IN THE SUMMER
夜明けのリネン室でこの世のおわりを見た

クーラーのリモコンをとりあげた小春は、温度を1度さげると同時に、タイマーもセットした。
この快適な冷房が1時間後に切れるとき、寝付きのわるい小春も、安らかに眠れていることを願って。


8月もあっという間に一週間がたとうとしている。時折緋咲に会える、のんびりとした夏休み。これから自分の時間を迎える緋咲と違って、小春は、体のサイクルに素直にのっとって、一日の終わりを迎える。

お風呂上がり。髪の毛は乾いているけれど、ヘアバンドで前髪をあげていたから、いつもは額を覆い隠す前髪が、ぴょんぴょんはねている。量がおおくて言うことを聞いてくれない髪の毛だけれど、あとは眠るだけだから、もうかまわないのだ。

母親は夜勤。小春に夕食をつくったあと、車であくせく出かけていった。帰るのは明日の昼になるだろう。だから、母親のドレッサーから化粧品を少しだけ拝借した。夏にそぐわぬコクある感触の高級化粧品が塗りたくられた小春の顔は、おでこも頬も、なんだかてかてかしている。つまり、リッチな乳液は、10代の小春には重たすぎたのだ。こめかみにぽつりとできあがってしまった吹き出物が気がかりだ。眠ってしまえばなおるだろうか。


今日のパジャマは、ピンク色のロングパンツに、サンリオのキャラクターのTシャツ。ずいぶんいいかげんな姿であるが、小春がもっともラクでいられるすがただ。かわいいパジャマは洗濯中。


8月はじめ。
宿題は七割がた終わったけれど、苦手な英語をまとめて残している。
夕食をとり、おふろに入るまでの2時間で終わらせてしまおう。そう決意したはずの英語ワークは結局、2ページしかすすんでいない。
情けない痕跡だ。また明日がんばろう。そんなゆるい決意を残して、勉強机の上をかたづけて、ワークにシャーペンを挟んだまま、ぱたんととじたとき。



小春の部屋にもつながっているインターフォンが、突如大きな音で鳴った。

「!!!」

防犯のため母親が導入したものだ。工事に手間がかかっていたわりに、これが活用されることは滅多にない。
スピーカーがつながったことをしめす赤いランプが数秒間点灯したあと、ぷつりと消えた。


そして、もう一度インターフォンが響く。


こんな時間にインターフォンが鳴ることはない。インターフォンを押して逃げるようないたずらに遭ったこともない。
すっかり目がさえてしまった小春は、はたと思いつく。

小春の部屋の窓から、玄関がのぞきこめるのだ。
宅配のトラックで会ったり、郵便カブであったり、母親の知人であったり。おおむねここから正体を確認できる。
きっちりとざされたカーテンのすきまから。


おそるおそる、のぞいてみると。


塀沿いにとめられたあのバイク。

仰天した小春が、驚きのあまり、持ち主の名前を渾身の声で叫んだ。


「ひ、ひざきさん!?」

もしかして、約束をやぶってしまっただろうか。
いや、約束はしていなかったはず。
唐突な訪問。
こんなことは、何度目だろうか。緋咲がここへ訪れることは、滅多にないことだ。


「ま、まってください・・・・・・」

そう叫んだとき、インターフォンにふたたび点灯していた赤いランプは消えた。

部屋からとびだして、階段をかけおりる。
冷房のきいた部屋と違って、家のなかはずいぶんなまぬるい。体中の汗腺という汗腺から汗が噴き出してきそうな気持ちだ。
何か急なケガだろうか。
それとも、ただ、会いに来てくれただけだろうか。

ともかく、一刻も早く招き入れなければ。

三和土まではだしでおりた小春が、チェーンをはずしてあわてて解錠する。

「ひざきさん!?」

途端、流れ込んでくる夜の静寂の強い暑気。
そして、汗と、香水の強いにおい。

倒れ込むように小春の家にしのんできた緋咲が、後ろ手で錠をおとした。
重力に逆らって立っている髪の毛は、いつもよりずいぶん厳めしく、そしていつもよりスキだらけだ。

見たところ、ケガはないようだ。
服装は、この暑いのにスーツとシャツ。香水のにおいが、湿気に混ざって強くかおりはじめる。
緋咲が小春に送ってくれる視線。その瞳に滲む慈しみはいつもと変わらず落ち着いた様相と判断できれど、緋咲ににじむのは、どうしようもないほどの、疲労感。

