龍也小説

手をつなぐ 龍也編

無言。無音。ひたすら無言。

会話のきっかけとなるカードはほとんど切りつくし、もう葵には何も残っていない。

放課後、ふたりで、雑踏のなかを、連れだって歩く。葵が龍也としたかったことの、ひとつである。

ぽつりぽつりと繰り返された会話はいつのまにかやみ、がやがやとした喧噪のなか、ふたりの間だけ、無音に満ちている。

とはいっても、そもそも普段から、葵も龍也も、然程ぺらぺらとしゃべるわけではない。葵は、会話が途切れたとしても、きまりのわるさや身の置き所のなさを感じることは取り立ててないのだが、

それは、龍也にとっても、そうなのだろうか。
葵は、龍也とともにいるだけで幸せなのだが、はたして龍也も同じ気持ちなのだろうか。

葵は、龍也の近くにいることをゆるされ、龍也が自分の隣を歩いているだけで充分なのだが、その想いを龍也も共有しているのかどうなのか、葵はいまひとつ自信がもてない。もっと楽しませる会話ができれば。もっと、いるだけで癒すことができたり、いるだけで自負をあたえられるような女であれば。言葉のない時間は、少しだけ、不安も育てる。

あの日そっと寄り添ったとき。あの時よりも、今日の葵と龍也の距離はやや遠くにある。
べったりくっつくのも気が引けて、少しだけ離れて、葵は、龍也のやや後ろを、てくてくとついていく。



きらきらと元気な女子中学生グループ、葵よりきっと年下だろう。大学生カップルや、葵たちよりやや年上の高校生カップルなど、この通りは学生が多い。すれちがうのは、睦まじく手をつなぐ二人組。かわいい女の子が、モデルのような男子高校生に、べったりくっついて、腕をからめあっている。おのおのが自分たちの世界に入っているこの通りでは、目立つ龍也をあえてじろじろ見廻す者もほとんどいない。龍也と葵も、多くの若者たちのうちの一組にすぎないのだ。
平日の夕暮れの混雑。ぶつかりそうでぶつからないような雑多な人ごみを、それぞれが抜けてゆく。

この通りを歩く人々のうち、やや毛色が異なった、向かいから歩いてくる三人の集団に、葵が気が付いた。龍也もとっくに勘づいているだろう。
葵ひとりなら、そっと道の端によけるだろう。あちらも、そもそも葵には何の関心ももたない。そしてすれ違う。
ただそれだけの話である。
葵が普通に生活していると、歩いていてそうそう他人にぶつかることもないし、他人ともめることもない。ぶつかったなら謝ればいい。それだけですむ。

ただ、そういった体裁が通じない人たち、そういった体裁に沿って生きていない人たちも、存在する。

龍也が龍也ということをわかっていてか、わからずにか。ほどなくあちらも、世俗的な人々の集団のなかで、特異に自己主張をする、龍也という存在を感受したようだ。やや殺気がはしり、周りを歯牙にもかけぬ、粗野な歩き方の特徴が異様に際立ち始める。
龍也というと、とくに態度は変わらない。落ち着き払った、悠々とした佇まいなことには変わらないが、
もしもぶつかってしまったら。ぶつかりそうになってしまったら。
龍也が、みずから身をひくだろうか。
このままだと、好戦的にぶつかりあい、それが火種やゴングになってしまうのではないか。

見るからに好戦的に近づいてくる集団。
いよいよすれ違いそうになる。

龍也の肩が、ややいかり、その腕が、意図的に葵のことを突き放そうとしたとき、

葵の腕が、龍也の片腕にからみついた。
そのまま葵は、龍也の腕におもいきりしがみつく。

腕を組むというよりも、龍也の逞しい腕に寄りかかり、葵がべったりとからみつく。

龍也の腕に、葵の小柄な身体全体でしがみつき、おもいきり甘えるように、龍也の腕を自分の身体に巻き込んだ。

そのまま、龍也の身体ごとぐいと葵のほうにひっぱった。葵のほうにひっぱられたぶん、龍也の身体ひとり分のスペースがその場にうまれる。
葵の、彼女らしくない行動に、龍也は反射的にふりほどこうとするが、それすら防ぐように、龍也の腕を、葵があらためておもいきりかかえこんだ。

