龍也小説

今宵は二人で

遙か遠く。
谷津の奥に建つ家々の向こう側、海のそばから聞こえてくる騒音に、葵は気づけば覚醒の一途をたどらされていた。

タイマーを設定しておいた冷房は、ずいぶんまえに切れている。自室にはむせるような熱気がたちこめていて、寝間着がわりのTシャツも汗でぐっしょりぬれている。

うなるような排気音。パイプ音楽がぐじゃりと重なり合うような不可解な音が、再び響いた。ここは防音の部屋だけれど、あの音は、ときおり窓からしのびこんでくる。
ここは、R134からややへだてられた町だけれど、真夜中にこうしておこされることは、けしてめずらしいことではない。
激しい音はしばらくつづき、やがて海の彼方へ消えた。

デジタル時計のバックライトボタンを押してみると、7月6日3時34分。

蒸し暑い室内だけれど、寒いより、暑いほうがずいぶんましだ。

母親に買ってもらったばかりのタオルケットを、抱き枕のようにぎゅっと抱きしめた。このタオルケットは薄手で。もうすこし、厚い方がよかった。

期末テスト期間最終日で、睡眠時間はうまく確保できていない。徹夜にくらべると、朝型の学習法が肌に合っている葵は、熱気たちこめる部屋のなか、いそいそと起き始めた。

少し音がうるさいドアをおして。
姉や双子の妹、帰国中の母を起こさないように洗面所を使用し、こっそりシャワーをあびたあと、さっぱりとした部屋着にきがえて、机に向かう。

瞳に飛び込んでくるのは、デスクのうえの、キャラクター柄の卓上カレンダー。

明日は、七夕だ。
織姫と彦星。習い事として小さな頃から続けている日本舞踊で、「流星」という曲がある。あれは、おちゃめな雷様の曲で、織り姫と彦星は、端役にすぎなかった。
湘南で七夕というと、平塚の七夕祭りだ。明日はすごい人だろう。寄りつくこともできない。
いつしか、笹に願い事をかく習慣なんてなくなった。そんなことをやったのは、はるか小学校の低学年にさかのぼるだろう。

卓上カレンダーを何枚か繰ってゆくと、龍也の誕生日に○をつけた月間があらわれる。

相変わらず、いったん連絡がとぎれると、ずっとよこさない人だ。
またも、ゆうに一ヶ月近く会えていない。
もっとも、テスト期間であるから、どちらにせよ、二週間は会えないことは覚悟のうえではあったけれど。
あの人はまじめな人だから、毎日学校にもきちんと通って、テストもまじめにうけて、たまにはちゃんと実家にも帰って、そして、こんなにしずかで、ときおり唸り声をあげる夜は、あの人のものだ。葵がそばにいてもいなくても、龍也は、龍也のやりたいことをやっているのだろう。

カレンダーをもとにもどして、目の前の勉強に集中する。
最後の教科は、家庭科のペーパーテストと、理科。家庭科はひととおり覚えたものの、理科は、自信があまりない。月の満ち欠けを解説している教科書のかたすみには、七夕の豆知識が乗っていた。上弦の月がでている頃に、天の川をみあげると、ベガとアルタイルの中間に位置する月が、まるでふたりをはこぶ舟のように見えるらしい。

机からのびをして、目の前のブラインドをあげてみる。

鎌倉の谷津の奥の夜は、漆黒だ。葵のすわる机からは、星も月も見えない。

七夕。伝説や神話に自分を重ね合わせる気なんてないけれど。
自分は、ものがたりの主人公より、ずいぶんぜいたくなはずなのに。

葵だって、ひとりの時間が必要だし、大事なものはいろいろあるし。だけれど、ときどき、龍也のことが好きすぎて、心がちぎれそうになる。
会いたい人に会えない人たちのように。




不得意でもないけれど、好きでもない、理科という科目。
結局、手ごたえは、いまひとつだった。
たいてい、いまひとつであるほうが、それなりの得点はでるものだけれど。

すっきりとした表情のわかばが、机にぺたりとふせたままの葵に、はずむこえでたずねた。

「できた?」
「うーーーん……」

葵がけだるく頭をあげると、すっかりみだれてしまったぱっつん前髪。その前髪を指でととのえてあげながら、わかばが、葵の顔をのぞきこむ。

「葵が?めずらしーね?」
「そんなことないよ、わたし、この程度だから」
「なに落ち込んでんの?みなとみらいでも行く?」

親友の提案に、ねむそうにうなずき、眠くないの?そんな、たあいもない会話をかわしながら。気の置けない友達とはなしていると、霧のようなものは、あっさりとはれてゆくものだ。

