「マジで?そんなに会ってねーの?」

秀人の整った顔に、紫煙が遠慮なくぶつかる。
先日繰り広げた乱闘の痕がかすかに残った精悍な顔に当たってまっぷたつにわれたそれは、喫茶フェニックスの高い天井でゆったりとまわりつづける大きな羽をもった換気扇に、あっけなくすいこまれて静かに消えてゆく。

たばこはあと一本。シャープペンシルほどに細いフォルムのそれを意味なくぬきだした秀人は、形の整った指先で、テーブルの上に力なくころがしてみせる。

そして空っぽになったソフトケースを、ぐしゃりとにぎりつぶした。

無意味に広げていたスポーツ新聞をガサツなしぐさで折り畳んだ秀人が、吉岡の問いかけに何度か瞬きをくりかえして、火のついていないたばこをもう一度とりあげようとしたとき。

「秀ちゃんそれオレのだぜ」

四人掛けのテーブルには、吉岡、秀人、オッくんの3人。

秀人のそば、奥の席を陣取っているオッくんが、意味のない動作を繰り返し続ける秀人のことを興味深げにのぞきこんだ。

秀人がぐしゃりとにぎりつぶしたたばこのソフトケースも、ぬきとったたばこも、すべてオッくんものもであったようだ。秀人もオッくんも同じたばこを吸うが、こんな勘違い、めったに起こることではない。

「ああ、わり」

秀人が、曖昧な声音でなげやりな謝罪をオッくんにおくった。

そもそも興味もない新聞をたまたまひろげていただけ。
あげく、うわのそらのありさまで、オッくんのたばこを中途半端に奪ってみせた。

そんな秀人らしくない行動を見守りながら、吉岡はもう一度、念を押す。

「千歳ちゃん」

吉岡が呼んだのは、秀人の恋人のなまえだ。

秀人に彼女ができたのは、いつぶりか。しばしの間フリーであった秀人に、特定のオンナができたこと。それは、吉岡、そしてとみに口の軽いオッくんを通じて外道中に広まった。いずれのメンバーも秀人に本命がいることなど青天の霹靂であった。

千歳という名の秀人の彼女。
年上ハデ好み、あるいは明朗快活なオンナが好みの秀人にしては意外な娘を選んだというのが、吉岡の率直な所感であった。

秀人の彼女は、年下のおとなしい女の子だというのだ。

いわく、長い黒髪が特徴だという。
山手の女子中学校に通う、ずいぶん純粋そうな、ずいぶんおとなしい性格の、素っカタギの少女。そんな情報だけが、チーム内をひとりあるきしている。

秀人と吉岡をのぞいた外道メンバーと彼女がまみえたことは、まだ一度もない。

夕刻の喫茶フェニックスに、外道のメンバーは、ようやくちらほらと集まり始めたところだ。

吉岡、オッくん、秀人。序列の存在せぬ外道のなかでも、看板あるいは幹部とよべるメンバーだ。今なら大丈夫だろう。秀人とあのおとなしい女の子の付き合いは、どこまで進んでいるのか。どういった具合で関係を深めているのか。好奇心をおさえきれぬ吉岡が軽い気持ちでたずねてみたところ、会ってない。そんな、そっけない言葉だけがかえってきたのだ。


吉岡の問いかけに低い声で唸る秀人を、吉岡とオッくんが見守っている。

「……一ヶ月、くれーかよ……?」

それだけ放置してたらオレぁ浮気されてたぞ。そう言ったオッくんが短いスパンでくりかえしつづける自らの恋愛経験をなげいてみせる。

確かに、秀人にも、至極似通った経験はある。

一方的に別れをきりだされ、それをあっさり承諾すれば、オンナたちはますます泣いた。
千歳を彼女として傍に置き始めてから、口数がすくなくいつだって遠慮がちの千歳に、そんなストレスをぶつけられたことはない。


賢いオンナがスキだった。
年が上なら、なおよかった。
学生から仕事を持ったオンナまで、秀人が付き合ったオンナはじつに様々だ。

遊び捨ててきたつもりもないが、付き合う女を苦もなく手に入れ続けて、そして今、秀人のそばにいるのは、今迄と一風かわった、控えめな子だ。

なぜ、そんな千歳が秀人の彼女になったか。
それは、今そばにいるふたりは重々承知しているけれど。

どこか上の空な秀人を見かねた吉岡が、このタイミングであれば堂々と兄貴分の顔をみせられると解釈したのか、短くなったたばこで秀人をゆびさしながら、大声で指南してみせる。