緋咲をとにかく家の中までみちびいた小春は、階段手前のホールで、緋咲としばしみつめあう。

「あ、あの・・・・・・?」
「上だろ」
「えーー?な、ど、どーして??」

緋咲が、逆立った髪の毛に思い切り手をさしこみ、力任せにみだした。
パラパラと落ちてくるのは、ムースでかためられた髪の毛の束。
それは、そのうち、はらりとほどけて、さらさらの紫になってしまうけれど。

そして、小春の部屋のある二階を指さした。
そのまま、大きな体はくるりとひるがえり、勝手知ったる様子でどすどすとのぼりはじめた。

小春は、あわててその背中を追いかける。広い背中。
スーツにも汗染みができあがっているけれど、香水にかきけされて汗のにおいはかおらない。

小春のみだれた黒髪、情けない寝間着姿、すっぴん。
すべてに思考がおいつかぬまま、小春は、大好きな人の背中をあわてておいかけてゆく。



すぐにたどり着いた小春の部屋は、きっちりと冷え切っている。
この冷気にほっとした様子の緋咲が、スーツを体からいまいましそうにむしりとった。

「緋、緋咲さん、どうして?お部屋じゃなくて私ん家?」
「・・・・・・」

緋咲がつかんでいるスーツを受け取ろうとしても、それを放してくれない。

「もー、これ、ハンガーに吊すから・・・・・・!!」

緋咲の手から、香水と汗にまみれたスーツを力任せにひきぬいたとき。


小春のこぢんまりとした部屋にそぐわぬ、緋咲の精悍な体が、
小春のベッドに、どさりと倒れ込んだ。


「えっ・・・!?!?ね、熱とか・・・?」

小春の枕にぐったりと顔をうめてしまった緋咲の額に思い切って手をあててみるも、暑さ由来の熱はあれど、不穏な気配はない。


その切れ長の冷たい瞳は、ぴったりと閉じて、もう開くことはない。


「ひざきさん・・・・・・」
「小春・・・・・・」

かさついたくちびるが、小春のなまえをよんだ。
うつろで、疲れた声。
寝言のような声だ。

「な、なんですか??」


小春の部屋には、クーラーがはきだす冷風の音だけ。
緋咲の体のなかから、一切の声が途切れてしまった。


「寝ちゃった・・・・・・」


紫色の髪の毛をみだして、うつぶせになって、こどものように、頭を枕に埋めている。軽く寝返りをうち、平和な寝顔が小春のほうを向いた。

ずいぶん穏やかな寝顔だ。

緋咲にうばわれてしまった自分のベッドのそばにぺたりとへたりこんだ小春が、そっと、すきなひとの名前を呼ぶ。


「ひざきさん・・・・・・」

汗と香水くさいスーツをぎゅっと抱きしめた小春が、もう一度緋咲のことを呼ぶ。

緋咲は、小春の掛け布団もなにもかもまきこんで。その重みある体の下から掛け布団をひっぱりだそうにも、しなやかに鍛えられた緋咲の体からそれをとりだすのは、不可能だ。
このスーツをかけてあげるわけにもゆかない。

小春の枕に、きれいな顔をあずけて、その瞳はしずかにとじられている。

品のいい寝息。
この寝顔はもはや、あどけない。
きっと、いつも隙だらけでねむっている小春よりずっとあどけないはずだ。

そして、小春は小春で、もう寝ようと考えていたところだったのだ。寝付きの悪い小春なりに、寝る準備をして、よいタイミングで眠気もおとずれていた。
それを緋咲にうばわれてしまったのだ。
緋咲に対して愛らしいうらみつらみもこみあげてくれど、こんなに穏やかな寝顔をみせられては、そんなものもしずまってしまう。