龍也の体は、葵によって歩道の端にぐいと寄せられる。
そのまま、葵は龍也にしなだれかかるように歩き続けている。

葵が龍也をひきよせたことによって生まれた空間。その距離が、無風を呼び込む。龍也と、その集団は、かすりあうこともぶつかりあうことも火花をちらしあうこともなく、一切何事もなく、無事にすれ違った。しつこく睨みつけてくるか。その心配もなく、結局相手は、龍也に興味を失い、別の標的をさがすようにさまよい、人ごみのなかへ消えていった。





当の葵は、後悔していた。
そもそも龍也は、無分別に喧嘩を売るような人間ではない。彼らとぶつかりあったところで、適当にかわす選択肢も、当然存在していただろう。龍也には、いくらでもこういった経験はあり、やや危機的にも見える状況をさりげなくかわす方法も、葵の想像している以上に、龍也はいくらでも知っているだろう。

余計なことだっただろうか。いまだ、彼氏の龍也の腕にからみつき、自分の胸元に龍也の片腕をはさみこむように巻き込んだあげくしなだれかかり、龍也にこころおきなく甘えきったような恰好をしていることに気が付いて、葵は、龍也の腕をぱっと解放し、そそくさと離れた。

そのまま、葵は、後ろへさがる。龍也と葵は、まるで他人のような距離まで離れた。人ひとり分遠くへ戻り、龍也の背後から、目を伏せて、葵はついていく。

「気ぃつかったのかよ」

龍也は、背後をとぼとぼとついてくる葵のほうを、ちらりと振り向いただけ。再び龍也は正面を向いた。

「い、いえ、あの、余計なことを、しまして…」

別に、語気にとげを含んだつもりは、龍也にはなかった。だけれど、葵にはそう刺さったのかもしれない。ばつがわるそうな顔をしているのだろう。見下ろしたさきにある葵の小さな頭が、いつものように、きょとんとした大きな目で、龍也の方をみあげることは、今はない。

「今のやってもいいぞ?」

今の。それが何をさすか、葵は察知したあと、小走りで近づき、必死で訴える。それはまるで弁解のようにも響く。

「あ、私、先輩と一緒にいられるだけで、じゅうぶんで……さっきのは……」

「んじゃ、こっちにするかよ」

龍也が一旦とまり、手のひらを後ろにさしだした。
龍也の手首すらかくしてしまうような、だぼだぼの長ランから覗く、龍也の手。長い指がくいと動き、葵の事を誘う。

しどろもどろの言い訳をさえぎられた葵は、一瞬、その手の意味が理解できない。そして、龍也の手をじっと見つめたあと、あわてて自分の手を重ねた。

指と指が絡み合うわけでもない。強く握りしめあうわけでもない。

ただ重なっただけ。手をとりあっただけ。そっと重なっただけの、龍也と葵の手。

「あの、余計なことを、ごめんなさい」

葵が小さな声で話しかけると、龍也が力をこめて、つながれた手を、一度ぐいっと引いた。背後を歩いていた葵が、一気に龍也のとなりに引き寄せられた。ようやく、龍也の間近にこられた。葵と龍也の手はそっと重なり合ったまま。

やや翳っていた葵の表情は、次第にやわらかくなる。そして、日なたのように表情をなごませたまま、龍也を見上げた。

「あの、また、いつかでかまいませんので、さっきの、もうひとつのほうも……」
「……」
「だめですか」
「……」
「私、さりげなかったでしょ?」
「どこがだよ」
「ああいうときは私にまかせてくださいね」
「上等じゃねェか」

龍也の口角が穏やかにあがったことに、葵は安堵した。ぽつりぽつりと交わされる会話。ときおり無言にもどるたび、龍也の頑強な手は、葵のほっそりとした手を、不器用に包みなおす。
龍也のしなやかに鍛えられた身体が、葵の小さな体を、心ひそかに隠すように触れ合う。雄弁ではないけれど、多くの言葉を与えるかわりに、龍也は、片腕ひとつで、葵を慈しむ。龍也の手のあたたかさによって、不安はみるみるうちに溶けていく。多分龍也も同じ思いだ。葵はゆっくりと確信を育てていく。龍也が葵にあわせて、安閑としたペースの歩調を守りながら、年下の彼女にしっかりと寄り添った。

二人の身体がそっとくっつき、夕暮れの横浜の街に溶けて行った。


prev / next

- ナノ -