極楽寺から長谷まで、江ノ電なら2分。自転車なら10分。歩けば30分。
自転車を押して龍也とともに歩く葵は、切通しの坂を越えた瞬間、いそいそと自転車にまたがった。

龍也の大型バイクは、ただいま整備中。
今日は、おとなしく江ノ電に乗って葵の家をおとずれてくれた龍也。

歩いている龍也のそばを得意げに自転車をこぎ、一気にぬかしてしまおうとこころみるも、大股歩きの龍也に葵の自転車はあっさりとおいこされる。

なぜこんなにリーチが長いのか。
かしゃんかしゃんと音をたててあぶなっかしく自転車をあやつる葵が、やっぱり自転車から降りた。
そして龍也の背中にくっついて自転車を押しあるき、ナビゲーションを担当する。
やがてたどり着くのは、長谷の町のそのまた奥の、鎌倉文学館手前の住宅街のなかの、ちいさなパン屋。長谷・極楽寺・稲村ケ崎、はては由比ガ浜、あるいは鵠沼からも買いに来る客もいる、江ノ電沿線住民御用達のパン屋だ。

龍也は、葵のお使いについてきてくれたのだ。母親は護衛だと言っていたが、長谷で護衛なんて必要ないと葵は思っている。でも、龍也は、だまってその言葉に従って、葵を守るようにそばを歩いてくれていた。

母親に命じられたパンと、龍也がえらんだパン、そしてあたたかいスープを二人ぶん購入した葵は、紙袋に詰められたそれらすべてを、慎重に籠におさめた。

竹籠に、白いボディ。
女の子らしいシティサイクルだ。

葵の覚束ない手つきを見守る龍也が、あたたかなバリトンにからかい交じりの慈愛を込めて言ってのける。

こんな軽口、葵の前以外で叩くことはない。

「こぼすなよ、ちび」
「ちびじゃありません」
「葵」
「…こぼしません……わたし、自転車うまいから!」
「そうかよ、ちび」
「ちびじゃないです!!」
154!

片手で4という数字をしめし、龍也のまえに仁王立ちして見せる葵。はずみで籠がぐらついたので、龍也が難なく支えた。
スープはこぼれていないか。龍也が紙袋のなかをのぞいてみせる。プラスチックの蓋でしっかり熱をとじこめてあるスープに異変はないようだ。

「す、すみません……」
「なんでちびっつったら怒んだ?」
「本当に背の低い人に失礼だからです!」
「……?ああ……?」
「女子のなかではいろいろあるんです……!154センチはふつうです!」

んなこと言ってもよ。
切れ長の三白眼を細めた龍也が、そういわんばかりの醒めた眼で葵のことを脳天からつまさきまで見遣る。
180を越えた長身の龍也にとって、目の前でなぜか仁王立ちする彼女のすがたは、ちいさないきもの以外の何者でもない。

支えてくれている龍也から自転車をうばいとった葵が、愛用の自転車にいさましくまたがった。

「もういいです、ちびは先に自転車で帰ります」

龍也が、荷台をぎゅっとおさえこむ。
それだけで、葵の自転車は前にすすまない。

「こぼれんぞ、スープ」
「あっ……、だ、大丈夫です」
自転車、うまいので!

ゆれる籠をしっかり支えた龍也が、葵に、冷涼な声で命じた。

「降りな」
「……」

ひらひらとひるがえるワンピース。
そのたよりない裾を気にかけながら、葵が自転車を龍也にあけわたした。

「のれ」
「……先輩、足、長すぎてすごくあまってますよ?」
「だまってのれ」

シートクランプを力任せにぐるぐるとまわした龍也が、サドルを一旦ひっこぬく。
葵の足がつかないほど高くなってしまったサドルを器用に固定して、シートクランプを慎重にしめた龍也が、葵の自転車をそれはそれは高身長専用の乗り物に改造してしまった。