「ああいうおとなしい子はよー、秀んほーからリードしてやんねーとよ!!」

吉岡の説得につづいて、オッくんも何やら知ったようなことをぶちはじめるが、秀人の耳に、それはとどかない。

学生ズボンのポケットにおさまっていたたばこをとりだした秀人が、テーブルの片隅につみあげられているマッチをとりあげて、こすりあげる。

器用に起こすことができた火を、たばこの先端に近づけて、焦げ付く匂いを漂わせ始めた。

「……どー扱っていーかよ……オレもよ」

テーブルとソファの間にできた手狭な空間には、秀人の長い脚はおさまりきらない。膝の上にかかとをのせれば、靴裏からこぼれた泥がオッくんのひざに落ちれど、オッくんは、めずらしく黄昏た様相をみせる秀人のことが、実にめずらしいようだ。

「わかんねーんだよ」

弱音ではないことが、吉岡にはわかる。
秀人が吐き出し始めた本音。
それはたしかに、あの内気な女の子への、慈愛であり思いやりだ。

「こわしそーでよ……」
「その子が納得して秀ちゃんのそばにいんだからよ、いーんじゃねーの?」

秀人のボヤきを爽やかに断ち切ったのは、オッくんのひとこと。
しかし、オッくんに正論をかざされると、妙にもやもやがたちこめるのは、秀人も吉岡もおなじだ。

長い腕をのばした吉岡がオッくんの脳天をポカリとこづいた。オッくんのそばにすわっているのが秀人ではなく己であれば、このままヘッドロックにいきたいところだが。何すんだ吉岡!と怒鳴るオッくんの声をさえぎった秀人が、艶めいたテノールでつぶやいた。


