いつもオレばっかだからよ、たまにぁ千歳の好きなとこ行くかよ?

秀人にそんな優しい言葉をもらっても、秀人にくっついてどこかへ行けるだけで満足な千歳は、たいそう戸惑うばかりだった。
だけれど、秀人からめずらしく主導権を与えられたこと。
優しい秀人のそんなおもいやりに、なんとかこたえたい。
自分だけが満足するデートじゃなくて、秀人もゆっくりすごしてもらえるようなデートを。

さんざん悩みぬいた千歳はひとまず、長者町の横浜シネマリンを選んだ。千歳は、大きな映画館で大規模にかけられるような映画より、小さな映画館で上映されるささやかな映画が好きだ。
そして、この映画なら、秀人もきっと落ち着いて楽しめるだろう。


当の秀人は落ち着きすぎるあまり、存分に寝入っていた。


そして食事は、伊勢崎モールからすぐそれたところ、吉田町にあるベトナム料理の店を選んだ。秀人も慣れ親しんでいる町であるが、そこに訪れたことはなかったという。
たいそう充実しているメニュー。食べ物にはさほど細かいこだわりのない秀人であることを千歳も知っているけれど、秀人が比較的好む食事をかんがみるに、辛いものはきっと大丈夫だ。

ちまちまと秀人の前を歩き甲斐甲斐しく案内する千歳の肩を、秀人がぎゅっと抱き寄せる。

顔をまっかにして一生懸命案内している千歳が、秀人にとってじつにいとしい。

「どこだよ」
「えっと、も、もーすぐ、です……」

長い腕で強引に抱きよせて、しどろもどろで説明する千歳の愛らしい目元を、秀人の挑戦的な瞳があたたかくのぞきこむ。

うつむいてしまった千歳が、恥ずかしがって懸命に腕をほどこうとするけれど、秀人の精悍な腕にとらわれたままだ。
秀人が、人前でこうして千歳と睦みあってくれることはめずらしい。秀人の前をあるき、秀人をみちびく千歳が新鮮なのだろう。からかいと慈愛の混じった秀人の行動を、千歳は顔を真っ赤にして耐えつづける。

千歳が指さした店構え、そしてメニューに、秀人も意外にくいついてくれた。

入店して席につき、メニューをしめし、千歳がひとつひとつ説明をおこなう。

千歳がいつも一生懸命紡ぐ、楽しいともおもえない話も、秀人はあたたかいまなざしで耳を傾けてくれる。そんな優しさで、今日も千歳の解説を楽しんでくれていた。

適当なものを説明し終わり、注文したとき。

ベトナム料理の店の扉が、からんと音を立ててとひらいた。

「……!!」

一様にざわめいた店内。
男性の大声。女性の甲高い声。
秀人も、その目立つ声音とざわめきにつられて入り口を振り向いた。

からんと扉をおして、あらわれたのは、秀人の知りもしない青年だった。

ただし、目を見張るのはその立派な体格。
とくに肩から胸にかけての盛り上がりがすごい。

凄みある顔つき。素人ではないだろう。
格闘家か、スポーツ選手か。

喫煙席をえらんでくれた千歳にあまえて、タバコの先に火をともした秀人が、男性のすがたを観察する。男のそばには、そこそこの美人。

店内のどよめきはおさまらない。
有名人だろうか。
そういったいっさいに関心のない秀人は、それ以上とくに感慨もない。

向かいにいる千歳に向き直った秀人は、目の前の恋人の意外な変化を察知し、ソファからずるりと体をすべらせるところであった。

「千歳?」

いつも、秀人のことを一途にみつめてやまないその澄んだ瞳が、いやにきらめいている。

「あ、あのひと!」

千歳が小声で説明する。
たばこをくわえたまま、眉間にしわをよせた秀人は千歳の声に耳を傾けた。

「あのひと……」

秀人が吐き出したたばこが、千歳に軽くぶつかる。いつも千歳をよけていく煙が、今日はかすかに彼女をかすめてしまった。

妙にざわめきはじめた心の奥底をおさえながら、秀人は、眉間にしわをよせて粗野で短い返事をかさね、彼女の言葉をうながした。

「ああ?」
「大洋の選手です……!」

大洋ホエールズ。
この翌年に横浜ベイスターズと名前を変える球団。
この店に入って来たのは、大洋の人気選手であった。スタメンに名を連ねる外野手がオフを過ごしている。