テスト明け。妙に開放感に満ちている校内には、軽音楽部が楽器をかき鳴らす音も響きはじめて。テニス部や野球部も、ぞくぞく活動を再開している。

みずみずしいざわつきに満ちた校内をつっきり、ふたりは地下鉄の駅へ向かった。

あの店へ行こう、あれを見に行ってみよう。あれを食べよう、昼ごはんはどこにしようか。
そんな相談が、あちこちで飛び交っていて。
葵とわかばも御多聞に洩れず、テスト開けの女子学生らしい会話がはずんでいる。

「パシフィコのステンドグラス見に行く?」
「そんなのがあるの?」
「みなとみらいもライトダウンだよ」
「ダウンするの?暗くなるの?」
「そうだよ、夕方になったら、あんどんだとかキャンドルもともすんだって」

みなとみらいのオフィスやホテルや飲食店の照明をしぼり、そのかわり、キャンドルやあんどんをともす、七夕のイベント。七夕前の夜を、さぞファンタジックに彩るであろう。夕方4時からだからしばらく時間あるねと、ふたりして、どのカフェによるか、心を躍らせる。

横浜駅から歩いてもいいけれど、ふたりとも、どうにも眠くて。ラクをするためにみなとみらいまで地下鉄で移動したあと、駅の中のカフェで、しばらくわかばと語り続ける。持ち帰った問題用紙をひろげて、理科のテストの正解を浚ってみると、自分の手応えよりも、出来映えはおおむね良好かもしれない。ひとまずは安堵したあと、終わったことを悔やんでいてもしかたないといわんばかりに、期末テストが終わり、はじまったばかりの夏のことを、横浜スパーリングトワイライトや、茅ヶ崎のサザンビーチの花火のことを、わかばと話し合った。
昼食がわりのベーグルを食べるとねむくなり、少しだけ仮眠をとったり。テスト問題に文句をつけてみたり。
気づけば昼下がり。

みなとみらいの長いエスカレーターをのぼってみたあと、クイーンズスクエアを横断して、臨港パークとかかれた標識に従って。
七月六日。
熱風がふたりを粘着質につつむ一方で、天気は少し曇りがちだけれど、海だけが、つくりものの宝石のような色できらめいている。

熱気を直にあびながら、白い道を歩き続けると、要塞のように大きな建物。パシフィコ横浜のステンドグラス。内部の涼しさ目当てなのか、純粋にそれをもとめた客なのか、よめない混雑ぶりに、葵とわかばも身をまかせた。見慣れないタッチの画風で彫られた数々の星座が天井に散らされている。

「きれいだよね」
「今日、空曇ってるしね、夜見えないよね、そのかわりに見に来てんのかな?」
「まあ、すずしいしね・・・・・・」

寒いほどの冷房が、半袖シャツと生真面目なスカートのふたりを、容赦なく冷やし続ける。氷室のような冷気に、眠気がひんやりとおさまってゆく。
あざやかな黄色で描かれているのが、天の川か。海のように広がるブルーのステンドグラスのなかに、星座があちこちに散っている。それはそのまま夜空の模様のままなのか。いやいや理科を勉強している葵には、知識が足りていない世界だ。

「なんで会えなくなったんだっけ」
「働かなくなったからだよ」
「へー、働かなくてすむなら、それでいいんじゃないの?」
「すまないから、神様が怒ったんだよ。知らないけど」

この曇り空では、今日も、そしてきっと明日の七夕も、このステンドグラスそのものの空はのぞめない。
どこか呆けたような顔で、ふたりは、アイスクリームのように冷やされながら、めずらしいそれを、幼い様で眺め続けた。


横浜の海辺。たてものの外に出ると、氷のように凍てついたからだが、まるで解凍されてゆくようだ。わかばとぴとりとくっついて、来た道をてくてくと戻る。横浜美術館前の、グランモール公園。
シックな石畳の広場に、一直線にあんどんが並べられている。縦にずらりと5列。広場には、あかりがともるオブジェもあって、すでにカップルが陣取り、これからおとずれる、落ち着いた夜を心待ちにしているようだ。

