暖房から吐き出される温風が、部屋のなかをごうごうと吹き荒れている。

それはちょうどいい広さの部屋をあたたかく満たし、緋咲のノドに乾燥をもたらす。

風の音がにぎやかで、高級な毛布をめちゃくちゃに蹴とばしたすがたのまま、緋咲は熱風にうたれながらゆるやかに目をさました。

乱れた髪の毛を、傷ついた左手で一気にかきあげる。
電気代を気にすることなく暖房のスイッチをいれているものだから、この真冬に上半身は裸。下半身は素材にすぐれたコットンパンツにつつまれている。

自覚はしているものの、ひどい寝相だ。
なんせ、枕が足元にきている。緋咲の身体は逆さになっている。

手にまかれた包帯は、寝ているうちにかきむしっていたようだ。
べろりと剥がれて、縫い痕が目立つ左手はむき出しになっている。

こんな寝相はケガをしたとき特有の現象のようで、本来さほど寝相の悪くない緋咲は、こんなとき異様な寝相の悪さでねむっているらしい。
小春を抱いて眠ったときは、問題なかったはずだ。
このクセは、その昔つきあった女たちにも指摘されたことだ。

小春だけを愛するようになってからも、どうも治っていないようだ。

やはり、こういうとき、小春を遠ざけるのは正解であるらしい。

枕もひっくりかえり、緋咲がハデに蹴とばしてしまっているのは、小春がこの部屋にもちこんだクッションだ。
いつもソファの上にちんまりとおさまっているそれだが、昨夜は浴びるように酒をのび、これをベッドに引きずりこんでいたようだ。記憶には一切ない。

髪の毛をかきむしりながら、緋咲はうわごとのようにつぶやいた。

「わりぃ小春……」

そして、自分の言動をはたと自覚する。
何を言っているのか。
おれは、このかわいらしいデザインのクッションを小春自身だとおもっているのか。

小春に出会う前の己であれば、ありえない事態だ。

時刻は7時前。
数時間前に眠ったばかりなのに、めずらしく、早朝にめざめた。

立ち上がった緋咲は、冷蔵庫からよくひえた水をとりだす。
キッチンで一気にあおり、冷たい水を、傷を負った左手に一気にあびせた。
頭も体も、冴えないままだ。


この時間、あの子は学校へ行く支度をしているところだろうか。
しばらく、緋咲は、小春との関わり合いを断っている。
このキズが癒えるまで、緋咲のまわりが落ち着くまで。
緋咲の心が落ち着くまで。
小春に、暴力の残り香を嗅がせたくない。
小春を傷つけたくない。
小春を、自分自身の精神安定剤にはしたくないのだ。

電話のそばに置いてあるカレンダーには、チェリーピンクのペンで、日付に〇がつけてある。
これは先月、部屋に遊びに来た小春がしるしをつけたのだ。

曰く、親の夜勤の日とのこと。親は翌朝9時くらいに帰ってくるはず。でも、急に変わるかもしれないと言っていた。

今日は日付に印がついていない。
〇で囲まれているのは、前日の日付だ。
したがって、この早朝、小春の家には小春だけ。


気付けば、受話器をもちあげていた。
しっかりと覚えきっている電話番号をプッシュする。
プルルと響くコール音。
そういえば、登校時間は聞いていない。早朝の小テストがあるときは7時前には家を出ると言っていた。まったく、生真面目なものだ。

少し長いコール時間のあと、落ち着いた声が電話をうけた。

「はい!」
「よぉ」

声だけならいいだろう。
声だけなら。
緋咲は、決意とうらはらに、結局、この声をむしょうに欲していたのだ。

「!!!え!!!……ひ、ひざき、さん……?」
「親夜勤からまだ帰ってきてねーだろ?」
「まだです……!び、びっくりした…おはよーございます……!!!」

緋咲の声に焦がれ、緋咲のからだに、緋咲のかおりに、緋咲の優しい心がどうしようもなく恋しかった小春も、また、このモーニングコールをいたくよろこんだ。

いつもより15分早起きした小春は、朝食も終えて歯磨きもおえ、身だしなみもととのえ、髪の毛もきっちりセットした。
ブレザーのボタンを片手でとめたあと、受話器のコードをくるくると指にからめて、小春はうきうきと緋咲にあいさつをした。

「まだガッコいかねーのか」
「今日ね、ちょっと早く目が覚めたの。だから、ゆっくりしてるし、そうですね、でもあと10分くらいででます」

歯磨き粉は口元にこびりついていないか。
親指でそっとぬぐった小春が、明るく語り掛けた。

「緋咲さん、電話くれるって思いませんでした!」
「さみしかったか」
「さみしいけど、香水もあるし……」

朝から、この恋しさ、焦がれ具合はどうだろう。
小春の全身が、緋咲への熱で燃えてしまいそうだ。
本当はさみしかった。
緋咲との縁が、このまま途切れてしまうんじゃないかと思っていた。
小春は、ひとりぼっちで、狂いそうだった。


