龍也小説

明日

今から出てこられるか。

夜も18時をまわったころ、葵の自宅の電話が鳴った。
公衆電話からだろうか。背後には、車の騒音や、人々のにぎやかな声。その喧噪をバックに、龍也の低い声が、ぽつりぽつりと葵の耳に、滲みわたってゆく。
龍也に指定された場所まで向かうためには、真冬のすっかり日が暮れてしまった夕方から鎌倉を出ないといけないけれど、葵は二つ返事で承諾した。
少しだけかしこまったワンピースに着替え、余所行きの赤いコートをはおって、バッグを片手に、あわてて家をとびだした。

海辺の町へ帰宅する人々の流れと、逆の方向へ向かっている。
たった一言だった。そして、行き先を教えてくれただけ。
龍也の傍にいてもかまわないとゆるされた日から、少しだけ時間がたった。龍也について知らないことは、依然知らないまま。きっと知ろうとしても、龍也は怒らなくなっただろう。だけれど、葵は、知らないことを知らないまま、龍也の傷はその傷のまま、触れられずに、そばに立ったままでいる。

江ノ電と横須賀線をのりついで、さらに足をのばして。鎌倉とは違う海のにおいのする場所へ。

ここから少しだけ歩けば、夜の逢瀬を楽しむカップルがたくさんいる桟橋へ出る。
そんな、華やかな横浜の風景から、やや外れた場所。人影もまばらな、冬の真っ暗な横浜の海べり。倉庫やコンテナが目立ち、足元は、寒々しいコンクリート。
薄墨色ににごった夜空。モニュメントのような建物が照明がわりになっていて、間接的にあたりをぼうっと照らす。

時刻は、夜の8時をまわっている。バッグにほうりこんだままの腕時計を、外套の下で確認する。

明確な灯りはなく、遠くから届くぼんやりとした光を頼りにするのみ。

でも、目をこらして、龍也をさがさなくても、あの音でわかるのだ。

あの、華美なバイク。
大声で己のことを主張しているようでいて、実は、たったひとことだけを語っているような、装飾の奥にある切なさを、葵はいつも感じる。

海べりの暗さに慣れてくると、背の高い龍也の姿がすぐに目視できる。
バイクにまたがったままだ。
龍也がまとうのは、闇に一体化する長ランではなく、
血のあとも、土埃のあとも、今はなにひとつきざまれていない、真っ白の特攻服。

胸の中心を直撃したあとそのまま全身を不安で包み込んでいくような、不吉なアイドリング音が奏でられ続ける。龍也は、バイクにまたがったまま、煙草をくわえて、あでやかな夜景とは反対方向の、さみしいあかりしか見えない暗い海の先を見つめている。いつもより、すこしだけ崩れた髪型。一日の終わりにはこうもなるのだろうか。整髪料のかおりが風に乗って葵にぶつかって消えてゆく。

足音をたてずに近寄って、一度だけ、できるだけ大きな声をあげた。バイクの奏でる音楽にまけないように、龍也に、しっかり届くように。

「龍也先輩……!」

立ち尽くす葵に気が付いて、龍也は少しだけ口角をあげた。それは、龍也が小康状態のときにたたえる、穏やかなものではなかった。

バイクの間近に、近寄れない。龍也と葵のあいだには、わずかな距離がある。

龍也の表情をたしかめたくて、葵が、ほんの少しだけ歩みをすすめて、龍也のそばへ、先ほどよりもかすかに近づいた。

「わりぃな、迎えにいってやれなくて」

海のほうに向きなおり、龍也は、葵のことを一瞥もしない。ただ、真っ暗な海の向こうをながめたまま。龍也は、海風に消えてしまいそうな声でつぶやく。

「いえ、全然……遅くなってごめんなさい」

龍也は、煙草を吸うことをやめない。そして葵は、はっと息をのむ。

我流の応急処置こそされているものの、龍也の顔、体じゅうに、今までに見たことがないほどの、暴力の痕跡が見える。龍也のそばにいることを容授してもらえたあの日よりも、ずっとひどいかもしれない。

いい加減にぬぐっただけの血のあと。額にはしった、ざっくりとした切り傷。首元や顔じゅうにはしる、赤く腫れ上がった擦り傷。無惨に切れたくちびる、そこにこびりついた血。青白く腫れ上がった目元。羽織っただけの特攻服のはざまからみえる、そこかしこじゅうにひどい青あざ。強い血のかおり。身体の端々から発せられている熱。

「大丈夫ですか」

「何があったんですか」

「こんなにケガして」

「病院に行きましょう」

「はやく、帰ったほうが」

次から次へ葵の頭に浮かぶ言葉は、そのま、まのどもとできえていく。
どれも嘘ではない言葉だ。心からの言葉のつもりだ。

龍也が真正面からくらいつづける、激しい暴力に、葵の言葉ははじけるように壊れて、はらはらと散っていく。
そんなこと、いままで幾度経験しただろうか。
そして、今日の龍也のすがたは、きわめつけだった。

煙草を吸うのも、きっと一苦労なほど、唇の一部は無惨に切り傷がはいっている。
龍也が、コンクリートに煙草を投げ捨てた。半分ほどのこっているたばこ、まだ明々とともっている先端を、葵は目で追いかける。

葵はさらに近寄った。

「龍也先輩、これから……どこに……」

今日はどうして、わたしを呼んだのですか。
これからどこへ行くのですか。
あなたはこれからどこでだれと、なにを。
そしてそのあと、あなたはどうなってしまうのですか。

