夏の始まりが生み出す湿度と大気は、実に曖昧だ。
ある者にとれば蒸し暑く、ある者にとれば心地よい。
その熱度を感じる場所が密室であれば、なおさらだ。

すでに半袖セーラー服をまとっている千歳と、特攻服ひとつ羽織って、その下はさらしとボトム姿の秀人。

「まいっちまったな……」
「すごい音で閉まりましたね……」

千歳は、高い天井を見上げる。

秀人は、閉ざされてしまった扉を、腕を組み呆れたように眺めている。


秀人と千歳。
ふたりは、湿っぽい倉庫にとじこめられている。

ここは、外道のたまり場の一つ。
雑多な街並みに紛れ込めるうえ、さほど治安が悪いわけではないエリア。
秀人は、ここに時々千歳をつれてくる。


秀人のそばから少し離れていた千歳を呼び寄せる。
安寧と穏やかなものを好む千歳だ、こんなときは、できるだけ千歳のそばにいてやらなければならない。
千歳は、秀人にみちびかれるまま、秀人にそっと寄り添った。
その頼りない肩を抱き寄せた秀人は、高い天井みあげてひとつためいきをついた。


それは、ほんの一瞬のことだった。

ずいぶん千歳の相手をしてやれていなかった秀人が、昨夜千歳に連絡をいれて、彼女をここへ呼びつけた。
それが、この場所。外道のたまり場だ。千歳も、この場所へのルート、そしてどの道が最も安全か、熟知しているから制服姿で平気で訪れた。
秀人と一緒に千歳を待っていたのはオッくんこと奥見鉄夫。外道の主力メンバーともすっかり顔なじみの千歳は、ぺこぺこと恐縮して礼儀正しくあいさつを重ねた。

そして、千歳を交えて、およそ暴走族メンバーのものとは思えないほのぼのとしたやりとりがしばらく続いた。夕暮れのひざしは厳しい。倉庫の前で立ち話していた三人は、中に移動した。いつも、扉を開けっ放しで使う倉庫だ。

そして、なぜそこに停めたのか不明だが、ここより徒歩数十分の港の駐車場に停めてある単車をとりにいくから、しばらくここで待っていろと秀人と千歳に告げたオッくんは、実に勢いよくこの倉庫の扉をしめたのだ。
内側からどうやってもあかない、この扉を。


待っててくれと言ったオッくんは、つまり戻ってくるはずだ。
どれほど走っても片道30分。とはいえ、単車での帰路に時間はかからないだろう。
秀人のもとに戻ってくると宣言した限り、オッくんはいずれ、必ず、帰ってくる。


つまり、さほどおおげさなことではないのだが、しばらくのあいだ閉じこめられたのは事実。


そして、あの、一度血沸き肉躍るものを見つけたらそちらへまっしぐらなオッくんのことだ。
最短時間で無事に戻ってくるかどうか保証はできないが、今日はそのうち吉岡もくる。
そのとき、この閉ざされた扉は無事開くであろう。


秀人のそばにぴたりとくっついている千歳が、秀人を見上げた。

「オッくんさん、帰ってきますよね……?」
「前から思ってたけどよ、千歳、その呼び方ヘンだぜ?」
「よ、よびすては……」
無理です……

不安におちいるか、慌てる様を見せるか、秀人のことを過剰に気遣いはじめるか。
繊細な心根の千歳がいずれの反応をみせるか心配していたのだが、秀人のそばで肩をだかれたままの千歳は、秀人が思っていたよりも落ち着いてくれているようだ。
不測の事態には強くない子だが、安心した。

「わりーなー、千歳、オレがんなとこよんじまってよ?」
「え?ううん、どっちかってゆーと、きたがったの私です……ごめんなさい……」

ノブははりぼてだ。
秀人の腕をのがれて、扉にとことことかけよった千歳が、丸いかたちのそれを引っ張ってみる。

「ほんとだ、中からあきませんねー」

あまりに非力な手でぱしぱしと扉をはたき、小さな声でだしてくださいーとつぶやいてみる千歳のことをクスクスとわらうと、千歳が恥ずかしそうにうつむいてた。

「まってりゃ戻ってくんべ」
「ですよね?でも秀ちゃんは、大丈夫ですか?」
「きな」

少し離れてしまっていた千歳を、秀人がもう一度呼び寄せる。
素直にそばに寄って来た千歳をもう一度ぎゅっと抱き寄せて、倉庫の奥の使い古したソファまで連れてゆき、二人で腰掛けた。
先代には、これをラブホテルのベッドがわりに使ったメンバーもいたという伝説はあるが、この代で、この倉庫に入る女は、秀人の女の千歳だけだ。

ほっとしたように腰をおろした千歳が鞄をそばへ置くと、秀人が短く命じる。

「コイツきてろ」

セーラー服のうえから、ばさりと千歳を覆ったそれ。

外道の、特攻服。

「こ、これ、大事な……」
「ああ、大事だから千歳に着せてんだ」

特攻服を剥ぎ取ると、さらしとボトム一枚の、秀人の精悍な身体があらわになる。
頬を真っ赤に染めて遠慮する千歳をじっくり観察しながら、秀人が千歳に念をおした。着たの初めてじゃねーだろ?と、ニカっと笑って伝えると、千歳がこくこくと頷いた。