はるかたかくにあげられてしまった葵の自転車のサドルに龍也がまたがった。
自転車など、何年ぶりか。

それにしたって葵のかわいらしい自転車に、龍也の精悍な体はミスマッチだ。
でも、しばらく見つめていると、背の高い龍也にはどんな乗り物だって似合う気もしてしまう。

そんなにサドルあげないでください……!
ちいさな声でそんな抗議をおくった葵が、荷台にちょこんと横座りしてみせた。

「二人乗りって、ほーりつで禁止なんですよ」
「うるせえ」

龍也が、なめらかにペダルを漕ぎ始める。
葵の不安定な操縦と違って、竹籠はひとつも揺れることはない。
紙袋のなかのパンもスープも、おとなしくそこにおさまっている。

そして、龍也のにぎるハンドルバー。
その両脇にくっつくグリップ。

そこに、龍也の単車のシートとおなじ、ヒョウ柄がひっそりとほどこされているのだ。

「グリップ、あんときのままかよ」
「そうです!かわいいですよね」
「かわいくねえ……」
「かわいいです!」

龍也の鍛えられた腰にぎゅっとしがみついた葵が、こうして龍也に愛してもらえる前のことを、思い出す。



葵の自宅の庭は、定期的に業者が手をいれていく。いつもこぎれいにととのっている芝生に植木。素人の手入れでは限界があり、プロの手をかりなければ、こうはならない。
丁寧につくりあげられた庭の真ん中にとめられているのは、葵の愛用する自転車だ。

そのそばに、日ごろの不敵な自信をうしない、ばつのわるさをかみころしながらもガンをくれることはわすれない二人が立っている。


一人は、一番上の姉にうりふたつの切れ長の瞳が特徴の、女顔に黒髪の短髪。

もう一人は、はりつけたガーゼの下に痛々しいキズがうずいている人。


葵の兄と、龍也だ。


日曜日。
葵は、長谷のピアノ教室へ、江ノ電に乗ってレッスンに通っている。
めずらしく午前中におこなわれたレッスンから、葵はまっすぐ帰ってきた。
龍也が家にくることを、昨夜、兄の電話を盗み聞きして知っていたからだ。
いつもであれば双子の妹や友達と一緒に駅前まで寄り道をするところだけれど、今日はわくわくと心を躍らせて帰って来た。
つい先日も会ったばかり、あのキズをいたわったばかりだったけれど、龍也には何度会っても足りない。それほどいとしい。

そして、なぜか、ガレージから庭先に移動している自転車。

自転車に起きた凄惨な異変をさとった葵が、レッスンバッグをどさりと芝の上におとし、わなわなと怒りをこらえている。

「これは……元にもどるんですか……」

葵の愛用する、真っ白なボディのかわいい自転車。

真っ白なはずだった。

それが今や。

龍也の乗り付けた単車は、ヒョウ柄の三段シートに、黒からビリジアン、そして赤へと変化してゆくフレアライン。まだ組みあがったばかりだと言っていた。それはガレージにおさめられているらしい。

そして、なんと。


葵の自転車も、龍也の単車と同じ塗装にしあがっているのだ。


兄と龍也が共謀して、葵の自転車をみごとなフレアラインに塗装してしまったのだ。

龍也にこっそりと片思いをする葵のきもちを、葵の兄は真剣にくんだつもりであった。
目上の人間、そして尊敬する人の言いつけに忠実にしたがう龍也は、兄のバカな提案に、あくまで真摯にしたがったまでだ。ただし、あの真面目な性格のちびっこの驚く顔が見たいという好奇心は確かに存在していた。

それでも、感情を内にためがちで、兄以外の男子の前であからさまに怒り狂ったことのない葵の怒りは、もやもやとしぼんでゆく。

兄が葵をたしなめる。
すると、葵は、あっさりと気持ちのこぶしをふりおろした。

何より葵は、大好きな龍也に、わがままな子、ちいさなことですぐ怒ってしまう子と思われたくないのだ。

「……怒ってごめんなさい……」

龍也の美意識にみちたデザインのはずだ。
それを怒ることも、龍也に対して失礼だったと思う。

だけれど、葵は、自分自身にこのデザインはそぐわないと思っている。こんなに華美で、自信にあふれていて、自分をいつわることなく堂々と主張する炎。

葵のなかに、まだ、こんなに燃え上がる炎は育っていないからだ。

それでも、ここはかわいい。
ここだけは一緒にしたい。

ヒョウ柄に縁どられたグリップ。

そこを指さした葵が、つぶやいた。

「……ここだけ、一緒にします」
あとは、元に戻して!

