Novel
私の男の子

高層マンションの9階。
あすかの右肩には、大きなトートバッグ。左手に、なまあたたかいお弁当包みを提げたまま、エレベーターの階表示をみつめている。
バイト中に着ていたドレス、そしてウィッグは、教科書や文房具も一緒に詰め込まれた大きなトートバッグのなか。靴だけヒール。適当なパーカとジーンズ。
メイクをおとしたあと、スキンケアはいい加減にすませた。はりついたような肌の乾燥が気になるものの、どこかきもちはさっぱりしている。すっぴんの肌。ウィッグをずっとつけていたあとのかゆさを頭にかんじて、あすかは、こげ茶色のショートボブの頭を軽くかいた。

エレベーターの鏡に、あすかの姿がうつる。
ファンデーションを塗らなくても充分な程の、ぬけるような白い肌。これは、入念なUVケアによって手に入れた。

そして、どんなメイクでも乗せることができる、小ぶりで地味なパーツがとりえだ。天然ものの大きな瞳と長いまつげや、何もしなくても美しくいろっぽい唇を手に入れることはできなかったけれど、そのかわり、メイクでどうにかなるだけの輪郭と鼻、配置だけはある。
今は、こざっぱりとしたすっぴんだけれど。

容姿のとりえといったら、それだけ。ドレスがぎりぎり入る体型をたもって。

静かな廊下。

鮎川というプレートが納められている部屋。

チャイムをおすと、すぐにドアがガチャリと開いた。

「何?今日は、おべんと?」
「手作りだよ」
「だれの?」
「半分くらい私の」

Tシャツにジャージ。
服の上からだと、小柄な体格。
やや濡れた髪。せっけんの清潔なかおりが漂う、金髪の男の子。

ドアをあけるなり、鮎川真里が、あすかの片手のお弁当箱に、即座に食いついた。

あいさつくらいしなさいよ!
そううそぶきながら、ヒールの靴をそろえて、あすかは、真里がひとりで待つ部屋へあがりこんだ。母子二人暮らしの、とても豪華でこぎれいな部屋。

「からあげはいってる?」
「はいってるよ」
出来合いだが。

ダイニングテーブルのうえにお弁当。片手にもったままだったのは、荷物がつまったトートバッグに入らなかったからだ。リビングのすみへ、ひとまずドサリと荷物をおいた。

「ママ、あ、マー坊くんのお母さん、今日も帰ってこられないって」
「ふーん」
まっ、どーでもいーけどーあすかちゃん来てくれたしー

表情のない声でひとりごちながら、弁当を包んでいた手ぬぐいを器用にほどき、それを丁寧にたたんだ真里は、はやくも箸ををつけている。

ダイニングテーブルのうえには、ハーゲンダッツの空きカップ。

「クッキークリーム!おいしかった?」
「おいひかったよ!」

ごはんを口に詰め込みながら真里がこたえる。

カップの中身をざっとあらって、三角コーナーにすてておいた。ポットのお湯をのぞくと、半分しか入っていない。

昨夜あらったままの急須を水切りからひっぱりだして、緑茶の葉をほうりこんだ。温かいお茶を、あすかものみたいから。給湯ボタンをおして、いい加減にお湯をそそぐ。
店では、もっと丁寧にいれるのだけれど。

ふたりぶんの湯呑みにお茶をいれて、ポットには水を足しておいた。そのうちお湯が沸く。

「ありがと!」

お茶を一口のんだあと、真里はまたたくまに弁当をたいらげてゆく。

「おいしい?」
「おいひい!」

お茶をのみながらにこにこと笑うあすかに、真里はきょとんとした瞳でたずねた。

「あすかちゃんも食う?」
「バイト中に、たべたから」

真里の母親が経営する、小さな店。客が6人もはいれば満杯になってしまう、小さなラウンジだ。
真里の母親がママで、バイトは、あすか一人だけ。
あすかは、夜はその小さなお店でバイトを続けながら、大学へ通っている。

