彼女の生きる世界には、高層ビルがあり、新幹線や車があり、そして海がある。
貧乏生活をしていた訳でもないし、テレビで見るような豪華な家に住んでもいない。まだ浅い人生の中で大した苦労もしていない。
しかしそれが普通だった。
そして、これからもそうなった筈だ。


「――――」

見覚えのない大きなシャンデリアに、思わず怯む。そこまで大したことではないのに、サヤの口からは興奮の塊のような鳴き声が響き渡った。

…おかしい。
こんな赤ん坊のような声では無かった筈だ。

異変に気付いて口を触れば、骨張っていないふっくらとした指の感覚。見ると、涙で歪んだ視界にとても小さな赤ちゃんのそれが映った。

「――!―――」

(なに…誰…?)

幸せそうに、しかし慌てた様子でサヤを抱き上げた女性が、足元で指を加える男の子にサヤを見せる。
幼い真ん丸な瞳。じ、と視線をあわせればニッコリと破顔して頭を撫でられた。

「―――――。……」

何かを喋る。
さっきからその言葉が分からない。
言葉を理解できないというよりは、言語を知らないに近かった。

混乱で頭が痛くなる。比例して鳴き声が大きくなって、女性の腕の中で揺さぶられる。疲れて瞼が重くなる。
なぜか悲しくて仕方なかった。電線が区切る空、通学道、駅、友人、お父さんにお母さん。皆に二度とあえない。そんな予感がしたから。


::::

「サヤ、今日は買い物に行ってくれないかしら?お兄ちゃんと一緒にね。私達は大事な仕事があるの」
「…わかった。すぐ、準備する」
「メモはお兄ちゃんに渡してるからね」
「うん」

自室のベッドで眠っていたサヤは、母親の声に上体を起こした。癖がついてしまった黒髪が肩を滑る。着飾った服を翻して出ていく姿をぼんやりと眺めながら、片足を床に下ろした。
すぐ向かいにある鏡がサヤの華奢な体を写す。

――身体は、"記憶"の中の自分と全く同じであった。
この世界では母親が黒髪の東洋人で、父親は彫りの深い白人だ。その二人から生まれたのならば少なくとも容姿は変わってしまうと思ったが、そうはならなかったらしい。しかし日本人は顔が平たいとは言うものの、サヤの鼻筋はすっと通っていて西洋人の得な顔立ちに引けをとらない。

「サヤ、準備はできた?」
「ハンスお兄さま…。まだねぼけけて何も考えられない」
「もうっ、早起きしてっていつもいってるじゃないか」

頬を膨らませて近づいてくる男の子は、サヤの兄である。亜麻色のくるりとした髪が王子のようだといつも思う。
そんなどうでもいい思考に耽るサヤを立たせて、クローゼットに向かわせる。うっ、と眉を寄せてしまった。

「ドレスに着替えないとであるけないよ」
「かたくるしいからイヤ…」
「……はあ。ダメ」

こうした会話は、言語が分からなかった割にはすんなりと出来るようになった。日常的に聞き流していれば、理解は可能になる。読み書きの分野も、両親が雇った家庭教師に教えられて随分と上達した。
ちなみに日本語で文字を書いて「よめますか」と聞いたところ、とても怪訝な顔をされた。


「さあ、いくよ」

ハンスがサヤをエスコートして玄関の扉を開ける。
爽やかで澄んだ風がスカートを揺らす。その香りは緑が生い茂った雄大な自然を想像させた。

足元から視線を外して、前を見据える。

誰よりも高い位置にある屋敷から見える景色は、今日も変わらず、大きな壁で遮断されていた。



誰かの声、微睡みのなかで

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