すでにあかりがともされているあんどんには、紛争国の平和を祈ることばがしるされていたり、身近な幸せを願うことばがかかれていたり。夕方4時の明るい大気のなかでは、まだ幻想的な色は帯てはいないものの。
その、かわいらしいあんどんの列の間をひととおりとおってみると、ふたりして、もうこれでよいかという景色をうかべた表情で顔を見合わせて、実にあっさりとした、手軽な満足感を得てしまった。

桜木町駅から新港へ続く道は、浴衣姿の男女や、カップルの姿がぞくぞくとふえはじめて。
わかばの自宅はみなとみらい。ここから、循環バスでわずか3分。歩けば少し遠回りになる距離のことを歩きなよだのめんどくさいよだのじゃれあいながら、わかばが葵を、桜木町駅まで送って歩く。

けやき通りをくだって、みなとみらい大通り沿いを歩き、いまだのぼったことのない横浜ランドマークタワーをゆびさして、今度行こうねと約束をしていると。

聞き覚えのあるうなり声が、ふたりの背後から、急速に近づき始める。
通行人に畏怖をあたえてまわるそれ。
その音が近づけば、葵は会いたい人に会える。

葵の隣に、ずいぶん見慣れた族車がぴたりととまった。

「どこうろついてやがった・・・・・・」
「はっ!え、え??」

うなるような排気音の底から、龍也のどすのきいた低音がたちのぼる。
わかばが、ひとさしゆびをくちびるにあてて、静かにせよというジェスチャーをみせると、龍也はだまってエンジンを切った。

驚愕をあからさまにみせ、うろたえてばかりの葵をよそに。わかばが叫ぶ。

「もー、なんなの!?約束してたの?」
「え、あ、し、してない……、してませんよね?」

素直な瞳をおろおろと狼狽させながら、葵が龍也のことを伺う。

「・・・・・・」
「迎えにくるなら、最初から学校にきたらどうなんですか?」

やや強めの口調ではあるが、けしてケンカを仕掛けているわけではない。
これが通常営業のわかばは、葵を通して、いつのまにか、龍也と至極自然に会話するようになっている。

「・・・・・・試験期間よ、はやすぎねーか……」
「そんなの、まめに葵に連絡してあげたらわかることなんじゃないですか?もー、ちゃんとおくってあげてくださいよ?」
「わかばちゃん、ごめんね、ここまで、ありがとう、あの、気をつけてかえってね」
「大丈夫だよ、家、あれだし」

わかばがゆびさしたさきは、開発まっただ中のみなとみらいの、高層マンション。あのマンションの高層階が、わかばの自宅だ。

ちょうど循環バスがとまったので、即座にそれに乗り込んだあと、わかばは見えなくなるまで手を振った。

「……お嬢かよ・・・・・・」
「そうなんです、おうち、すごいですよ」

こんなの!!

葵が両腕をたてにひろげて、マンションの大きさを表現してみせる。
そのばかばかしさに、龍也の口元がやさしくゆるんだ。

歩道沿いにとめられた、龍也のバイク。
それにもたれた龍也が、落ち着いたためいきをついたあと、たばこをひっぱりだした。

「せ、せんぱい、あ、あの、こんにちは」
「・・・・・・」
「会えてうれしいです!どうしてここがわかったんですか」
「・・・・・・元気そうだな?」

龍也に会えるたびに、新鮮にわらって、葵がはなつ言葉。
いつだってそれは変わらなくて、会うたび、その言葉を、満足そうに、澄んだ声でつたえてみせる。
眼は厳然と落ち着いたまま、口元だけをやさしくゆるめた龍也は、どこか呆れたようで、それでいて、誰にも見せない、静穏な顔だ。

「しばらく、お会いできてなかったです」
「……そうだったな・・・・・・」
「先輩、元気でしたか?大丈夫ですか?」
「……葵は、大丈夫だったか?」
「元気なんですけど、ちょっとねむいです」
「オレの後ろで寝るときぁよ、ひとこといえよ」
「先輩のうしろにのったら、目が覚めるの」

しばらく会えなくても、龍也が大切につむいでくれる言葉が、葵の体に、ゆるやかにしみわたってゆく。離れていても、龍也はいつだって、葵のそばにいてくれる。

「ねみーんかよ」
「昨日、3時に起きました」
「……起きとけんのかよ?」
「龍也先輩といたら、目がさめました!」

葵が贈った吸い殻入れに吸い殻をつっこんだ龍也が、ジッポを大きな手でもてあそびながら、しばらく考えこんだ。瞳をまるくしたまま、葵は、龍也がつぎにあたえてくれる言葉を待ち続ける。