「いーんか……?」

テーブル越しに取っ組み合いをはじめようとしていたオッくんと吉岡が、ぴたりとつかみ合いをやめて秀人をふりむく。

「こわしっちまってもよ?」

たばこを灰皿にたてかけた秀人の瞳に、熱がやどる。
その滴り落ちるようなテノールに、オッくんと吉岡が息をのんだとき。

キャッツアイ越しの吉岡の視界を、ある新鮮な変化がかすめた。


テーブルごしのオッくんの襟首をつかむことをあきらめた吉岡が、拳をにぎりしめ、親指をたてた。
そしてその親指がさすのは、三人が陣取っているテーブル目の前の、扉。

ガラスの扉の向こう側に、遠慮がちに立ち尽くしている、この店にそぐわぬすがた。


腕を組み、長い足をなげだしていた秀人が、吉岡の親指の先を追いかけた。

身をのりだしたオッくんも、吉岡がさししめすそのさきに気づき、秀人と扉の向こう側を交互に見守り、こどもじみた笑みを浮かべる。

ゆったり立ち上がった秀人が、入り口に寄る。
そして、重い扉を内側にぐいと引いた。



「……あ……こ、こんにちは……鳴神、先輩……」

足をがくがくとふるわせていた千歳が、ドアの向こうからあらわれた背の高い人を、じっと見上げた。
今でも、この人が自分の恋人だなんて、信じられないのだ。

ここにくるまで、何人もの人ににらみつけられ、嘗め回すように見下され、侮蔑の笑みもあびせられた。

おまえみたいなガキがくる場所じゃない。

そう語られていることは明白だった。

そして。

「名前で呼べっつっただろ?」

千歳を出迎えてくれた、つきあい始めたばかりの人は、あたたかく千歳をむかえてくれている。


「千歳」
「呼んでみな?」
「……」
「……」
「ひ……」

矢継ぎ早に言葉を紡ぐ女とばかり付き合ってきた。
こんな風に、言葉を懸命に探す子は初めてだった。

「……」
「秀…ちゃん……」

扉をおさえて、千歳のことを守るように立っている秀人が、切れ長の眦をあたたかく下げて、千歳の髪の毛をそっと撫でた。

「……し、しつれい、しました…」

一転、千歳は小刻みな足取りで後ずさり、くるりときびすをかえそうとした。
セーラー服越しの腕をつかみ、その体をしっかりとつかむ。

冗談めいて壊すなどとこぼしたのは先ほど。
千歳の腕の華奢なありさまに、秀人の背中に冷や汗がつたう。
冗談でも壊すなどと言えたものではなかった。

少しだけ体をふるわせた千歳が、秀人をそっと見上げる。

秀人に二の腕をとらわれたまま、千歳が、こわれそうな声で伝えた。

「こ、ここにいらっしゃるって……吉岡、さん、に……」

千歳の腕を丁寧に開放しながら、秀人は、千歳の腰をそっと抱き寄せる。
胸元にやさしくおさめながら、千歳のことを労わってやる。

「勇気要っただろ」

身体の震えをつとめておさえながら、千歳がこっくりとうなずいた。
待つだけじゃない。
自分から、秀人に何かをしめしたい。
支えてもらってばかり、守って助けてもらってばかりの秀人に、わたしだってあなたに強い思いを持っているのだと、そんな気持ちを伝えたかった。

その想いを充分に受け取った秀人は、愛をこめた忠告をする。

「一人でくんじゃねーぞ」
「ごめんなさい……!」

せっぱつまった叫びのような謝罪に、秀人はやわらかく笑いかけた。
そして、短い声で、あたたかく命令する。

「オレとこい」

千歳の形のいい瞳が、きょとんととどまる。
おずおずとうなずいてしまっていいものか。
判断をあぐねた千歳は、ただ黙って秀人を見つめ続けている。

「オマエはここフリーパスだ」
「え、えっと、そんな……大切な、場所、なので……」

千歳の大げさな評をきき、端正な口元に笑みをこぼした秀人が、彼女の肩をそっと抱いて、喫茶店のなかへ導き始めた。

「紹介するよ」
「!!」

しりごんだ千歳の足がぴたりととまる。
力の入ってしまった千歳の体。その緊張をやわらかくときほぐすように、秀人は彼女の耳元で、やわらかなテノールを駆使して丁寧に諭した。

「デージョブだ、こわくねえ」
「は、はい」
よ、吉岡さんが……そうおっしゃられてて……

何かと相談にのってくれて、千歳がうまくことばにできないことを、あっさりと言語化してくれるひと。

秀人のそばにいはじめたばかりの千歳のことを、助けてくれる、やさしい人だ。

「吉岡吉岡ってよぉ、千歳ぁ吉岡スキなんかぁ?」
「ち、ちがい……あっ!ち、ちがわないけど……」

今だ、秀人の身体で喫茶店の入り口はとざされたまま。千歳の心が落ち着くまで、この門を解放するのは待ってやるつもりだったのだ。
秀人のからだでさえぎられた喫茶店の向こう側から、吉岡の無責任な声がとんでくる。吉岡の長所は耳の良さ。千歳のちいさな声も敏感にさとったのだ。

「え、オレが何だって千歳ちゃん!」

秀人と、秀人が心から信じる友人たちに失礼があってはならない。
千歳が、懸命に自分の心境、秀人と秀人の周囲の人たちへの感謝と尊敬を説明する。

「え、えっと、吉岡さんは、す、すばらしい、人だと……!!」

わけがわからなくなった千歳がおおげさな言葉で吉岡をほめる。
素直で、嘘をつくことなどしらぬ不器用な恋人を見守った秀人が、けらけらとわらった。

あげく千歳は、最も正直な言葉を、何やら突然、懸命に吐き出そうとこころみはじめたのだ。

「で、でも、わ、わたしが、す、すきなのは……」
「千歳、わーったからよ……もういうな」
オレも照れんだよ  

頬をぽりぽりと人差し指でかき、あさっての方向をみあげる秀人に、いたく恐縮した千歳が何度も頭をさげはじめた。

「さ、来い。オレんダチだ」

千歳がこくりとうなずき、細い脚を一歩踏み出す。

「千歳は、オレの彼女だ」
いつでも来いよ?

吉岡とオッくんと、千歳。三人に難なくつたわる、秀人のハリのあるテノールが、千歳のことを宣言する。

そろそろ、他のメンバーたちもおとずれるころだ。
フェニックスの床を、秀人に肩を抱かれた千歳がおそるおそるふみしめる。
そんな清らかなすがたを、吉岡とオッくんが真っすぐな好奇心いっぱいで見守る。

「は、はじめまして……」

懸命に声をはりあげた千歳が、はじめての挨拶をかわした。この日以降、千歳は、秀人の唯一無二の恋人として、外道メンバーの公認の存在となる。

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