横浜駅、西口。

帰宅する学生たち、様々な事情を抱えた大人達にまざって、葵は駅構内を足早にとおりぬけてた。
相鉄線の駅を通り過ぎる。そしてすぐ見つかるのは、同系列の百貨店。
その中もてくてくとつっきってしまう。

発展途上の駅のなかを、鞄を肩にかけた葵はぐるりと見渡した。
駅の構内のどこかに、常にブルーシートがかかっている。毎朝のようにこの駅を利用する葵もいまだ、横浜駅の全貌はつかめない。東急東横線でたどり着いてしまえば、すぐに横須賀線に乗り換えるのが、葵の常だ。日頃であれば経由するだけのこの駅を、葵はてくてくとさまよっているところだ。


葵のだいすきなひとに指定された場所。


駅からの距離は、然程ない。

足下には、昨夜のお酒の名残がアスファルトにしみついているようだ。唾棄のあとに、打ち捨てられたナイロン袋、ガムの包み紙。人々が乱雑に踏み荒らした、忌々しそうな風情の黒ずんだ汚れ。


ここは、西口G番街。

昼から夕暮れに移り変わる時間。
曖昧な時空のなかにただよう不穏な空気はぬぐえない。
ともすれば足をとられてしまいそうな、起伏や段差。

あやしげな通りが交錯する、横浜駅周辺のかたすみの、ごみごみとした一角だ。

カラオケボックスが入っているビルの一階にちんまりと背中をあずけた葵は、少しずつくれてゆく夕日を眺めながら、少しだけ落ち着かない気持ちを抱えてためいきをついた。



みあげれば、西口G番街ときざまれたアーチ。

きっと、あの夕日が少しだけ落ちれば、ネオンがともるのだろう。

そのネオンがともるまでに、龍也は来てくれるだろうか。
まだまだ明るい時間帯だ。かすかな不安はそれ以上大きくならず、独特の風貌を称えた人々は、ちんまりとビルの壁に背中をあずけている葵なんて、見向きもしない。


人が入れ替わる気配。
いや、朝も昼も夕も、ずっとここにしのんでいる気配だ。

ストライプのスーツを着た厳しい男性。
目の下に激しいくまの走った、性別年齢不詳の人がたばこをなげすてると、葵の足下に転がってきた。拾い上げるか否か、迷っていたとき。


もうひとつ落ちてきたもの。


それは、レオパード柄のシュシュだった。
龍也の好みそうなテキスタイルだから、葵はとくに反応してしまう。


思わずぱたぱたとかけだした葵が、しゃがみこみ、拾い上げた。


小汚いアスファルトを、高いヒールがカツカツとたたく。
その後ろを、かかとをはきつぶした運動靴が続いていく。

高いヒールを操るすらりと長い足。デニムのショートパンツを吐いた金髪の女性のバッグから、落ちてしまったもののようだ。

あの!と葵が声をあげると、けだるい風情で二人組が振り向いた。

金髪の女性のそばには、背の高い金髪の少年。葵のことなど、さほど興味を抱いていないようだ。金髪の女性も、冷たい瞳で葵を一瞥した。
あわてて駆け寄った葵が、彼女が落としたシュシュをみせる。すると。仏頂面はゆっくりと破顔し、きれいな顔に穏やかな笑みがうかんだ。

蓮っ葉な風情と、ただの学生である葵の雰囲気は、ちぐはぐでそぐわない。
金髪の女性の美しい手が、葵の手から、手癖にすぎない乱暴なしぐさでシュシュをもぎとったとき。


葵のちいさな体を、大きく覆う影がさす。


この少女に、葵に何か起これば、
葵に何も起こらなくとも、後ろからいつだって、この影が現れる。


そんな主張が、葵が親切心を発揮した相手に対しても重苦しくのし掛かり、この町にふさわしいすすけた雰囲気の二人組は、まるで逃げるように立ち去った。



「せ、せんぱい!」

振り返った葵が、気配の持ち主のことをすぐに悟った。

榊龍也。
葵をおびやかすものたちではないか。
そんな予測は、まったく勘違いであったことを、葵の穏やかな表情、そこににじむこどもっぽい狼狽により、龍也はまたたくまに悟った。
盛大な勘違いは、龍也のプライドと龍也の性急な思いを、傷つけ始める。


「・・・・・・」
「ま、まってないし、時間よりはやいですよ、先輩!」
バイク・・・・・・は?


