滑り止め校の合格を報告し、自由登校期間に入っている学校から、あすかは昼日中のうちに帰路についている。
味気ないアスファルトを、あすかのくたびれたスニーカーが踏みしめてゆく。その靴じゃだめだ、買い替えろ。進路指導も担当している社会科の教師はそう忠告したが、この靴でも、滑り止め校にあっさり合格した。
嘘つきだ。心の中で抵抗しながら、あすかは、ぎゅっとにぎりしめた傘の取っ手をぎゅっとつかみ、くるりとまわしてみた。真っ赤な取っ手。実は、中高生に人気のブランドの傘。あすかはこれをいたく気に入っている。

鼠色の路面を真っ黒に染め上げた雨は、朝から降りしきっている。その雨足はいまだしめやかに、さみしい歩道を一面に濡らし続ける。

あすかの使っている傘は、縁が赤に彩られた、デザインビニール傘だ。
港洛中の生徒の間では、小学生用の黄色い傘をあえて使うことが流行しているようだ。
流行にながされることなんて実にばかばかしいが、ミスマッチから生まれるかわいさは、わからなくもない。
たとえば、真里なら、そんなアイテム使いがきっと馴染み、さぞかわいらしいであろう。

彼が受ける私立校の受験日は、あと数日に迫っているはずだ。
今日は学校で彼の姿を見かけなかった気がする。そもそも、まともにクラスに顔をだす暇もなく帰ってしまったので、本当のところ、どうであるのか、あすかにはよくわからない。
私立を本命に選んだ生徒には、彼ら専用の補習日程が組まれているはずだが、真里の受ける学校はどうであっただろうか。
それとも、補習を受けるより、さすがに、家でおとなしくしているのだろうか。

港洛中学からのびる道は、この歩道橋の手前でそれぞれの校区にわかれる。本牧方面へ帰る生徒、山手に帰る生徒、あるいは山下方面まで帰る生徒もいる。歩道橋をわたらず、山手方面へ帰るあすかは、右にまがる。


そのとき、ぱらぱらと帰路につく生徒のなかに、小柄な茶髪を見つけた。

短髪。
コートなど纏わない、潔い短ラン姿。
ひとりだけ、傘をさしていない。

うすっぺらい鞄をかかえたあすかは、傘をつかんだまま走り出した。

水たまりができる余地もないほど平らな路面。石が固められたアスファルトのうえを駆けながら、あすかはその名前を呼ぶ。

「マー坊くん!!」

ぽつりぽつりと歩いていた生徒たちが思わずふりむいた。

あすかの声が届いた場所を確かめた黄色い傘の群れたちは、何事もなかったように前をむく。

そして、その名の持ち主が、くるりと振り返った。
まんまるの瞳をこらした真里は、短ランのすそからお腹が見えるほど両手を掲げ、おもいきりぶんぶんとふってあすかの声にこたえてくれた。

「濡れるよ!」

そばにかけよったあすかが、真里に傘をさしだした。

赤にふちどられたビニール傘。持ち手も赤だ。

そこにちんまりとおさまった真里が、くちもとをとがらせて、不服をにじませた声をあげた。

「えー、いーのにさ、こんくれー」
「受験前じゃん、体調管理大事だよ」
「ランコーぁ寝てても受かるって誠さんゆってたモン」
「誠さん……?」
「晶のアニキ!」
中学は私立いってたからー、港洛中じゃねーんだぜ。

真里が、どうしてか誇らしげに教えてくれた。
あのきれいな子は、てっきり一人っ子だと思っていた。あの子の兄弟なら、きっと彼女によく似たきれいな顔の男子なのだろう。

真里と仲良くなってから距離のちかづいたあの子の兄の顔を好き勝手に想像していると、真里があっというまにあすかの傘からとびだし、雨のなかをてくてくと歩いている。

マー坊くん!
もう一度小さくさけんで駆け寄ると、アスファルトにたまった浅い水が一気にはねかえってあすかのソックスをよごした。

マー坊を傘で守ると、なんだか難しい顔をみせてくれた後、さっぱりとわらってくれた。

「でもちゃんと入試は受けないと。面接は、ないんだっけ?」
「自由参加だってさ」
「自由……?そんなの聞いたことないなー……」

首をかしげたあすかを見上げた真里が、両手をくみ、後頭部にそれを置き、彼女にたずねた。

「あすか、私立受けた?」
「あ、うん、滑り止めは合格したよ」
「!!受験おわったん!?」
いいなーー!!!