「でも、秀ちゃん、これ脱いじゃうと……」
「オレぁよ、あちーんだよ……」
「蒸しますよね……」
「千歳も暑いかよ?」
「暑いとはおもわないです……」
「女子はよー、こーゆーときあつそーに見えて冷えてんだろ?着てろ」

わずか16で、女子の身体のデリケートさをどうしてそこまで把握できるものか。
世間の16歳男子高校生といういきものは、皆、これほど隙がない気遣いに長けているのだろうか。
秀人しか知らない。秀人以外知らなくていい。秀人のこと以外知るつもりもない千歳は、
ありがとうとちいさくつぶやいた。そして、セーラー服を守る特攻服の襟元をぎゅっと握りしめて、そのぬくもりを確かめる。

「……あったかいですね……」

秀人の体温がのこっていることもあるが。

たばこ…?と、かすかな声でたずねると、秀人がわらって手をふった。
これもきっと気遣いだ。申し訳なさそうなそぶりの千歳のことを抱き寄せて、今日あったことを尋ねたり、しれっと高校をさぼった秀人が今日をどう過ごしたか千歳に語ったり。
秀人のむき出しの身体にぴったりとくっつき秀人の言葉に幸せそうに耳をかたむける千歳の髪を撫でながら述べた言葉。千歳は秀人を見上げながら、それに返事する。

「千歳、冷静だな?」
「秀ちゃんがいてくれるからです」
「オレが何もしらねーで閉じ込められたらよ、ギャーたれんぜ?」
「私も、ひとりだと、めそめそしてるとおもいます。でも秀ちゃんを信じてるので……」

そこまでつぶやいた千歳は、その秀人へのストレートな愛に我に返るのではなく、秀人に頼り切った自分自身を恥じてみせた。

「……あっ……これって、迷惑ですよね?」
だって、つまり、秀ちゃんに頼りきってるってこと?

口数も少なく、あまりしゃべらない。
おとなしく、いつも静かに秀人のそばにいるだけ。
そんな千歳のストレートな言葉に、のびやかな心に多少の照れを滲ませた秀人をよそに、千歳は懸命に自立心を奮い起こそうとする。

「私もちゃんと、解決策考えなきゃ……」
えーと  

こんなとき、通信機器を持っていない自分がうらめしい。
PHSを持っている友達もいた。
あれさえあれば。

そして、当の秀人は、背筋をぴんとのばして張り切っている千歳をもう一度、むきだしの身体のなかに引き寄せて、特攻服ごしのそのやわらかな感触を楽しみ始める。

「解決しなくていいんだぜ?夜にぁぜってーだれかくんだからよ?」
「そ、そうでした……」

秀人を信じてそばにいればいい。
そう結論づけた千歳も、しばしの二人きりの時間を楽しもうと、気持ちをきりかえる。

「でもよー、なおしちまったほうがいいんかよ、コイツぁよ……」
「そうですね、またこういうことあって、みなさんが困っちゃうと……」

そのとき、さらしの下の秀人のおなかが音をたてる。
それをごまかすでもなく、秀人はヘヘっと笑って、こっから出たらよーフェニックスで何食うべ……なんてひとりごちる。秀人の胸元から体をおこした千歳は、ずり落ちかけた特攻服をしっかりと引き寄せて、秀人の顔をのぞきこんだ。

「おなかすいた?」

ほこりっぽいソファの片隅に置いてある通学かばんをひきよせて、千歳はその中をさぐりはじめる。

「あめあるよ」
のどあめだけど。

千歳がかばんからとりだしたものは、個別包装されたのど飴のうちの一粒。季節の変わり目の風邪予防にもちあるいているものだ。
マイペースに秀人に手渡したあと、秀人はありがたく包装をむしって、整った口のなかにひょいと放り込んだ。待ってねとつぶやいた千歳は、さらにかばんをさぐりつづける。

「これもあった」
「女子ってよー、菓子ばっかもってんのな?」
「友達にもらったの」
「千歳んダチの試合、テレビで流れてたな?」
「みてくれたの?ゆっとくね」

日本を代表する球技選手の友人について語り合うことも、千歳のかばんのなかにしのんでいた焼き菓子のブランドを秀人に教えてあげることも、いたっていつもどおりのやりとりだ。秀人の額が多少汗ばんでいたので、かばんからとりだしたハンカチでそっと吸い取ってあげる。そんな千歳のことを、秀人がもう一度ぎゅっと抱きしめた。分厚い生地の特攻服。秀人自身の汗と、千歳のシャンプーのにおい。

「さむくねーか?」
「ちょうどいいよ。秀ちゃんは……?」
「むしあちー……」

比較的せっかちな性分の秀人は、のどあめをじっくり舐めてとかしてゆくより、その前にガリガリとかみ砕いてしまう。
もいっこくれ。秀人に、そうしてねだられることに気を良くした千歳がさらに3つプレゼントする。