乱れた胸元。そうやってうつぶせになっていては、苦しくないだろうか。
小春のベッドからはみだしてしまいそうな足。
ひざから下が、ぴくりとうごいている。

「ひざきさんはー、寝てるとき、ときどき右足動かすんですよ」

眠り込んでいる緋咲の耳元で。
小春は、そっとささやいてみる。


「知ってましたか?」


ベッドによじのぼってみても。
緋咲が、小春のベッドのど真ん中に陣取って眠りに落ちてしまっているから、小春が寄り添うスペースが存在しない。


「・・・・・・」

だいたい、どうしてこんなことに。
ケガや熱はなさそうだ。口元から漏れてくる穏やかな寝息に、酒のにおいもしない。
この暑さのなか、走り疲れてしまっただけなのだろうか。
自宅よりも小春の家のほうが近かった。それだけなのだろうか。



ベッドからおそるおそるおりた小春は、一度自室をあとにする。


母親の冬服や小春のいらない服もかたっぱしからつめこんであるリネン室から、軽い素材の敷き布団と掛け布団をもちだしてくる。そして、緋咲にかけてあげるつもりのタオルケットもかさねて。
それなりの重さになったふとんを、一生懸命運んで、部屋にたどりついてみれど、緋咲はまだ起きていない。


床に、敷き布団を敷いた。
そして、ぴくりとも動かぬ緋咲の体に、タオルケットをそっとかけてあげる。


「おやすみなさい・・・・・・」

電気からのびているひもを三度ひいて、うっすらと明るいまま、真っ暗にはしない。緋咲はきっと、このまま眠れるはずだ。

寝付きのわるい性分がうらめしくなる。
緋咲の軽い寝息を楽しみながら。


時計は、2時。


床に敷いた布団から、緋咲のことをみあげてみても、ちらりと見えるその瞳は、穏やかに瞑られたまま。

小春も、ぎゅっと瞳をとじてみる。まぶたの向こう側でチカチカと光る明るさを我慢して、小春も、緋咲を見守りながら、同じ眠りにはいってゆく。





「小春」
「ん・・・・・・」


床に敷いていた布団のうえで、ゆったりとした毛布にくるまっていた小春が、ふるふると瞳をあけた。


「小春。わるかったな」
「おきちゃったの?」

いつのまにか、冷房のタイマーが切れている。
ぬるくなった部屋のなかで、小春がむくりと起き上がった。

小春の大きな瞳がゆっくりとひらかれて、緋咲を見つめる。ぼんやりとしたあかりの下、よく眠ったあとのすっきりとした緋咲の表情は、やっぱりいつもよりずいぶん幼い。

スーツをとりあげて小脇にかかえた緋咲が、ひざをついて、むくりと起き上がってぼんやりとしたままの小春の頭を、何度もなでてくれる。
その手に甘えたまま、小春が、ちいさな声でたずねた。

「帰るの?」
「帰るぞ。おまえの親にどんないいわけすんだよ」
「帰らないでください・・・・・・まだねむい・・・・・・」
「ああ、だからよ、小春ぁ寝てろ」
おまえぁ明日講習だろ?

なでられている髪の毛がかゆくなってきたのか、いきなりふるふると頭をふって緋咲の手をふりはらった小春が、ねぼけまなこでうったえた。

「行ってもいかなくてもいいの・・・・・・」

小春のもとから立ち上がった緋咲は、スーツをつかんだまま、肩にかけて。
髪の毛は乱れきったまま。
小春の部屋の壁にかかってあるちいさな鏡をかりて、髪の毛をととのえていると、小春が、緋咲のズボンの膝あたりをちからまかせにつかんで、ぐいぐいと引っ張り始める。


「ひざきさん、えいごわかりません・・・・・・」
「あ?エーゴ?」

緋咲の衣服を力任せにひっぱり、緋咲の鍛えられた足あたりに小春がぐりぐりと額をおしつけている。
妙に素直に甘えてくる小春に、すっかり頭がさえきった緋咲が、彼女の言葉に耳をかたむける。

