行動がのんびりとしている千歳は、待ちあわせにおくれるほどではないものの、待ちあわせ時間直前、もしくは、ほぼ指定時間通りに到着することが多い。
今日は、自分なりに準備をスピードアップし、いつもより十分ほど早く、待ちあわせ場所に到着した。

すっぴんで直射日光の下に出るとすぐに真っ赤になってしまう千歳の敏感な肌には、日焼け止めが欠かせない。そのうえから軽くルースパウダーをはたき、姉に借りたクリアピンクのクリームチークを少しだけ塗ってみた。
薄化粧にすぎないけれど、スマートな秀人の隣に自分自身が並んだとき、少しでも子供っぽくならないようにがんばっている。
ただし、秀人のバイクの後ろに乗って一旦走り出してしまうと、髪型もメイクもすべて台無しになってしまうのだが、それでも、いい加減にすませるわけにはいかない。

そして、千歳はふと気づいた。
色つきのリップをぬりわすれている。

あいにく、最も気に入っているリップは自室のコスメBOXのなかにあり、持ち歩き用のリップもグロスも、ポーチの中には入っていないはずだ。
自分自身の用意のわるさ、そそっかしさにあきれるばかり。

それでもバッグをあけて念のためポーチをさぐってみる。

出てきたのは、オーガニックブランドのリップクリーム。
色つきでもなんでもなく、ただ純粋に、くちびるの荒れをケアするためのリップにすぎない。

それでも塗らないよりは、ずいぶん良いだろう。

うつむきがち。天然パーマでくるくる巻いている千歳の長い黒髪が、ふわりと前に垂れる。鏡もとりだして、下を向いて、そこだけくすんでいるようなヌードカラーの口元を確認しながら、少しかさついている唇に、丁寧に塗りつけた。

ゼラニウム精油とカモミール精油の香り。まだ数度しか経験していない、秀人とのデートの前の、つぶれてしまいそうなほどどきどきしている気持ちを、すっと落ち着かせリラックスにみちびいてくれるような、清潔感ある香り。そして、そのハーブの香りのなかには、すこしだけ複雑さがある。鏡をポーチにしまって、バッグのなかにつめこみながら、もう一度リップクリームを塗る。
何度か塗ったあと、上唇と下唇をこすりあわせた。そのとき、

「何塗ってんだ?」

目の前に突然秀人の顔があらわれる。うつむいていた千歳の顔をのぞきこむように、腰から体をまげて。

突然の秀人の声に驚愕して、千歳はぱっと顔をあげた。そして驚嘆の声をあげるまえに、

「……!?」

秀人のくちびるが、そっと、千歳のくちびるに重なった。
そっと重なるだけ。
そして、やや撫で上げるように味わったあと、秀人のくちびるは、千歳から離れていった。

そのあと、秀人は眉をしかめて、ハーブ系精油のややとらえどころのない味をどう表現しようか、マイペースに考えを思いめぐらせている。

「ああ、わりぃな、いきなり」

悪びれない笑顔で、秀人は千歳に軽くあやまった。

「・・・・・・」

千歳は、呆けたように目をまんまるにしたまま、思わず、秀人の袖口をつかんだ。

「だいじょーぶか?」

千歳は、秀人の袖をつかんで、片手で口元をおさえる。そして唖然とした表情で、目だけあたりをみまわす。閑散とした通り。日曜日の午前中。人通りはまばらで、千歳のように、ひとりで誰かを待っている人が多いものの。

「い、今の、人に見られたかも……」

秀人が、千歳の手首をつかんで勢いよく立たせる。
千歳の懸念はよそに、こざっぱりした風情で、秀人は千歳の顔をのぞきこむ。

「なあそれ何よ?変わった味だな」

秀人は千歳の手をひいて、すたすたと歩き始めた。さらりとからめられる手のひらに、千歳は、いまだに慣れない。いつになれば、こんなに心臓をばくばくさせずにこの人のそばに立てるようになるのか。そんな日はこないような気もしている。