「喉も乾きますよね。飲み物、これから持ち歩きます…」
「ここよー、冷蔵庫あったんだよ」
「電気は……あ、そっか、きてますよね」

薄暗い灯りではあるものの、この倉庫は、高い場所にある窓からもれる自然光にくわえて、手の届かぬ高さの天井に取り付けられている電気はいたって問題なく点灯する。

「でもよー、ぼろくてよ、こわれっちまったんだよなあ」
「いろいろあったんですね、住めちゃいそう……」

そのとき、分厚い扉の向こうから、耳馴染みのある大声がふたりのもとに届いた


「デージョブかあーー!!千歳ちゃんよー!!!!」
「あっ!オッくんさん……」
「やっぱよー、ヘンだぜ?それ」

当初は奥見さんと呼んでいたが、あだ名で呼べとなかば強要されて、千歳はおかしなよびかたを使う。
秀人の彼女としらず千歳をナンパしたこともあるオッくんの怒鳴り声だ。

もう一度、デージョブかああという大声が響く。

「だっ……大丈夫です!ひでちゃんもいます!」

なかなか千歳のことを解放しようとしない秀人の精悍な腕のなかでいそいそと身をよじる千歳が、せいいっぱいの声でさけんだ。
ちいさな声の恋人のその返事は、到底外まで届くものではない。ケラケラと笑い飛ばす秀人に、少しだけ拗ねてみせる。

「今あけんべ!!!」

叫ぶオッくんに、秀人が、軽いからかいまじりの声で叫び返した。

「おい、オッくん、オレん心配ぁよー!?」
「ひでちゃんぁヘーキだろー!?」

そののびのびとした声がハッキリと飛び込んでくると同時に、重い扉が左右に開き、夕暮れのまぶしい光がさしこんだ。
ふたりもソファから立ち上がる。
たよりない灯りだけですごしていた秀人も千歳も、思わず目をほそめた。

オッくんと同時にここへ訪れたらしき吉岡も秀人と千歳を気遣いながら駆け寄り、オッくんの後頭部をはりとばすので、オッくんとわざとらしいつかみ合いをはじめる。

「千歳ちゃん!」

そして、吉岡が千歳が羽織っている特攻服を指摘する。
あわてた千歳がぺこぺこと頭をさげた。

「ご、ごめんなさい……大事な服……」
「いーじゃんよーー、似合ってんべー」
「千歳ちゃんタッパあるしな?」
コイツもつけっか!

はちまきをほどいたオッくんが千歳におしつけようとする。

「千歳であそぶな」

秀人を信頼しきってそばにいたけれど、かすかにふるえていた恋人。
想像力のある子だから、もしもの事態を考えていたのだろう。そのかすかにおびえていた肩を抱いた秀人の、千歳の身体を、秀人の背中の後ろへかばった。
オッくんがヒューヒューと声をあげて、10数年前のようなひやかしをするものだから、吉岡がまたも後頭部をはたく。

「千歳ちゃんも秀も、腹へってんべ?」
「だ、だいじょうぶ、です……」
「腹へっちまった……単車ここ置いといてよ、フェニックスいこーぜ?」
「わ、わたし、おじゃまなので、今日はここで……」
「千歳ちゃんも来いよ」

吉岡とオッくんが、ニカっと笑って、秀人と千歳を先導する。

ふたりが閉じ込められていた倉庫は、ふたたびしずかに閉ざされた。

「こい、千歳」
「は、はい!え、こ、これ、あの……」

特攻服であの喫茶店に出入りすること。
あの喫茶店まで特攻服姿で歩くこと。
これも、不思議とこの町になじむのだ。

千歳のことを守り続けてくれていた特攻服。それを丁寧に体からはぎとった千歳が、秀人にそっと着せる。精悍な両腕が通され、外道の文字は、秀人の背中に舞い戻った。

「千歳ちゃん、フェニックスでどれが好みよ?」

そんな様子を、キャッツアイ越しにあたたかなまなざしで見守りつづけていた吉岡が千歳にたずねる。
そして、千歳の傍を歩く秀人が、かわりに答えた。

「千歳ぁペスカトーレだよな」
「そうです!おいしいです……!!秀ちゃんは、ホットサンドですよね?」
「オレは?」
「……吉岡さんは、ミートソースで……」
「オレは?オレは??」
「オ、オッくんさんは……」
「……」

三人が、耳をそばだてて、千歳の小さな声がつむぐ答えを待つ。

「……ボンゴレですよね……?」

オッくんと吉岡が暖かい笑い声をあげて、秀人が千歳の髪の毛をわしわしと撫でた。


遠慮がちに歩く千歳が秀人の背中にそっとくっつくと、秀人が千歳の細い腰を、優しく、そして熱い仕草で間近に抱きよせる。

その親密なさまに、吉岡とオッくんが、ふたり顔を見合わせてわらった。

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