異国情緒あふれる女学校のあちこちで、セーラー服の少女たちの嬌声やはしゃぎ声が聞こえる、午後零時。

外的イメージに反して非常にリベラルな校風の女学校とはいえ、もちろん部外者は進入禁止。
頑丈な柵と警備にまもられて、乙女の園で、少女達は、平和に御昼時をすごしている。

洋風建築の教棟がならぶ校内のかたすみの、古い音楽ホールの、裏。
建物のかげになり、やや湿った場所だからか、ここにおとずれる生徒の数はすくない。
目の前には、塀がそびえたつが、さほど高くはない。すわってしまえば見えないが、立ったままであれば、横浜の街並みの眺望もたのしめる。
レトロな木製のベンチが間隔をあけてならび、木々のざわめきの音が心を落ち着かせる。

体育会系の親友は、今日から代表合宿でしばらく休みである。
千歳は、ベンチに腰掛け、ひとりで昼食をとることにした。
おのおのが独りだけの時間をすごすことは、この自由な女学校において、さほどめずらしいことではない。

夏から秋の境目の季節。制服は長袖セーラーに変わっている。
キャメルのセーターを纏った生徒もじょじょに増えはじめ、
そろそろ、ジャケットを羽織らずバイクに乗せてもらっていると、風が、まるで刺すように冷たくなってくる季節だ。

そういえば、もう秀人に、2週間は会っていない。いや、2週間をゆうに超えているだろう。
お互いの学校がはじまり、ややバタバタしていたことも理由のひとつだが、
秀人はときおり、千歳の日常からふっと姿をけし、また飄々と戻ってくる。
千歳の時間に秀人がいないあいだ、彼がどこで何をしているか、
考えてもしかたないこともあれば、気がかりだってある。
こちらから電話をかけてもなかなか出ないとあっては、手の施しようもない。
合いカギを使って突撃できるほど、千歳は勇敢ではない。
お手上げのまま、また秀人が戻ってくることを、じっと待っている。

食事が終わったあと、からのお弁当箱を丁寧につつみなおし、脇においたあと、お茶で口の中をうるおす。

千歳は、図書館で借りてきた本を、スカートのうえにひらいた。
やや色あせた文庫本は、1979年に書かれた短編小説集。
伊勢佐木町の有隣堂で探したけれど、絶版で手に入らなかった。その後学校の図書館で見つけることができた。
秀人と付き合いはじめてから、この作家の本に手が伸びるようになった。オートバイに憑かれた男の子たちの物語が、手を変え品を変え、さまざまなかたちで綴られている。
なかでもこの本は大好きだ。一度借りて通読したけれど、ふたたび借りてしまった。
もっとも好きな短編は、オートバイをこよなく愛する青年が、猫をつれた若い少女に出会ってはじまる、どこか風変わりな物語。
主人公の青年の年齢は秀人とは異なるけれど、この疾走感はきっと秀人もいつも感じているのだろう。
冒頭部分を何度も読んでは、情景を思い浮かべる。

幾度も文字をたどり、千歳は沈んでいくように味わう。
建物の蔭がさすベンチに千歳ひとりだけ。三人がけのベンチのとなりには当然誰もいないはずだが、
あるときふと、黒い影がとなりにふわりと腰かけた。

「ひとりか?ダチは?」

やわらかいテノール。澄んだ声が耳元で、すずしげに鳴る。
物語と現実のあわいで、千歳は、ハっと顔をあげて、隣を向く。

「…!!!ひ、秀ちゃん……!?」

大声をあげたつもりが、抜けていくようなかすれ声となり、両手を口にあてて、ただ唖然としている千歳。

ここにいるはずのない、秀人が、千歳のそばにいた。

短ランに、手ぶら。いつもの髪型で。
当たり前のように千歳の方を向いて、何の罪もなさそうな、平和な笑みをうかべている。

女子だけの閉ざされた世界のなかに、なぜか秀人がいて、千歳の隣に座っている。

悲鳴をあげそうになるが、すんでのところで、それを息に変換して、声を思い切りのみこむ。
千歳の頭のなかは、あまたの詰問事項にあふれているが、

「え、え、え、あ、歩いてきたの?」

と、至極どうでもいい質問が開口一番とびだした。もちろん小声で。

「いーや?単車」
「そうなの?音聞こえなかった……」

問題はそんなことではない。
千歳は、押し殺した声でたずねる。

「どこから入ってきたんですか……?」
「正門」

こともなげにこたえたあと、ベンチから立ち上がる秀人。

「すげーなおまえの学校。外国みてー」

秀人に問いただしたいこと、追求したいことが、やまほど思い浮かぶのだが、言葉と頭の回転が追い付かない。
のんびりぼんやりとした自身の頭の回り方が、このときほどうらめしくなったことはない。