あすかの受験状況の根本的な部分を理解してくれていない真里に、一抹のものさみしさを覚えながらも、あすかはその言葉に呆れをしめすことなく根気よく説明を重ねた。
合格したのはすべりどめであり、本命はまだ先であること。
わかっているのかわかっていないのか、きょとんとした顔でふむふむとうなずいてくれる真里に、一人歩きの理由をたずねる。真里はつねに誰かに囲まれていて、誰かと行動をともにしている。
あすかとこうしておとなしく相合傘をしてくれている理由は何なのか。

マー坊が、こどもっぽい口調でこたえてくれた。

「あー、アッちゃん先かえっちまった……」
「来るには来てたんだ。補習だもんね。晶ちゃんも?」
「晶はー、なんとかっつー女子校に変えろっつって?アイツによびだされっちまってー」
ホーーセーー、とかゆー……。

アイツとは、社会科の女性教師。真里がおぼつかないことばで挙げたのは、有名私大の付属女子高。あの女子校へのパイプをつくっておきたいのか、その教師からあすかも受験を打診されたが、女子高は向いていないことを自覚しているゆえきっぱり断った。それにしてもさすが晶だ。彼女は、出席日数はあすかの半分程度であるが、文句なしの成績をあっさりたたき出す。

「でも、マー坊くんと同じガッコ?」
「うん、ランコーにするってさ」
「そうなんだ、もう一生モンの付き合いだね」

あすかと真里に、ゆるいシャワーのような雨が降り注ぐ。
白糸のように細いそれは、ビニール傘にあえなくはじかれ吸い込まれ、ひたひたとしずくにかわってすべってゆく。

「高校いくとさ、あすかいねーんだよね」
「いないよー、でももし合格したら、マー坊くんのガッコ、わりと近いよ」
「いねーことにはかわんねーじゃん」
「そうだね」

そんなことを惜しんでくれるようには思えないけれど。
気まぐれな言葉の真意を、あすかは慎重に耳をそばだててさぐる。

「理科の課題も教えてくれるやついねーし」

そのまえに、まともに理科系の授業を受けるつもりはあるのだろうか。

真里の、真新しい教科書。

この中学校には卒業時に、好きな人やあこがれのセンパイの私物をもらう習慣があるらしい。

同じクラスの女の子が、鮎川くんのあれをもらう!と宣言していた。

そういえば、去年のことだ。
彫刻のように整った顔。そして、有象無象の中学生のなかでとびぬけたスタイルに硬派な雰囲気。
だけれど、あきらかに怖すぎる先輩。
後輩から、榊先輩と呼ばれていた人。
あの人は、卒業式という非日常の空気にのまれて理性をうしなった後輩たちや同級生女子に、日ごろの畏怖はどこへやら、あえなく襲いかかられて、ボタンから名札に教科書からペンケース、鞄にベルトにアクセサリーに香水に、あらゆる持ち物をみぐるみ剥ぎ取られ、すべてもってゆかれたらしい。女子たちに襲われ、髪の毛をみだし、ぽかんとすわりこむ榊先輩というひと。真里がその様をおもしろおかしく説明し、ケラケラと笑っていたことを思い出す。

「運動会で鼻血だしてもー誰もペンギンくんねーし」

そもそも運動会は成立するのだろうか。
男子校の運動会。見てみたくもあるけれど。

「ココアも!」

真里のメゾソプラノで列挙されてゆく、この三年間の数少ない思い出。
こみあげそうになるさみしさをこらえて、いつしかあすかの歩調にあわせてくれている真里を、あすかは慎重に傘で守り続ける。

「ほかにもいろいろあったじゃん」
「えー?もーおぼえてねーよ」
「おもいだして!ほらー、エーゴんときとかー」

傘なしで歩くには断続的な雨。
傘を厳重にさすにはゆるい雨。

「えー、おもいだせねーー、んじゃ、あすかが教えてよ」
「英語んとき、マー坊くんあてられたじゃん。そんときわたしが」
「あー!答え教えてくれたやつ!」
「教科書ガイドで答え見ただけなんだけどね」

んだよ!あすかもズルじゃんよ。

ボンタンにつつまれた足。そのつまさきがアスファルトをこすりあげると、しずくのような雨水が乱舞した。
気付けば、あすかの家に曲がってゆく角はとっくに通り過ぎている。
このまま、真里の暮らすマンションまでおくることになりそうだ。

卒業までの残りわずかな日々を、しずかな雨が、数え続ける。

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