「まだはえーか?」
「……?あ、あれ、ですか、ライトダウンの!」
「・・・・・・人混み、すげーだろーな・・・・・・」
「そうですよね、もう、こんなに多い」

周囲には、浴衣姿のカップルがますます増えている。桜木町駅から出てくる人の群れは、あからさまに龍也と葵を避けながら、皆してぞろぞろと、海辺へむかっている。花火があるわけでもないのに、この人出。七夕の前の日。夜の横浜のめずらしいひとときを心待ちにしているのだろう。

「どーしても、ここじゃねーといやか?」
「え、そんなことないです!先輩と一緒なら、どこでもいいです」

龍也の沈黙は、マイペースだ。もたれたまま、眉間にしわをよせ、海の方を眺めている。
龍也がこういう顔をするときは、葵に向けて、何かを考えてくれているとき。
葵は、次の言葉を心待ちにして、その沈黙すら楽しめるようになった。

「・・・・・・」
「・・・・・・」
「乗れよ」
「はい!」

少しだけ龍也に近寄ってみると、まるで、子猫をほめるように、頭を軽く撫でられた。
別にそれをねだったつもりではなかったのだけれど。
あまりコンディションのよくない髪の毛の感触をたしかめながら、メットをかぶり、龍也のバイクに葵はよじのぼる。


ど派手な族車は、ほんのすこし走っただけにすぎなかった。
中華街の入り口。雑多なパーキングに駐車したあと、メシ食うぞと一言葵に落として、龍也はすたすたと歩き始める。

「は、はい!!」

その広い肩と背中をあわてて追いかけた。夏が始まっているというのに、長袖のトレーナー。真っ黒な背中ではなくて、今日は、オフホワイトの背中だ。
そろそろ暮れてゆく山下町。中華街を、龍也の背中にくっついて突っ切る。その大きな手は、改造ズボンのポケットにつっこまれていて。
それでもかまわない。葵は、あまり経験のない、龍也との夕暮れの街歩きが、その背中にくっついてあるけるだけで、幸せなのだ。

細い路地を何度も曲がり、中華街のなかでも、葵は一度も訪れたことのない場所。せいぜい、わかばとお茶を飲む程度であったから、こんなにディープな場所は知らない。
龍也の指さした店には、まだ5時をまわったばかりだというのに、お客がたくさん詰まっている。運よく空いていた二人掛けの席に、葵もちょこんとすわると、龍也が迷いなく勝手に注文をすすめた。そして、ぽつりとつぶやく。

「炒飯がうまい」
「へえ、先輩がつくるのより、おいしいんですか?」

龍也が、呆れたようなにらみをきかせるが、葵にもはや、その眼力は効かず。何が不満なのかと言わんばかりに、澄み切ったまるい瞳で龍也をみつめかえすので、龍也はたまらず天井をあおいだ。
たしかに美味しい大量の炒飯を、ふたりでわけあったあと、葵が龍也の皿に少しにがてなしいたけを放り込むと、龍也が無言ですべてをたいらげた。

あれだけ食べてもずいぶんリーズナブルで、店の外には、数グループの行列もできていた。
一人でほうりだされてしまえば帰れないような中華街のかたすみを、龍也の背中を追いかけながら歩く。

そして朝陽門を出た後、すっかり暗くなり始めた山下の町を海に向かって歩き、ホテルニューグランドのそばを曲がったあと、今、葵の目の前にそびえるのは。

「マリンタワーですね!」
「……こっから、見れんぞ」
「わあ!!いいですね!!龍也先輩と、このあたりで、えっと、で、デート、したの、めずらしいですよね?」
いつもおうちだし。

自分で吐き出したその言葉が、余計なおねだりや催促、そして不満のようにおもえて。
そんなつもりはなかったのに。

「あっ、あの、龍也先輩の、お部屋、大好きです」

その百面相を、龍也は、至って冷涼な目つきで見遣りつづける。一人でいいわけと弁解をくりかえしている葵の腰を思い切り抱いて、ひっぱるように歩き始める。

「……巻き込むとよ、いけねーからな……」
「・・・・・・マリンタワーだと、大丈夫……?」
「行きたいとこあったらよ、言えよ。葵からんなもん聞ーたトキねーぞ」
「龍也先輩と一緒だったら、どこでもいいです」

