Night and day 1


『真志井くんに、年上の彼女が出来たらしい』

そんな噂が戸亜留市立京華中学校をかけめぐった、二週間後。

杏は、真志井雄彦に、見事勝利した。


否。
真志井と杏が繰り返してきた戦いは、五分五分と言えるかもしれない。

それでもこの日ついに杏は、京華中きっての頭脳派不良少年、真志井雄彦に、完全勝利をおさめたのだ。

この年、夏が訪れるのが少し遅くて、7月が上旬をこえても杏はいまだ中間服を纏っていた。長袖のブラウスの首元に清潔なリボンが踊る。ボックスプリーツスカートの生地も分厚いままだ。白鳥のような首がブラウスからすんなりとのびて、華奢な鎖骨がめだつ。薄い皮膚で覆われて浮き上がる細い骨にわずかな汗がひかり、肌に残った日焼け止めがすこしだけ浮いている。少し成長の早い体を覆うブラウスの衿を瀟洒にぬいて着こなすスタイルは校則違反の瀬戸際といったところだ。生まれ持ったブラウンヘアを含め、生活指導の教師からかるくにらまれるけれど、この成績を獲得する生徒にもはや厳しい指導は怒らない。そしてクラスメイトからの支持を集め、杏のスタイルをマネする生徒も増えた。杏の身長はこの夏、168センチにまで伸びた。スカートからのぞく膝は、ますます華奢なものにかわった。
期末考査が終われば夏休みは目前で、放課後のがらんとした校舎は開放感にあふれている。夏の気配は足下までおとずれているけれど、半袖を纏うには、杏の脂肪の足りない体はまだ抵抗をみせた。

夕べは雨であった。
グラウンドはぬかるみ、水たまりがのこったままだ。吹奏楽部がアップを始める音ががらんとした校舎にのどかにひびいている。金管楽器ののんびりとした音に耳をかたむけたまま、杏はまだ教室の一番後ろの席から立ち上がれないままでいた。グラウンドは、サッカー部と陸上部と野球部が場所をわけあい、どこか怠惰なムードで練習をつづけている。

杏が座るのは、誰もいない教室の窓際だ。そして最後尾の席である。昔気質が抜けぬ中学校は、生徒の成績を席順に反映させている。窓際の最後部座席は、クラスでトップの成績を誇る生徒にゆるされた席だ。白い漆喰の壁に机をぴたりとつけて、窓からグラウンドをのぞく。グラウンドの向こうには住宅が広がり、この街を低い山が覆う。そして山の彼方にはスカイブルーの海が広がる。東京湾だ。関東の片隅の少しだけ贅沢な景色を味わえるのが、トップの特権だ。

隣のクラスに在籍するあの少年も、最後方の座席を一学期より堂々と陣取り続ける。
ふたりのかわいい後輩は、教卓の目の前の席の常連だそうだ。
そして三人が慕うあの大きな少年はかろうじて、教室中央部の座席を確保しているという。

だれもいない教室で、杏はひとり、溜まりきった疲労をあらわにして項垂れている。
女子生徒にしては大きな彼女の手元に置かれているのは、期末考査の成績表と、進路指導のプリントだ。成績上位の生徒を選抜して行われる面談を終えた杏は、いまだこの席から立ち上がれないままでいる。


「疲れたー……」

今回杏が獲得した見事な成績は、担任と副担任、そして進路指導の教師も唸らせた。県下唯一の公立女子高校を志望していたはずが、教師一同は今回の成績に浮き足立ち、県下どころか日本でもトップの国立大付属女子高校や私立高校の名前を進学先候補に勝手に挙げる始末だ。杏はおとなからの過剰な期待に鼻白み、圧倒されるばかりだった。生まれつき浅黒い肌は、43にして美しい素肌を誇る母親ゆずりか、思春期らしき乱れも起こらずつややかなままだけれど、疲れも見えている。切れ長の澄み切った瞳にも疲労がにじんだ。

成績表をもう一度眺める。満点はゆうに2つ。そしてすべての科目で93点をこえた。90点越えで満足していては、あの少年に勝てなかったはずだ

学年順位、男女別順位。9教科合計順位。すべて、1という文字が踊っている。

古い慣習がはびこる公立中学といえど、30年以上まえにテスト順位と個人名を張り出す習慣は消えた。期末考査以外は、三者面談で尋ねなければ順位すら教えてもらえない。聞かなくてもわかる結果をようやく手にした。杏がようやく、あの人を圧倒したのだ。