「へ、変な味にきまってます……、ハーブだから」

いまだ、手に持ったままのリップクリームを、千歳は秀人に見せる。

「ハーブ?何だそれ?」

「知らなくていいです……」

千歳は、そのまま、リップクリームをバッグにしまおうとする。
すると、千歳の手から、秀人がリップクリームをさっととりあげた。

「えっ、あっ、な、なに?ただのリップですよ……?」
おいしくないです……。

そう伝えながら、千歳は、とりあげられてしまったリップクリームに思い切り手をのばす。リップクリームという、千歳にとっては比較的プライベートなもちもの。どことなく気恥ずかしい思いにかられ、少しだけ背伸びして、秀人から一生懸命とりかえそうとするけれど、秀人の手はさらに天高く頭上へ舞い上がる。
秀人と千歳。身長は10センチと少しだけしか変わらないけれど、千歳が長い腕をのばしても、秀人がさらりと、恋人の白い手をさえぎる。そのタイミングでつながれていた手がほどかれたことに、千歳は悄然とした思いと、鼓動が緩和された安堵、両方を味わった。

返してくださいーーとあたふたと取りかえそうとしても、要領の悪い千歳は、秀人の反射神経にはかなわず、小さなリップは、あっさり取り上げられたままである。

そのまま、秀人はリップクリームのキャップをあけ、おもむろに自分のくちびるにぐりぐりと塗った。


その、あまりにマイペースな行動。


千歳は、口をまんまるに開けて、こころから驚愕する。
真っ白な首元は、一気に朱色にそまる。
耳はかっと赤くなり、顔にも紅がさし、耐えきれず千歳は深く深くうつむいたまま、歩くペースはゆっくりおちていく。

「これがお前の味か」
「……」

追い打ちのようなことばに、千歳はいよいよ耐え切れなくなった。

いい様にからかわれている……と、自分のどんくささにあきれ果てた直後の、秀人のこの、きっと本人にとって、どうってことのない、この行動。

まだ付き合いはじめて間もない、この男前かつ、どマイペースな彼氏の、飄々としたありさまに、千歳はなかなか追いつくことができない。

かすめ取る様なキスしかまだしらない千歳。すこし触れられるだけで動揺してしまう。自分のプライベートな部分を見られる勇気がいっこうにわかず、まだ、秀人ときちんと向き合えない。それでも秀人は、そのどこかラフなマイペースさで、千歳の壁をあっさりと突破する。

たかが自分のリップクリームを、秀人が使っただけ。

女子高育ちでただでさえ男子に免疫がないのに、自分の隣にいることがいまだ信じられない秀人に、こんなことをされてしまうと。

もう言葉を発することもできず、小さなバッグを胸にかかえたまま、うつむいてとぼとぼと秀人についていく。

千歳の隣に舞い戻った秀人が、こころもち心配そうな表情に変わり、
「怒ってんのか?」
びっくりさせた?悪かったな。

かわいい彼女の、儚く細い肩を抱き寄せて、どこかあっけらかんとした声色で、やさしく千歳にあやまった。

ふるふると首を横に振る千歳の頭をぽふぽふと叩き、秀人は千歳の手をつかんで、リップクリームをにぎらせた。

「大丈夫です……」
あまりに頼りない声で弱弱しくつぶやいた千歳は、バッグをあけて、そそくさとしまいこんだ。もうこのリップクリームは使えない。これからもずっと千歳のポーチに、しまわれたまま。



そういえば、と思った千歳が
「バイクはどこに置いてきたんですか?」
とたずねると、秀人が指をさす。

「おまえもタンデムに慣れたな」
「えっと、慣れたっていうか、姉と兄と母も、バイクに乗るから、初めてってわけじゃなくて……」
「あ?そーなんか?」
「い、言いませんでしたっけ?でも……」

好きな人の後ろに乗せてもらうのは、はじめてで。

千歳の、消えてしまうような語尾は、秀人の耳には届かない。
秀人はすでに、真っ白なバイクのそばにいる。


千歳の味をくちびるにのこした秀人が、千歳を手招きした。千歳は小走りで秀人のもとにかけよったあと、少し勇気をだして、秀人をみあげて微笑った。秀人が、千歳の両の頬をそっとつつみ、少しだけ長いキスをおくったあと、恋人にメットをかぶせた。

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