どこでもいーじゃ、わかんねーよ。そううそぶく龍也に、葵は途切れがちに、言い訳をくりかえしたあと、やがてしずかになった。そして、妙にてきぱきと受付をすませる。

龍也に迷惑をかけたくなくて。
足も引っ張りたくなくて。
龍也の裁量にまかせているけれど、まかせること自体が重荷にならないだろうか。

エレベーターガールがおすボタンをぼんやりとながめ、ぎしぎしと揺れる頼りないエレベーターに小さな体を置きながら、葵は、龍也のそでをぎゅっとつかんだ。
それは、葵のくせ。
葵自身は気づいていない、葵のくせだ。
そうしてにぎりしめるときは、葵が、自分で自分を追いつめているとき。
葵が、自責にかられているとき。
葵が、不安になっているとき。

大丈夫だ。
そう伝えるより、龍也はいつも、葵の髪の毛をそっとなで、小さな頭をぽんぽんと叩いたあと、そのやわらかな手を、そっととってやる。

マリンタワー。その歴史はずいぶん古い。入場券を買う時、葵がいそいそと定期券を引っ張りだしていた。いくらかわりびきできるその証を得意げにしめしたが、龍也の表情に変化はない。そんなものとっくになれたといわんばかりに、葵が、たよりないエレベーターに龍也をひっぱりこんだのが、さきほどのことだ。

夕暮れ時は終わり、七夕の前の、夜をむかえようとしている港町。

「ひと、少ないですね……そっか、みんなあっちにいってるから」
もっと多いかなって、おもいました。

龍也に手をとられたまま、とびはねればぎしぎしと揺れる展望台で、葵は小さな声でつぶやいたあと、ガラス張りの床まで龍也の手をひいてあるき、おそるおそる見下ろした。そして、龍也は、その小さな枠に、平気な顔で立つ。

小さな展望台。各方角には、ごていねいに、その角度から見える横浜の風景をしめしてある。

妹の学校!葵が、山手をゆびさした。
そのやや向こう側には、かつていつも集っていた自動車修理工場があり、さらにそこを越えると、龍也の実家だ。

左にみなとみらい。右にベイブリッジをのぞむソファに、葵はぺたりとすわりこみ、龍也もそのそばにどさりとすわりこむ。
長い足を投げ出したあと、即座に、その足を丁重にひっこめる。この狭い展望台は、体格の大きな龍也には窮屈なのだろう。そんな場所に、葵をさそってくれた。

「先輩、きれーですね!!」
「さーな」

まだ、いつもどおりの、きらめく夜景。
そろそろライトが落とされ、いつもの横浜の夜とは意趣が変化した、七夕の前の夜をむかえる。

そろそろ夏盛りだというのに。トレーナーにつつまれたままの龍也の腕。その精悍の腕に、周りにぽつりぽつりと点在するカップルたちのように、大胆にからみつくことなんて、できなくて。
いつのまにか離れていた龍也と葵の手。
葵は、龍也の制服のすそを、ぎゅっとにぎった。

「・・・・・・」

怒っているのか、悲しんでいるのか、笑っているのか、やさしいのか、読み切ることのできない静かな瞳で、龍也は、葵の小さな手を見た。その瞳の深い落ち着きに、少しうろたえた葵が、遠慮がちな声をあげる。

「・・・・・・あっ、の、のびますよね・・・・・・・」
「・・・・・・かしてやってもいーゾ……」
「・・・・・・ありがとうございます」

その優しい腕に、見苦しくすがりつくのも、きがひけて。
少しだけ腕をからめて、葵は、龍也に、そっと寄り添った。

「葵」
「はい」
「・・・・・・ま、好きなだけさわってろ」
「・・・・・・ありがとうございます・・・・・・」

エレベーターはひっきりなしに往復をくりかえし、展望台のなかに、人が増えてくる。それでも、人垣のあいだから、充分、きょうの夜の風景はのぞめる。

厚いトレーナー。香水のかおりがやわらかくただよい、こんなに暑かった今日なのに、汗ばんだかおりが匂うことはなくて。龍也のその腕におもいきりすがりついて、そのたくましい腕に、胸に、顔を埋めてしまいたいのを我慢して。

葵は、龍也にゆるされるまま、龍也のそばに、ぎゅっとくっついた。

湧き上がるような歓声が起こった。
ふとベイブリッジに視線をうつすと、いつも銀色に照らされているその橋は、ホタルのような、ときおり明滅する光に覆われただけで、その身を暗闇にしずめている。
そしてみなとみらいが、内側から光るオレンジ色で、ぼんやりとうかびあがる。