「……」

努力という名前の執着や焦燥を強く意識せずとも、杏は生来、勉強にくわえてスポーツも芸術も、ひとまず難なくこなしてきた。もってうまれたのびやかな感受性と吸収力をのびのびと使えば、こなす以上の成績はいつも杏についてきた。他人と自分を比べて過剰な焦慮を抱く性質も幸い持たずに、今日ここまで杏は闊達に歩むことができた。

それは、何も知らなかっただけなのかもしれない。


『真志井くんに、年上の彼女が出来たらしい』


この噂を耳にして以降、杏はあの少年の顔を見ていない。そしてかわいがっている後輩と会うこともなくなった。いずれも杏のほうからそうえらんだのだ。

試験勉強を本格的に始める前に、杏の耳に飛び込んできたそんなうわさが、杏へこれほど根のつめた努力をかさねさせる推力になったとは認めたくもないけれど、どうやら杏のなかに正体不明の力がうまれたことは真実のようだ。

それがこの結果だ。


「こんなに疲れるんだ……」


京華中学入学以降杏は定期考査において学年一桁の常連である。最低順位は9位、最高順位は3位だ。
そしてあの少年の名前は杏の前にいたり後ろにいたり時と場合で杏といれかわる。けれど今回は、あの少年に勝ちたいと思った。計画的な努力を重ねていれば、杏は自分自身のこれまでの甘さを思い知った。ただ自分のペースで歩むだけでは手に入れられないものもある。定期考査でトップを意識して狙うことは、自分自身を疑わず信じすぎずただありのままに生きることをゆるされてきた杏が、自分自身の限界をみつめて、そこに挑戦することを知ったはじめての経験かもしれない。教師が挙げた志望校の名前もけして夢ではない。もしかすると今後の杏を大きくするきっかけになるかもしれない。

あの少年といっしょにいられないなら、自分の人生は、自分自身で選ぶほかない。

そんなおもいが、杏のちいさな心に去来したとき、杏はふたたび、自身の甘さを知った。

だから、みしらぬ年上の女性にあの少年をとられてしまったのだと知った。
あの少年はものじゃなくて、人間なのだ。
そして、あの少年のそばでいっしょに生きたかったのであれば、なおのこと、自分のことを自分自身で選び取らねばならないのに。

何より、自分のきもちを、自分自身の言葉で、彼に伝えなければいけなかったのに。



そんな逃れようもない真実から目をそらした杏がこれからやるべきことに目を向ける。荒廃した中学から進学校をめざすのであれば、すべきことは山積みだ。内申点は美術で獲得した賞に生徒会活動とボランティア活動で確保できているというものの、努力は重ねれば重ねるほどに終わりは見えない。そのとき、杏のスカートのポケットのなかでスマートフォンがふるえる。一縷の期待をふりはらいながらiPhoneをとりだすと、日頃学校で時間をともにする女友達からのメッセージであった。テスト終了を記念して此処より少し離れた遊興施設へちょっとした遠出の誘いだったけれど、杏は自分の目標を優先させた。幸い、そんな杏を理解してくれる友人に恵まれている。女友達にめぐまれたことが、女子高への志望動機の一つかもしれない。詰めに詰めた努力でようやく手にした本物の1位を、杏は保つほかないのだ。ひとまず友人に、京華中近辺でもっとも安価なコーヒーチェーンの名前をあげて、ここで勉強を続ける旨をしるしたメッセージをおくった。ほどなくして友人より、人気の少年漫画のキャラクターが了承の意思をしめしているスタンプが送られてくる。


そして、杏の決断は、あっけなく遮られることとなった。


これは、ものの一時間後のことだ。

膨大な数の夏休みの宿題に、早速とりかかっていた杏の勉強計画は、あっさりと潰えた。

安価なコーヒーショップのかたすみで、彼女がひらいていたテキストを、骨の浮き上がった大きな手が遮ったからだ。この手は、持ち前の肌は青白く、日に焼けると小麦色に変わる。杏がずっとそばにいたはずの手は、夏の色をしていた。