どちらかというと、不器用なほうだった。必死で勉強して入った高校になじめなくて退学したあと、大検をとった。横浜の国立も落ち、山手の、学費がお高い女子大にはいったものの、相変わらず浮き気味のあすか。このまま、高校のころのようにまたも逃げ出してしまうのだろうか。両親は、文句をいいつつも大学の学費は払ってくれている。それ以上の援助はしないと宣言されたから、生活費をどうにかしてかせがなければ。そうして、うつろな瞳でふらついていたあすかを、まるで救うように、店で働かせてくれはじめたのが、このかわいい少年の母親であり、ラウンジのママだった。

「ん、これ何よ」

椅子にひっかけられた、特攻服。その下に、ぺろりと落ちている布切れ。拾い上げてみると、妙にカラフルで、やたら幼稚な、女物の下着。パンティ、ショーツなどではなく、まさに、“ぱんつ”とよべるしろもの。

「・・・・・・」

おやゆびとひとさしゆびでつまみあげたあと、けげんな瞳でそれをながめるあすかに、弁当をかきこんでいた真里が気づく。

「それさ、オレの親衛隊だっつーオンナノコが?オレにサインしてくれって」
「サイン・・・・・・」
「ダメだよって断ったのにさ、オレのポケットに、つっこんでどっか行ったんだよ」
「マー坊くんはアイドルなんだね・・・・・・」

部屋に、女物の下着が落ちている。
カップルにとって、格好のもめごとのタネであろうけれど。
真里の、突拍子もないその話は、一周回って、たぶん真実なのだろう。そうじゃなかったとしても、こういう下着をつける中学生だか高校生だかに嫉妬する気力は、学校とバイトで疲れた今日は、皆無だ。あきれ果てた声でつぶやいたあすかは、そのこどもじみた下着を丁寧にたたみ、イスのうえにおいた。

ごちそーさま!
景気のいい声であいさつをのこし、あっというまに弁当をたいらげてしまった真里。あすかは立ち上がり、沸いたばかりのお湯を急須に注いだあと、湯飲みに足したお茶を真里にもういっぱいすすめた。

「アイスくいてー」
「一日一個にしなさいよ。糖尿病になっちゃう」

弁当箱を一気に洗ったと、ふたりぶんの湯呑みも洗う。急須から葉をすててしまい、それも洗えばおわり。
ラクなものだ。

「たまにはマー坊くん、自分でやりなよね」

自室じゃなくて、リビングにベッドをおいてある。おおきなダブルベッド。真里は、おなかをかかえたまま、大きなのびをして、そこにたおれこんだ。

「歯磨きはー?」
「あとでやんよ!」

パーカーをぬいで、ダイニングテーブルのいすにひっかけた。トートバッグをひきよせて、あすかは、分厚い本と小さな辞書、そしてルーズリーフをとりだす。日本語日本文学科。好きなことややりたいことなどわからなかった。経済や経営といわれてもピンとこない。先生や看護師や栄養士にもなりたいわけではない。結局、比較的好きだった本をてがかりに、こんな道へきてしまった。まだ二年生だから、専門的な内容はほとんどない。くずし字だけで書かれた本を、辞書をたよりによみといてゆく。

勉強にとりかかれていたのは、ものの十五分。

おとなしくねむってくれたか。
真里のベッドから聞こえる寝息に安心していたあすか。
刹那、ぎしりとベッドから起きあがる音がした。

案の定。

ダイニングのいすをひいて、あすかのそばに真里がすわりこんだ。
勉強しているあすかの横顔を、穴があくほど見つめ、のぞきこむ、そのかわいい顔。
まっしろな肌。
あすかはこんなに努力して、白い肌を手に入れたというのに。きっとこの子は、努力ひとつしていない。
どんぐりのような瞳。男の顔において、目の大きさは、顔の造作に影響はない。むしろ切れ長の方が美形が多いはずなのに、この子は、別だ。

シャープペンシルを握っているあすかの都合などいっさいかまわず、真里があすかの手首をつかんだ。その力は乱雑ではなかったけれど、あすかの手からは、結果シャープペンシルが払いのけられることとなった。