明日は七夕。

いつまでも、こうして、しずかにそばにいつづけたい。陳腐にすぎるあまり口にだせないその言葉を、心の中にうかべながら、ソファに身をしずめ、龍也の腕に遠慮がちに葵の腕をからめたまま、横浜の、しずかな夜を見守り続ける。

「空は、見えませんね」
「……日付変わったらよ、星見えるぞ」
「そうなんですか?天気悪いからじゃなくて?」
「ああ。……灯りが消えたらよ・・・・・・・いつも見えてんぞ・・・・・・」
「そうだったんだ、横浜は星が見えないんだと思ってました」

暴走っているときに、きっと見上げることもあるのだ。
葵の知らないことを、龍也はいくつもしっている。

「上弦の月のときに見ると、いいらしいですよ」
「?」
「ベガとアルタイルをはさんで、船みたいな形してるから。粋なんですって」

葵のたわいない語りがぽつぽつと続いたあと、それは、遠慮がちに途切れてゆく。
その小さなおしゃべりに返事をするかわり、龍也がそっと葵の手をとる。

「勝手に不安になんじゃねー」
「・・・・・・」
「オレぁよ、・・・・・・葵のまえで、無責任なヤローでいたかねーからよ」
「・・・・・・あっ、彦星ですね?」
「葵に会うときはよ、いつもケジメつけて、くっからよ」
「・・・・・・わたしも、先輩がそばにいないときも、がんばります!」
「だからよ、がんばりすぎるのをやめろっつってんだろーが・・・・・・いつでも甘えてこい……」
「・・・・・・甘やかさないでください、だめになります……」
「オレを甘やかしてんのは葵だろーがよ・・・・・・」

頬を紅潮させてうつむいてしまう葵の顔をむりやりあげさせ、景色を見るようにうながす。
そうすれば、赤くなってしまった葵の顔はみるみるおちつき、元通りのおだやかな笑顔に変わった。
おとなしい心根のなかの、葵のその豊かさ。それは、龍也だけのものだ。くせのようにポケットの中のたばこをいじったあと、龍也は、あきれたように、口角をゆるめた。

「明日は、空、見えますか?」
「・・・・・・見えっかもしんねーな」
「そっかあ・・・・・・」
「明日はよ、金曜だな」
「そうですね・・・・・・・でも、今日の夜、こうやって、ふたりだけでいられたら、いいです」
「だけじゃねーけどな・・・・・・」
「人、増えましたね?でも、見えるから」

暗闇のなか、橙色に光るみなとみらい。ベイブリッジはいつのまにか、もとの銀色の輝きを取り戻している。

ライトダウンが終わったとゆびさし龍也に報告しようと寄り添った葵の、しっとりとした薄いくちびるを、龍也がそっとかすめとる。

愛らしいくちびるを、ぱくぱくと半開きにさせながら、葵の大きな瞳がぱちぱちと瞬く。
そのはにかみをごまかすように、葵がきょろきょろと頭をふりながらあたりを見回すと、龍也と葵以上に大胆なキスをおくりあう大人びたカップルが幾組もいて、ますます葵は照れてしまった。

葵のその愛らしさと豊かさを、龍也が、誰にもみせない慈愛にみちた笑みで、いつくしむ。

明日は七夕。

横浜の海辺に、ぼんやりとうかびあがる、幻想的な風景。
龍也の精悍な腕から、ほっそりとした白い腕をほどいたあと、龍也のだらりとあそんでいた手を、葵がそっととった。
どちらからともなく、指がからめられ、葵のしなやかな指が、龍也の無骨な手にとじこめられる。

龍也が葵にもう一度おくりたいキスは、周囲のエスカレートし始めたカップルの姿により、一旦とどめられる。
それは、この、古い塔から降りたときに与えてやればいい。
今宵、どこまで二人でいられるか。

明日漸く会える、ものがたりのなかのカップル。
その二人が観られる、今宵の空を、そばにいる葵に教えてやれるまでか。

静かな夜を瞳をまるくして楽しみ続ける葵の髪の毛にくちびるをよせながら、葵をからめとる龍也の不器用な手は、いっそう強くなった。

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お題はこちらからお借りしました。
http://nostos.sakura.ne.jp/color/

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