とりあえず、洋風建築のゴシックな女学校のなかで、あまりに目立ちすぎる、このマイペースな彼氏をどうにか隠さねば。
いや隠すってどうやって。
千歳の小さな許容量はあっさりとオーバーする。
そんな千歳をよそに、鷹揚な恋人は、好奇心いっぱいにその場を歩き回り、音楽ホールのレンガ造りの壁にぺたぺたとふれている。

「ちょっ…、す、すわってて…!」

千歳はあわててたちあがり、秀人の腕をひっぱって、ベンチの背後へ隠した。
そんなことをしたところでさほど意味はなさないが、
とりあえず死角へ隠したつもりになってみる。

千歳の顔と秀人の顔がちかづくが、至近距離という事実からうまれる恥ずかしさより、
なんとかばれないように昼休みを切り抜けねばというパニックがかつ。
いざとなったら秀人を、身をていして隠す!と、千歳のなかには謎の決意まで誕生する。

「心配すんな、バレねーうちに帰ぇーるよ」
「だ、大丈夫かな…一応あんまし人が来ない場所だけど……」
「バレたら退学?」
「男女交際禁止ってわけじゃないから……でも怒られるかな……たぶん懺悔室行きですね……」
「こえーセンパイになんか言われる?」
「そ、それは別に……」
「おまえにメーワクかかんねーよーにすっからよ」

秀人はくつろいだ表情で、日向のように笑って、千歳の頭を撫でる。

「最近、おまえの顔見てなかったなーって、思ってよ」

千歳の頬を、秀人の大きな手が覆った。

「会いたかった」

両手で千歳の頬を覆ったまま、秀人は、そっと、キスをする。
千歳は瞳をひらいたまま。
それは、いつも秀人に奪われるがままの深さではなくて、
真昼のさわやかな夢のような、かすめとるようなキスだった。

「またTELする」

立ち上がった秀人は、目のまえの塀に手をかけ、ひょいと飛び越えた。
こちらを振り向きもせず、そのまま飛び降りてしまう。

わずか、数分の逢瀬。
秀人は風のように消えていく。

ゆらりと立ち上がり、残った風を、ぼうっと見送る千歳。
歯磨きしていなかったのに…。そんな現実感あふれる後悔が、千歳におそいかかる。


ほどなく、同じクラスの女生徒たちが、千歳のもとへかけよってきた。

「ねー、さっき誰かここにいなかった?」
「男の人の声がした!先生?」

千歳は、平静を装い、ふわりと微笑んでこたえる。

「いないよ、だれも」
「そっかー、それならいーんだけど」
「ここ穴場だねー。あたし達も明日ここでお弁当食べようかな!」

「うん、おすすめだよここ。誰もこないし」

千歳は、器用に話を合わせる。
さっきまで座っていたベンチのうえには、お弁当箱の入った小さなバッグに、古びた文庫本がそっと置かれたまま。
急に吹いてきた風にあおられ、文庫本がはらはらと繰られている。
下唇を、親指と人差し指ではさみ、白昼夢ではないことを必死で確認する。

あー、だれかあたしに会いに来てくれる人いないかな。
オトコほしー。
気安い雑談を、千歳は穏やかな笑顔で聞きながら、
バッグを手にもち、文庫本を、そっとそのなかにすべりこませ、彼女たちのあとについて歩き始めた。

聞きなれた排気音が、山手の空に響いた。
友人たちは、別段それを気にしていないようすだ。

あの音は秀人のあかしだ。
音だけ残して、秀人はいまごろ、もう、どこを走っているだろう。

会いたかった。
先ほどの数分間を反芻すると、心臓から泡に飲み込まれるようで、上半身がまともにうごかなくなりそうだ。
頬に置かれた手のひらと、そっとかすめたことの残り香を、
少しだけ確信にかえて、
千歳は、乙女の園の午後の時間へ吸い込まれていく。

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