「ちょっと……見えないよ……」
「ここでべんきょしてるってきいてよ」


会いたかったともいえるし、会いたくなかったともいえる。
少しみだれたハーフアップを気にしながら、杏は、一人がけのソファを勝手に移動させて杏の前に陣取ってしまった少年のすがたを、おそるおそる見上げた。
チープなプラスチックカップにチェーン店のロゴが印刷されていて、透明色のカップの向こうで飴色の液体が透き通って光る。

このたびの期末考査で杏が華麗にくだした相手。

もう、こうして会うことがゆるされるはずのない相手。


「マーシー……」
「なんだよ杏」


真志井雄彦というなまえの少年であった。


「え、だれにきいたの?」
「カムイじゃねえぞ。おまえのグループの女子たちになー」


清潔な半袖シャツの胸元から、インナーのブラックシャツがのぞく。

はりのある肌に血管がうきあがる。
杏はこの力強い腕が大好きだった。


「え、私の友達、戸亜留市西のラウンドワンに行くって言ってたけど」
「そうだよ、おれもそこにいたからな。あの娘たち見つけたけど、そん中におまえがいないからよ」
「マーシーも行ってたんだ……」
「ああ。カムイと、ラオウとな。ラオウも帰ったわ。……あのさあ、なんかしんねぇけどさ、おれ、おまえらの敵扱いだよ」


真志井雄彦は、肩までのびた黒髪を、両耳と同じ高さで軽くまとめている。彼が長髪をえらんだのは中学二年のころで、さっぱりと短髪に仕上げるより、彼持ち前の畏怖がにじみ出ることを自覚したのが14歳のことだった。
色が黒いか白いかでいえば、真志井の肌は明らかに杏より青白くて、長くしっかりとした首にはしる筋は年齢以上に発達している。

真志井に関する噂が学校中をかけめぐってから、杏は初めて彼と語らうかもしれない。
語り口はいつもと変わることはない。
彼の少し軽妙なテノールを、杏は心地よくあじわいつづける。


「て、敵!?なにかあったの?」
「いやこっちがききてーわ。なんだあれ。おまえのダチによ、マーシーいっぺん死んでこいっていわれたんだぞ……いくらおれでもきずつくからな?ラオウがすげえ笑ってたわ……カムイまで笑いやがって……カムイ、おまえのダチらんなかでボウリング始めたから捨てて帰ってきたわ。めちゃくちゃ触られてよ、カムイ死ぬほど調子こいてやがったぞ」
「え、ほ、ほんとに……?そんなにひどいこと…?あ、カムイくんはそれでいいよ、みんなカムイくんのことかまいたいっていってたし」
「おまえの友達になぐられました」
「そ、それはうそだよね……?」
「ああ、嘘だよ。けどなあ、おまえんちの壁にマーシー殺スって描くぞっつーのはいわれました。描くなよ……?大家にキレられんだからな……?」
「き、器物損壊ってやつだよね、落書きは……。かわりにあやまるよ、ひどいこと聞かせちゃって、ごめんね……。私がともだちに、ちゃんとどうしたいか言ってないせいだね…」

少し身をひいた杏が、頬にこぼれてくる髪をそっとかきあげた。

ソファに178センチのからだをあずけて、モデルのように長い足を大胆にくみあげた真志井は、ひどく大人っぽい表情で杏のことをみつめてやまない。

すっぱりときれた瞼に、杏を糾弾する意志はみあたらないけれど、杏の本心をたずねたい心はまっすぐに宿っている。

「ま、おまえの友達がなんでおれに怒ってんのか、わかんなくはねえわ」
「こういうの、よくないよね。私がはっきりしないから……」
「慶應女子。お茶の水女子大付属。受かるんだろうな、今のおまえなら」
「え、私の進路指導、聞いてたの?」
「あのコたちに聞いたわ。さすがにカムイじゃねえぞ。そーいうとこにいきてーのかよ」
「マーシー……。そのまえに、聞いていい?」

なんだよ。こいつもらうぞ。
マイペースな振る舞いをやめない真志井が、杏が注文したアイスコーヒーをとりあげる。真志井のきらいなガムシロップがたっぷりと満たされたアイスコーヒーだ。がさついたくちびるがストローにあたり、琥珀色の液体をすいあげた。

「ちょっと、自分ののまないの?それ、私のじゃん……」
「いつものことだろ。おれののめよ」
「ほんとに。いつものこと……私の飲んじゃうのも、交換するのも。マーシーのコーヒーのほうが美味しいのも、全部いつものこと……。ね、マーシー、だから聞きたいの。ここで私と、こんなことしていいの?」
「したくないのか」
「したいって言って良いの?」