「オレも、中坊のとき、あすかちゃんみたいな色だった」

真里があすかのボブヘアに無造作に手をのばし、気ままに撫でた。

「茶髪かー。マー坊くん、金髪でもこぎれいだよね」
ふつー日本人って、顔の地味さに負けちゃったりするから。

シャープペンシルを奪われながらも、教科書とルーズリーフに目をおとしながら、解読を続けていく。真里は、あすかの勉強内容に、関心はもたない。

「あすかちゃんの手、いいにおいすんね」

あすかの白い手に頬をよせ、くちびるではんでいる真里が、妙に据わった声でつぶやく。

「これ?マニキュアにね、香料が入ってるんだよ」
「へぇ、これ?ペンキみてー!」

アハハと笑いながら、あすかの手のひら、手の甲に、気まぐれにキスをおくっていた真里が、気まぐれにあすかの手を解放した。
液のなかに大粒のラメがはいっているマニキュアを、無造作につめに塗った。確かに、ペンキを巻いたときのしぶきのようにも見える。

イスからたちあがり、教科書をぱたんととじた。
まったく勉強になりやしない。
ペンケースにシャーペンを戻しながら、己の手をじっとながめる。

「たしかにペンキだわ。いい着眼点」
しぶきをキャンバスにまいたような絵画がなかっただろうか。バスキアでもポロックでもなくて。

花のようなかおりを漂わせる己の爪をながめながら、立ち上がったまま、アーティストの名前を思い出そうとしていると、強い風をたって、背後から、真里があすかを思い切り抱きしめた。

逃げることのかなわない拘束。

あまりの強さで抱きつかれたものだから、あすかの体はやや前後にゆれて、あすかの足下がふらつきかけた

「あすかちゃんーーー」

妙に声が甘くなった真里。ふわふわの金髪があすかの頬にさらりとふれ、真里があすかの耳を舐め始める。

「マー坊くん、シャワーあびたいなあ」

あすかの上半身をがっちりと拘束する真里の力強い腕を、ぽんぽんとたたきながら、余裕ぶってみるのだ。
本当は、どこかおちつかない。
いまだ、かるい恐怖もある。
あすかには、誇れるような豊かな経験がさほどあるわけでもない。この子の母親のような、大人びた円熟もない。

「あとでいっしょにはいればいいじゃん」
「マー坊くんさっさと出ちゃうからな」

あすかのカットソーのすそから、真里の腕が侵入してくる。

テーブルの上の灰皿。そこにたまった吸い殻に、今更気が付いた。あとで片づけておかなければ。

あすかは、真里の手首をつかみ、いったん拘束をほどいた。

そして、160センチのあすかが、163センチの真里の首根っこに、おもいきりだきつく。

あすかの背中を抱きながら、真里のほうから一気にかぶさってきた、そのぬるついた、あつい唇。食べたものの残りかすが付着していることも、お互いの息がかかることもかまわない。
真里はあすかのカットソーを。あすかは、真里のTシャツを片手でおしあげようとも、強くキスをしているから、体からそれを剥くことはかなわない。

からみつき、何度もくちづけをかわしながら、大きなベッドにたどりつく。
カーテンは開かれたまま。
部屋から見える、山下の夜景。

ここは、最高の部屋だ。

真里にドサリとベッドにたおされ、カットソーをおしあげられながら、あすかは、横目で宝石のような夜景をながめる。

「あすかちゃん、集中してよ」

真里が、お仕置きのように、あすかの首もとにくらいつく。

「ごめんごめん。あ、ゴムつけてね」
「言われなくてもわーってるよ」
「一応ね」
空気こわしてごめんね。

あすかが自分のジーンズのポケットからひっぱりだした避妊具を、まくらもとにおきながら。

あすかを組みしくマー坊の、すこしだけ陰をおびた瞳。そのさみしそうな視線をあびながら、あすかは、お詫びのように、真里の頭を抱え、やわらかくくちづけをおくった。

まるで安心したかのように、おおいかぶさってきた真里がそのくちづけをより深くする。しなやかな右手の指は、あすかのジーンズのボタンをはじきはじめた。

あすかはそろそろ20歳になる。
16歳のこの男の子を抱きながら、
この子に激しく抱かれながら。

「あすかちゃん」
「マー坊くん」
「大好き」
「私も好き」

このかわいい男の子は、私の大事な、恋人なのだ。

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