「しかたねーな、どこだよ」

ゆっくりとしたペースで立ち上がった小春が、緋咲の腕をぐいぐいと引っ張りながら、勉強机へみちびく。

「ここ、ぜんぶ・・・・・・」

いい加減な手つきでひらいたワーク。
シャーペンをはさんでいたページはあっさりとひらいて、見たところ開かれたページにはひとつも回答がうまっていない。

「しょーがねーな・・・・・・」

寝起きのいい緋咲が、寝起きの悪い小春のきげんをめずらしくうかがいながら、小春がしめしたワークをのぞきこんでシャーペンをとりあげた。
いつもはヒントと手がかりだけあたえる。正答をすべて彼女にしめしてしまうのは、緋咲の美学に反するのだが。

今日は、己の勝手な行動にこたえてくれた小春へのお礼だ。

あまりにもばかばかしいほどに簡単なこたえを、緋咲はさらさらとかきつづった。その間、小春は、だだをこねるこどものように、緋咲にしなだれかかり、緋咲の腰あたりにぐりぐりと頭をおしつけている。無意識の行動か。この子の寝起きはあの冬、一度だけ見た。あのときは親に厳しく言いつけられていたからか、てきぱきと身支度していたが。
無理におこされた小春は、やや不機嫌な様相をみせながら、緋咲にお礼をつたえた。


「ひざきさん、ありがと・・・・・・」
「親ぁ夜勤だろ?」

わかりきったことをたずねると、緋咲のスーツのすそをぎゅっとつかんだままの小春が、うなずいた。


「お母さん、お昼に帰ってくるよ」
朝はまだです・・・・・・。

ところどころ敬語をわすれた小春が、ねぼけまなこでつぶやく。
小春にはいつも、我慢をさせている。
緋咲が恋人に一方的に強いたルールは、あの冬を越えても、まだとかれていない。
そのルールをけなげにまもりつづけて、いつもおとなしく緋咲に寄り添う小春の、どこかときはなたれた、自由なすがた。
とりつくわないそんなようすを、寝起きのむき出しの姿をふくめて、緋咲はあたたかく楽しむ。


しかし、もう夜明け。

夢の時間は終わりだ。


「夢だと思ってろ」
「夢じゃないのに・・・・・・」

なぜか、泣きそうな声だ。
頭をふった小春は、緋咲のシャツをひっぱりだしてつかみあげ、緋咲に不平をつたえはじめた。


「だって、こうすいくさい・・・・・・」


これが小春の本音か。


「こうすい多すぎてー、こめかみがーー、痛い・・・・・・」
「わーったよ、半分くれーにしてやるよ」
「帰るの・・・・・・?」
「ああ」
「こっちです・・・・・・」

このまま寝かせてやろうと思っていたが、小春がおもむろに緋咲を先導しはじめた。
小春は、いつのまにか、緋咲が使っていたタオルケットをひっつかんでいる。それをずるずると引きずりながら、階段をおりてゆく。




「ここ、リネン室。いっぱい布団ある・・・・・・」
横がお母さんのへやで・・・・・・。

小春のくらす家の一階。亡くなった祖父母の趣味なのか、この家にはムダにちいさな部屋が多い。物置として活用できるけれど、一風変わったつくりのこの家を、小春はねぼけまなこで緋咲に説明してみせる。
そんなことに興味のわかぬ緋咲は、スーツを片手で肩にかけたまま、小春のちいさな体を抱き寄せて、なだめようとする。
そんな緋咲の優しい腕をいいかげんにふりはらった小春が、ずるずるとひきずってきたタオルケットをずいとさしだした。

「このタオルケットあげる・・・・・・」
「どやってもってかえんだよ、いいか、ねてろ」
「いやです・・・・・・」
「小春、寝酒ぁやってねえよな?」
「おかーさんが、緋咲さんみたいなひとはお酒つよいフリしてるだけって言ってた・・・・・・」

言われたい放題であることをぐっとこらえた緋咲が、寝起きの悪い小春に、再三忠告する。


「かぎしめろよ、かぎ」

ぬぎすてた靴がいい加減にころがっている。
そばによってくることなく、あげると主張したタオルケットをかかえて、ぼーっと立っている小春。
彼女の体をもう一度抱き寄せて、そのてかてかとした額にそっとキスをおとすと、小春が、キスが残された痕に手のひらをおしつけて、ぐりぐりとぬぐいとった。