真志井のすっきりとした瞳に、月にかかる雲のような影が宿った。
ストローで一気にコーヒーを吸い上げると、眉根にますます濃厚な雲がかかった。
杏も、真志井が購入したカップを当たり前のようにとりあげた。混ざり気ひとつないコーヒーはチープな味わいのはずなのに、真志井がえらんだものとなるといつだって杏にとって特別であった。


「言う資格なんて、私になくない?」
「おまえらしくねえわ、最近」
「そうなの。私、もうずっと」


シロップもミルクも浸さぬコーヒーは、疲れ切った杏の聡明な頭を綺麗にあらいあげてくれるようだ。
彼女のほそいのどもとから、ようやくこぼれたのは、ちっぽけな本音だった。


「マーシーに彼女ができたってきいてから」


シロップが攪拌された甘い珈琲を、真志井が一気に飲み終えた。そしてチープなカップをいささか乱暴な仕草でテーブルの上におけば、結露でうまれた水滴が、杏の開いていたテキストにひとしずく散った。厚い紙がたわみはじめる。

「私、ぼろぼろになってる」
「ぼろぼろのコンディションでおれをボコボコにしたのか」
「えー?マーシーは何位……?」
「3位。こいつだよ」
「5教科3位?どこがぼこぼこなの!いつもの成績じゃん。たまたま私が2点差だっただけ。わあ、あの高校の名前も書いてある……マーシー、すごいね……」
「2位あいつだってな、吹奏楽部の部長」
「ああ、あの男子なんだね。9教科……は、15位、こっちはいつもこれくらいじゃん。ていうか充分でしょ?だってマーシー音楽苦手だし……そっか、今回音楽教えてあげられなかったね、ごめんね」
「あーあ、おれが誰かのせーにするなんてな」
「誰かって」
「おまえだよ」
「どうして私なの……?今、マーシーがそういうこと考える相手って、ちがうよね?」


真志井の心を伺うような言葉は、確かに杏らしくなかった。
いつだって彼に、まっすぐな心でこころのうちを尋ねて来られたはずなのに、今の杏は、澄んだ心に蓋をしている。薄い幕を掛けて、その布を開けないでいる。こんな心根の人間が、この少年に好かれるはずもないのに。そう抱いた杏の心が、目に見えない何かにぎゅっと握りつぶされるかの如く痛み始める。

そのとき、真志井が小さくつぶやく。


「行くぞ」


短い声と同時に、真志井は、実に一方的な仕草で丸いテーブルの上に開かれていたテキストにノート、そして電子辞書をてきぱきとたたみ始めた。

えっと小さく叫んだ杏は、それでも素直に、真志井によって乱雑に積み重ねられ突き返されたテキストの山を、あわててバッグにしまい始める。

手前勝手に使っていたソファを蹴り上げるように立ち上がった真志井が、素直なようすで真志井についていこうとする杏の手首を力任せにつかんだ。杏のブラウス越しの手首は壊れてしまいそうに華奢だ。


「い、いたいよ、マーシー」
「ガマンしろ。おれはもっといてぇんだ」
「どうして。私とマーシーこんなことしたらだめなんじゃない。あ!ご、ごみ、そのままだよ…」

カップをふたつ、そしてストローの紙くずをブルドーザーのようにとりあげた真志井が、杏のことを乱暴に引きずりながら、分別を行うこともなくすべてのゴミをカフェのゴミ箱に廃棄した。真志井のことを恭しく迎えるように自動扉がひらく。涼しかったはずの外の空気は、あっという間にほんものの夏に変わっていた。


「……」
「ね、ねえ、マーシー」
「何。かばんかせ」
「だ、大丈夫。マーシー、前、こういうところ……人に見られるのいやって、いってなかった?」
「んなこといってたから、おまえがどっかにいくんだ。わかったわ」
「どこかにいった……こと……」

自分自身が何か大きなあやまちをおかしているのではないか。
それはどこから始まったのか。
杏はみずからの歩んできた道を慎重に辿り直しながら、真志井の大きな手にただ引かれつづけた。
汗ばんだ手。
分厚い手のひら。
この手にずっと触れられたかった。
遠慮なくさわられたかった。
この痛みをずっと、感じたかった。

そんな本音をひた隠しにしながら。

拍手

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