように口を堅く結んだ。真剣な表情で睨み返す。そして整った薄い唇を見て、余計な事まで思い出してしまった。
この人の唇に触れただなんて、現実味が皆無でさっきの幻聴に含まれた夢だったのではないかと思えてくる。大方、さっきの口付けの理由はこの雰囲気のない状況からして自分を静かにさせる為だったのだろうが。
そう思案している間にも、リヴァイの瞳はサヤの視線を捉えて放さなかった。

どうして、の言葉の先を考える。
言い訳をする気力は夢の中に置いてきた。だからありのままの感情を訴えることにする。

「どうして、そう干渉するんです。貴方には関係ないって言ったじゃないですか」

そこまで言ってはっと気付いた。
これは愚問だ。人が自分に干渉するとしたらそれは、ただ奇異であるサヤを監視する為に決まっている。例え様子からしてエルヴィンがリヴァイにサヤについての情報を十分に与えていなかったとしても、サヤは今夜重大な秘密をハンスに掴まれてしまった。今日にでもエルヴィンは本部でこの男に報告をするかも知れない。そしたらどうなる?逃げるなんて不可能に近くなる。サヤは嫌というほどリヴァイの監視能力の鋭さを知っているから、未来が真っ暗なのは簡単に想像できた。

悔しさで涙が込み上げる。
溢れないように目を見開いて、震えないように語気を強めた。

「利用なんかされない」

それはエルヴィンに向けた言葉のように思えた。
別れ際の芝居ぶったエルヴィンの姿を思い出すと、死刑を待つような気分になる。逃げ場もない、頼りもいない、それでも誰かの駒にはなりたくなかった。例え彼がどんな偉大な目的の為に自分を使おうと、命を狙われる危険を放っておくわけにはいかない。

この世界に生きている以上…。

リヴァイは薄く口を開いた。思考に耽っているような仕草で、サヤの視線を受け止めている。
やはりエルヴィンが何か始めたのか。そう考えていた。

「…アイツが何か企んでるのは、お前の動揺した様子を見れば分かる。だがそれを知らされていないという事は、俺の知る領域じゃねぇってことだ。お前から聞き出すつもりはない」

これで安心するだろうか。サヤの顔を伺ってみるものの、表情は依然敵意を隠している。

「いつか、近いうち…明日にでも、知るかもしれないじゃないですか」
「そうなると不味いのか」
「聞き出そうとしないで下さい」

細められた瞳は不安定に揺れていた。泣いた跡が無かったとしても、その表情は暗闇に融けて儚くて、まるで背景のように透明だ。

消えてしまいそうだと、何度思ったことだろう。
無意識にリヴァイはサヤの頬に手を伸ばした。避けようとするその頭に後ろから手を添えて、顔を近づける。

「約束する。もし仮にお前が巨人みてぇな化け物だったとしても、俺はお前を守ってやる。お前が俺の部下である限りずっとだ」
「そんなの信用できない…」
「それしか方法がねぇ」
「だったら放っておいて下さいよ!もううんざりなんです!あの時殺されていたら良かった…!貴方があの日私を助けに来なければ、私は……」

そうだ、こんな残酷な気持ちを味わうことは無かった。両親が殺された本当の理由だって、ハンスを傷付けていた事だって知らずにすんだのだ。被害者のまま死ぬことが出来た。なのに今は自分が沼渦の中心になっている。サヤの存在はこの世界にとってのタブーで、エルヴィンにとっての駒になってしまった。


暫く見つめ合っていた。
だんだんと冷静さを取り戻した頭は、八つ当たりしてしまった反省に侵食され始める。

「…言い過ぎました。申し訳ありません」

やっとのことで視線を外してそう言った。そのまま後頭部に回された手を退けようとするけれど、リヴァイは離すつもりは無いらしく鋭い瞳がまだ近くに有る。

「お前が存在自体に引け目を感じているのならそれは…恐らく間違いじゃねえ。そうして正確に自分の立場を意識して、この世界を軽蔑してるんだろう」
「軽蔑…」
「しっくりきたか。そしてこれがお前が俺を苛立たせる原因だ」

本来ならこの状況は、至極魅惑的なものなのだろう。人類最強と謳われる男で、呼吸をとめてしまうくらい綺麗な顔が間近で自分だけを見つめているのだ。けれどサヤは歯を鳴らすばかりで、暴かれることにばかり怯えている。
暴かれたらきっと、この世界の人間の態度は変わっていまう。異端だと罵られ、殺されてしまう。そういう世界に居るのだ自分は…でも…。

(本当は…っ)

誰かを頼りたい。
護ってほしい。普通の人間であるわたしを、誰かに。誰でもいいから――。

馬車が止まり、馬が低く身震いした。
個室の窓からは見慣れた訓練所が夜の闇に融けこんでいる。
リヴァイは一度強くサヤに視線を突き刺したあと、余韻も作らずに手を放して馬車を出た。
黒い後ろ姿が遠ざかっていく。


「言えないんですよ…馬鹿……」

全てを曝け出してまで誰かに頼るなんて、出来るわけが無い。一つ間違えれば死んでしまうのに。

曇天の夜空に月が覗く。どこまで逃げても追いかけてくるそれは、今だけは最悪な存在のように思えた。
悪夢のような世界の中で出会った新しい家族や友人との出逢いや別れは、サヤに何を求めていたのだろう。存在する意味を知りたくて知りたくて、苦しまなければならない理由が欲しくて。でも何も分からないまま怯えて生きている現実に、果たして意味のある終わりがあるのだろうか。




―――続く



さよなら蒼穹

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