あふれ出そうになることばは、単純な単語の連なりにしかならなかった。

不器用な言葉をつなげた葵を、龍也はじっと見やる。まるで、沈んでいくような目で。物寂しく、うら悲しくて。何かを探しているような、だれかにいてほしいような。そしてそれは自分ではないような。

葵の不吉な洞察を見抜いたかのように、

「いーんだよ、葵は」

龍也がそっけない言葉を返した。
葵は、赤いコートのポケットに手を差し込んだ。そのまま手をにぎりしめたあと、勇気をだして、もういちど名前を呼ぶ。

「龍也先輩」

バイクにまたがったままの龍也の腕をつかんで、葵はせいいっぱい背伸びした。

葵に届きやすいように龍也がおのれの頬をさしだすまえに、

葵はそっと、龍也の頬に、くちびるでふれた。

消えない傷跡のないほうへ。

何も刻まれない頬へ、擦り傷や、血の痕をさけて、
少しふるえる唇で、葵はそっと、龍也にキスを置いてきた。

「それだけかよ」

こともなげにキスをもらって、龍也は冷然たる余裕をくずさない。

「これだけです」

いつもより声が出ない。葵の小さな、だけれど、毅然とした声。葵は、渾身の力で、声をしぼりだす。

「あとは、明日。明日です。明日、わたしから、します」

「明日、か」

龍也は、ぽつりと言葉をくりかえし、自分自身にあきれたように笑いをこぼした。

「いっこだけ、わがまま言ってもいーですか」

葵の言葉を聞いた龍也が、悠然としたしぐさで、おもむろにバイクから降りたので、葵は一歩だけ後ずさった。

「言ってみろ」

葵の目の前に龍也が立った。龍也があまりに間近すぎる。おもいきり首をまげないと、龍也の顔が見られないほど。葵の前に、龍也が、くだくことのできない壁のように立っている。

「ぎゅってしてください」

龍也が、抜けるような溜息まじりの笑い声をたてた。葵の背中にゆっくり腕が廻り、そのまま強く抱き寄せる。

「これでいいかよ」
「私が、いいって言うまでしててください」

葵の腕も、龍也の腰にまわる。ずいぶん大きな身長差があるふたり。
龍也の胸元ではなくみぞおち近くに顔を埋めた葵。
より激しく薫る、なまなましい血のにおいを、これでもかとおもいきりすいこむ。

龍也の腕は、それ以上強くならない。壊れてしまいそうなものを、それ以上つぶさないかのように。強さを変えずに、ときどき身じろぎする葵にかまいもせず、ずっと同じ強さで、葵を抱いたままでいる。

「もう、いいです」

葵が龍也の胸に手をつき、ぐいと押し返した。
あっけなく龍也の手はほどかれた。

「ありがとうございます……」

わがままをきいてもらった礼を生真面目におくる葵の頬を、龍也がそっと撫でる。

「なあ、もしも……」

葵の頬に手を置いたまま、龍也が語りかけた。

葵は、じっと黙ったまま、次の言葉を待った。

頬に置かれた手が、葵の肩にぽすんと落ちた。そのまま、龍也の手は、力なく離れていく。

龍也が、けだるくバイクにまたがった。

「明るいとこ通って帰れよ」

葵は龍也を見つめたまま、ゆっくりとうなずいた。

葵が一歩あとずさると、その間をぬって、龍也は単車ごと一気に消えた。

風にあおられて、葵の黒髪が一気に翻ったあと、頬を叩いて、おさまった。

葵は、赤いコートのポケットにもう一度手を突っ込んだ。
そこには、真っ白なハンカチがおさまっている。
おもいきりにぎりしめた。
龍也に、渡したかったけれど渡せなかった。

明日渡せばいいと葵は思った。
さっきのことばのつづきも、明日聞けばいい。

必ず明日はくる。明日がこなかったことなどない。
どうってことない明日は、必ずくる。

明日、明日。葵は自分に言い聞かせ続ける。

きびすを返して、龍也の言いつけどおり、明るい道をめざして、横浜の華やかな夜の灯りをめざしてあるきはじめる。

明日も必ず会える。
明日も必ず呼びにきてくれる。
明日も、必ず、龍也は、葵に会いに来てくれる。
明日も必ず、龍也は、葵に触れてくれる。

呪文のように、まじないのように、祈りのように、心のなかで願い続けていると、葵の瞳から、熱い涙があふれてくる。

「痛そうだったなあ……」

間抜けな言葉が、自分の口から漏れてくる。あとは嗚咽となって、叫びだしたくなるけれど、言葉は情けなく涙となって消えていくだけ。

明日、明日。そう唱えることしかできない無力さ。何者でもない自分。
今からでも、警察でも救急車でも呼べばよかったのかもしれない。

たったひとことだけを信じて、眠ることしかできない。

どこに行くかも聞けずに、そこにも行けずに。
葵は願うことしかできない。

明日会えたら、今日よりもっと思い切り抱きしめてもらう。
明日会えたら、今度は龍也からキスしてもらう。
明日会えたら、龍也のけがは全部なおっている
明日会えたら、龍也はもう傷ついていない。

甘えた想像。
そうして、ただ甘えられる明日だけを願って、葵は泣きながら、光を目指して、歩き続ける。

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