兄に厳しく命じると、兄がすごすごと従った。龍也も、仏頂面にすこしの笑みをふくませて、葵の命令にしたがう。

葵が、グラスにお茶をそそぎ、お盆にのせてもってくる。

ちゃんとイヤなことぁイヤって言えんだな?
お茶をあおった龍也が、葵を見下ろしてそうつぶやき、兄の見ていないところで葵の頭をぽんぽんと撫でてくれたこと。
その言葉の意味を、いまひとつ掴みかねたこと。
その言葉の意味が、いまならわかること。

葵は、あの夏の終わりのことを、はっきりと覚えている。



龍也の広い背中越しには、そのグリップは見えないけれど。
愛用の自転車。
葵は、龍也にぎゅっと抱きついて、はずむ声をあげた。

「かわいいです、かわいいですよね!」
「かわいくねえ」
「かわいいですよ、すごくかわいい」

自分の気に入っているデザインを、かわいいということばでくくられてしまうことに対して、17歳の男子の心には幾分か複雑さも生まれる。

切通しの坂を、龍也がなめらかな運転でくだってゆく。
自転車でいきがってもしかたないだろう。
葵の安全とスープの安全。
ふたつに気をくばり、龍也は自転車を丁重に扱う。

「あのときのままです」
「あの塗装ぁよ……」
「……フレアライン……」
「いけてたんじゃねーか」
「……りゅ、りゅーやせんぱいと、おそろい……」
わたし、あのとき、びっくりしちゃって……。

拗ねてしまったことは、やっぱり感じ悪かったと思う。
葵は、龍也のあたたかい背中にぴったりと頬をよせて、しずかな声であやまった。

「怒ってごめんなさい」
「あれが、怒ってるっつーのか……?」
「ケンカしちゃった」
「ケンカっつーのぁよちび……」
「ちびじゃないです」

短い声で抗議した葵が、軽いパンチをわき腹にきめた。
そのわけのわからない行為。
ちらりと葵をふりむいた龍也が、おどろおどろしい声で、葵の行動を咎めた。

「……何しやがる……?」
「あ、兄が、りゅーやせんぱいにおそわれたときは、ここにキメるといいって言ったので……」
ご、ごめんなさい……。おそわれてないですよね……

かぼそい声であやまった葵が、龍也のわきばらをさすりはじめた。
そのほうが刺激になるので、やめてほしいものであるが。
それより、龍也には気にかかることがある。

「……バレてんのか」
「さあ、知らない。でもこのまえ寮に電話したら、おにーちゃんそやって言いました」

マイペースに話題をきりかえた葵が、龍也の腰にあらためてぎゅっと腕をからめながら、愛らしい声でたずねた。

「スープ、さめてません?」

答えるかわりに、龍也は自転車の速度をあげる。
ペダルを漕ぐ足の回転は変わらないのに、心地よいスピードで自転車はすすみはじめる。
切通をぬける。ここからまっすぐすすめば極楽寺駅。
右にむかってそれた自転車は、桜橋をスムーズにわたった。

龍也が、深いバリトンに、葵にしか見せぬ少年らしさをしのばせて語り掛けた。

「もっとキマるとこ教えてやろうか」
「い、いいです、もう、ケンカしたくないので……」
「ケンカしたことねーだろ」
「ケンカじゃないのかな?」
「んなことよりよ、スカート、裾デージョブか。気ーつけてろよ」

極楽寺一丁目の、古い民家があつまる静かな住宅地に入った自転車が、葵の家にむかって、最後のスピードをあげてゆく。
はーい。良い子の返事をした葵が、ワンピースのすそをぎゅっとまきこみ、龍也にしがみつく。
すこしさめてしまったスープを器にうつしてあたためて、龍也のえらんだパンと葵のすきなパン。
日曜日の午後。
葵は、龍也といっしょにしずかな昼下がりをむかえられることに、ちいさな心いっぱいにありがたみを一身に感じながら、龍也の背中に、ちびっこいからだをまかせた。

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