あごで駐車場をゆびさした。

納得したようにうなずいた葵が、すこし不安な顔で見上げた。

私は大丈夫だ。

そう口にするよりさきに、龍也からも同じ言葉がこぼれようとして。


「だ・・・・・・い・・・・・・」


顔を見合わせて、葵がうつむいてしまう。
そして、龍也と過ごした幾度かの季節は、葵に、存分に言いたいことをつたえてもかまわないという信頼と、素直さを育てさせた。


「あ、あの、ありがとうございました・・・・・・」

龍也の整った面長の輪郭のなかで、いくつもの感情が去来している。
それを整理してあげるため。
自分のきもちと、龍也の気持ちを整えるため。

葵は、伝えたいことを丁寧につむぎはじめた。

「でも、ここ、滅多にこないから・・・・・・ちょっと、緊張してて」

西口G番街。
ふつうに生きていれば、そもそもいちいちみとがめられることもない。
地味な風体の葵は、まるで建物にとけこんでしまったかのように、そもそも注目なんてされない。
それでも、そわそわとしていた気持ち。確かに芽生えていた不安の思い。
龍也がそばにいてくれれば、そんなもの全て吹っ飛んでしまう。


「龍也先輩きてくれて、よかった!」


たまらず葵から目をそらした龍也の長ランが、風に翻る。

これは、拗ねてしまったわけでも、プライドを損ねてしまったわけでもない。
龍也に必要な、あと少しだけの時間。


風をきって歩き始めてしまった龍也の背中を、葵がぱたぱたと追いかけ始めた。


手はとってくれないけれど、かまわない。
ぴったりとくっついてしまえばいいからだ。
そして、くっつくことはゆるしてくれる

むしろ今日は、龍也に妙に気を遣って彼から半端に離れてしまえば、龍也の機嫌の上下はますます増幅し、龍也の複雑なプライドはますますねじれてしまうだろう。

学ランにつつまれた、葵の大好きな、大きな背中。龍也にぴったりとくっついた葵が、やっぱり物珍しい界隈を、きょろきょろとみまわしている。龍也がそばにいてくれるから、不安はすべて霧散して、年相応の好奇心が葵に満ち始める。

好奇心はろくな結果を呼ばないケースがある。
葵ひとりであれば、見向きもされないとしても。
龍也がついていれば、それは安心を生むケースだけとはいえない。
余計なトラブルを生む可能性も上がるのだ。

「オレからはなれんじゃねー」
「くっついてます・・・・・・。ね、この通りなにがあるんですか?」
「黙ってついてこい」
「あのビデオ店って書いてるとこ、ツタヤみたいなとこですか?」
やすいの?

ぎらぎらとしたネオンをゆびさす葵のさらさらの髪の毛をぐしゃぐしゃとみだせば、葵の関心は、アダルトビデオ店のネオンから自らの乱れた髪の毛にうつる。

乱れた黒髪を手ぐしでなおしながら、小走りで龍也をおいかける葵がたずねる。


「どこ行くんですか!」
「あすこよるぞ・・・・・・」

龍也がつたえたのは、スポーツ用品店。スポーツ用品を謳っているけれど、男性用の衣料品、あるいはライダーに向いたグッズも様々取り扱っている。
龍也の意図を即座に察知した葵が、素直なちょうしでうなずく。

「お買い物ですねー。そのあと、ビブレいくの」
「・・・・・・」
「お菓子買います。先輩のぶんも買う」

このまえ遊んでやったとき、葵に無理やり食べさせられた、謎のあめ玉。
異様な色をしたそれは、まるで血のようだった。龍也の咥内にいつまでも居着いて離れなかった、ギトギトした甘さ。
あれをまた買う気か。
そして十中八九、また食わせられるだろう。


「あんなもんくってっとよ、むしばだむしば」
「先輩って虫歯あるの?」
「虫歯はねーけどよ・・・・・・」
「そっか、歯医者はよく行きますもんねー」

ちらりとみやっても、葵は平気な顔をしてうなずいている。
何度こぶしを受けても、一晩休めば回復の一途を順調にたどり始める龍也とはいえ、自力ではなおせないケガもある。そのうちの一つが、歯だ。定期的な歯医者通い、インプラントの点検をかかさない龍也の習慣も、葵はよく承知している。

龍也の目当ての店は、すぐに見つかる。葵が店に目をとめた瞬間、西口のネオンがともった。
秋の日はずいぶんはやくなってきた。


龍也の歩調も、落ち行く夕日を同様に速い。

一生懸命追いかける葵の息が、はずみはじめる。


こうなるから、単車の後ろに乗っけるほうがずいぶんラクで、てっとりばやいのだ。


歩調を緩めた龍也が、長ランにつつまれた腕をさしだす。

ぎゅっとしがみついた葵が、思い切りわらった。


「まじめにあるけ・・・・・・」
「あ、歩いてますよ・・・!」
「帰り湘南行くぞ」
「電車で大丈夫・・・・・・」
「・・・・・・」
「けど・・・・・・乗せてもらう!!」

秋服のベストにしのばせてあったあめ玉をさしだすと、龍也が心底げんなりした顔をみせた。
その、葵にだけみせてくれる茶目っ気がいとしくて、すすけた町のなか、葵は、もう一度幸せそうにわらった。

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