日頃の小春には起こるはずのない反応を、緋咲はしばしぎょっと見つめる。

緋咲がキスをおとしたそこには、母親の化粧品のせいでできあがった吹き出物があったからだ。

「・・・・・・にきび、ひどくなる・・・・・・」

すこしみけんにしわをよせて、いつもとかわらないくっきりとした顔立ち。
かわいらしく剣呑な顔で、小春は緋咲を見上げている。
言うことの聞かない黒髪が、ぴょんぴょんはねているのがいとおしい。

小春の本質は、意外に気が強く、はっきりとしているのか。

「小春」
「顔にたばこのにおいつく・・・・・・」

大事な子にこうして本音を吐かれることが、ずいぶん心地のいいものだったとは。
クックッと、低い声で笑いながら。

シャツのボタンを三つはずした緋咲のたばこくさいくちびるが、ばくりと開く。


もごもごと不平を唱え続けている小春の首筋に、かみつき、はっきりとした痕をのこした。


当の小春は眉間に思い切りしわをよせて、首筋に手をあてながら、またも不平をつたえる。ばさりと落ちたタオルケットが、ふたりのあしもとをつつんだ。

「痛いです・・・・・・」
「そぉか?かんでねぇぞ?」


またあうときは、香水の量を、ほんのすこしひかえめにして。
小春の手首をつかんで、のこった痕を確認する。
しっかりとのこった紫色のあかしに、ニタリと口元をゆがめた緋咲が、あらためて小春に忠告した。


「部屋かえって寝ろよ」
「めんどいからイヤ」
「わがままいうんじゃねー、部屋でちゃんと寝るんだぞ」
「わがままはひざきさんです」

しれっとつたえる小春の頬をはさんで、痛くない程度の力でからかうようにつまんでやれば、寝ぼけた声が、暑いからやめてと不平をつたえてくる。
しょーがねぇな・・・・・・。
低い声でつぶやいた緋咲が、思いついたこと。

「どこだリネン室」
「そこ」
「ここか?」

小春の痩せた体をぎゅっと抱き寄せて、小春がしめしたすぐそばの部屋に、ちいさな体をなかば無理矢理おさめた。
小春がむりやりひっぱりだしてきた布団のせいか、押し込んである荷物があちこち崩れ落ちている。

「・・・・・・」

夜明けのリネン室。
小春のちいさな体を、布団と毛布の山に押しつけて。


汗と香水のにおいを漂わせた緋咲が、小春の上にのしかかる。
電池がきれたように小春が目をとじる。
ぽかんとひらいた、隙だらけのぽってりとしたくちびるに、緋咲が、ゆっくりとくちびるを重ねてゆく。






「!!」

枕と毛布をぎゅっと抱き込み、あまりにもまぬけな顔で眠っていた小春が、ほこりっぽさと汗のにおい、そして不思議な残り香をかんじて飛び起きた。

「えっ!?!?」

朝のリネン室。
少し開かれた扉のなかから、真っ白のひかりがさしこむ。日当たりのいい家なのだ。夏の朝の、すがすがしい光。光に反して、熱と湿度のなかにとじこめられた、確かな残り香。


「!?!?」

リネン室からとびだした小春が、玄関を確認する。
鍵はきちんと閉まっている。

電話のそばのキーストッカーには、小春がいつも使うカギと、キーホルダーのついていないスペアのカギが置かれているはず。

2つのうち、スペアが、なくなっているのだ。

足の速い小春が、あわてて部屋までの階段をかけのぼる。
冷房がきれている、蒸し暑い部屋。
勉強机の上のワークには、小春の書けない筆記体。
床に敷かれた布団と、だらしなくまるまった掛け布団。

そして、ベッドの上。掛け布団はきっちりたたまれている。

小春の愛用の枕のうえには。

紫色の髪の毛が、何本も抜けおちている。


ベッドの上にのぼって、窓辺のカーテンをそっと引いた。
夏の朝の聡明な光が、昨夜この部屋に残ったものを、きらきらと照らし始める。



そのとき、階下から、電話の電子音が小春を呼び出し始めた。


寝癖のついた黒髪を整えることもないまま、小春はふたたび、階段をおりてゆく。



きっと。



きっと、



この電話は、きっと。
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