「でも、すごくさみしくて……会いたいです……」

気付けば、そんなわがままな言葉が、簡単にこぼれおちていた。

そして緋咲は、小春のそれを、素直なねがい、しょんぼりとした、いとしい悲しみとしてとらえる。


「わたし、何も緋咲さんに対して、できなくて」
「何もしなくていいっつったろ?」
「…わたし、何の力もないなあって……」

忙しいさなか、小春の知らぬ何かと戦っているさなかの緋咲に対して、自己中心的な憐憫をきかせてしまった。
そんな後悔より、今は、緋咲に伝えたい気持ちだけがはやる。
これはきっと、学校に行くまでの電車のなかで、情けなさと恥ずかしさにおしつぶされてしまいそうになるだろう。

「もう少し待っててくれるか、したらよ、またオレの部屋こい」
「……わたしから電話してもいいですか?」
「ああ」

10分なんてあっという間だ。
いや、まだ大丈夫だ。玄関にそなえつけてある掛け時計を見つめて、小春は、少し寒い足元に足をふるえさせながら、短く答えてくれる緋咲の言葉を楽しむ。

「今日ね、英語のテストがあるんですよ!でも緋咲さんが電話くれたから大丈夫だとおもう」
「テストとオレに、何の関係があんだ」
「どーしてそんな正論言うんですか……?」
「そーだな、じゃあよ、今からゆー文和訳しろ」
「緋咲さん、しばらくあえない間にいじわるに……」
中学レベル以上はわからないから無理です!

なんだか、幼いことばかり言ってしまう。
おとなっぽく、でも小春のペースにあわせて、小春にやさしく語ってくれる緋咲に、朝から甘えっぱなしだ。

「またよ、連絡っすから、まってろよ」
「……はい」
「ああ、それとよ、チョコ食ったぞ?えれーめずらしいモン手にいれたんだな」
「!!美味しかったですか??一日一個にしましたか?」
「そこかよ気になんのぁ…そーしたぞ?」

軽い嘘に、小春はあっさりとだまされると思ったが。
その素直な声は、すんなりと真実を見抜いて見せる。
そういえば、あれから会ってなかったのだろうか。あのチョコレートを味わったのもずいぶん前のことに思える。

「…本当?百貨店に来てたから、たまたまです。銀色のケースがかっこよかったからー、でもね、チェリーピンクのチョコもあったの」
「…何味だよ……」
「フランボワーズ……?とか……あっ、そろそろ行かなきゃ……」
「ああ、そうかよ、エーゴぁ、そーだな……満点とれ」
「そ、それくらい勉強したから!」

自転車を走らせればきっといつもの時間に間に合う。
次の電車だと、ラッシュがはじまってしまうだろう。
急がなければ。
でも、小春は、まだ、緋咲の声のそばから、離れられない。

「小春」
「はい、緋咲さん」
「すきだ」

小春が、足元においてあったかばんを持ち上げる。
そしてかばんを片手でぎゅっとだきしめて、その言葉に耐える。

「緋咲さん……」
「ちっとくれー会ってなくてもよ、何もかわんねーよ。すきだ」
「……も、もーガッコいけなくなる……」
「ボサリかよ、そんな日があってもいーだろ?」
マジメこいてんだからよ。

緋咲の、いとしい無責任さ。
こんな風に冗談をつむいでくれる優しい人。
小春は、声を振り絞って、このいとしい朝のしめくくりにかかりはじめる。

「ちゃんと学校行く…………緋咲さん………」
「どーした?」
「わたしも、です!」

電話越しに、緋咲が軽く笑ってくれたことがわかる。
小春を抱きしめながらこうして笑ってくれるとき、緋咲の呼吸にジョーカーの匂いがまざること。
あのかおりが、小春はひどく恋しい。

そろそろこの電話も終わりだ。そう悟った緋咲が小春を気遣う。

「閉じまりしろよ」
「大丈夫です!」
「気ーつけていくんだぜ?」
「ありがとうございます」

かばんを肩にかけて、家の鍵をつかむ。

そして、澄んだ声が、朝の始まりを宣言した。

「行ってきます!」
「ああ」

緋咲が、ガチャリと受話器を投げ落とす。

ベッドに体をなげだして小春の声と澄んだ狼狽を楽しんでいるあいだ、無意識に、クッションを何度もなであげていた。
そのクッションをソファまで放り投げようとしたが、ごろりと寝転がり、それを頭の下に敷く。

たばこを持ち上げる気力もない。
小春はきっと、緋咲が充填した気力をふるいたたせて、真冬の中学生活を一日楽しむのだろう。

緋咲は、クセのようにまどろみはじめる。
こんな時間に起きていることは、緋咲薫らしくない。

顔の傷はすっかり癒えた。
手はまだ疼き続けているが、また何かが始まる予感がある。

きっと、走っていれば何かが始まる。
今日は、ひさびさに走れるだろう。

いつもの時間まで、もう一度眠る。このクッションと、あの子の声をたよりに。
左手の甲を一度かきむしった緋咲は、ごうごうと温風が吹き付ける部屋のなか、もう一度瞳をとじた。

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