声にならぬ歓声をあげ、運ばれてきた飲み物をぎゅっと両手で抱えた千歳は、秀人そっちのけで、野球選手に熱い視線を送っている。

こんな熱視線、秀人は、おくられた覚えはない。
まっすぐ目をあわせることすら恥ずかしがり、秀人の背中の後ろから、そっとくっついてきたがる子。
そんな内気な子が、大きな瞳を輝かせて、実にミーハーな視線をおくりつづけている。

「あ?千歳そんなもんスキだったっけか……?」

この子のそんな趣味、ひとつもしらなかった。
千歳を単車に乗せてハマスタの前をとおるときにそわそわしたそぶりも、ひとつもみせなかったはずだ。

「お母さんとお兄ちゃんがすきだから、ちょっと知ってるだけです」
あ、でも、石井たくろーはカッコイイ……。


石井?
ウチにもよ、同じ苗字の人間がいるゼ?


秀人が、大真面目にそう返そうとするまえに。

あろうことか、常日頃、秀人に対して不器用な愛をつむいでやまないその愛らしい声は、まっすぐにその男をほめちぎった。

「ちょーかっこいいですねーーー……!」
あんなかっこいいんだ……。

上品な言葉をつかうこの子の会話が、浮ついている。ちゃらついている。
こんなにラフなことばでこの年下のおとなしい彼女が秀人をほめてくれたことなどあろうか。
いや、ない。


そこに、秀人が頼んだメシが運ばれてくる。
店内の多くの女性客と同様に、野球選手の動向をうかがってやまぬ千歳を放っておいて、秀人はがつがつと箸をすすめはじめる。じつにうまい。

眼前の秀人のプレッシャーをものともせず、千歳は、相変わらずちらちらと様子をうかがっている。ちまちまとメシをよそい、小さな口にのんびりと運びながら。

その澄んだ目がおくる想いは、秀人ではなく、別世界の男へのもの。

このプレッシャーをあたえれば、千歳はいつも、自信なくゆらぎ、秀人にすがりつき、素直なことばをくちにする。

それは、千歳の負担になっていなかったか。
それは、千歳の心のやさしさを、秀人のわがままで思うままにあやつっていなかったか。

鳥のからあげのようなあまからいものをがつがつとかみくだいた秀人が、眉間にしわをよせながら思案する

その男は、軽くお茶をひっかけただけで、すぐに出て行った。店内の好奇心と緊張もあっさりととけて、もとの昼下がりの時間がおとずれる。

特徴ある味わいのお茶をこくこくとのみながら、千歳は秀人にたずねる。
ごはんはほとんどすすんでいないようだ。

「隣、彼女かな?かわいかったですねー」
「ケッ、カキタレだろ」
「ああ・・・・・・モテるでしょうしねー」

秀人がはき捨てた下品な隠語にも、千歳は顔色ひとつ変えない。
そして、相変わらずちまちまと箸をすすめながら、あらためて感想を口にした。

「野球選手ってTシャツ似合いますよね……」

実につまらない顔をした秀人のまえで、千歳は、さめてしまった食事をしみじみ味わいながら、いまだ頬をそめている。

おもしろくない秀人は、使いおえたスプーンで千歳をさしながらからみはじめた。
酒がほしいところだが、まわりすぎると千歳を無事家まで送り届けることに支障がでるかもしれない。

「あのな、じゃーよ、ここに工藤静香がくるとすっぞ?」
「??しずかちゃん?うちの兄もファンだから、家にカセットとかいっぱいありますよ?きれいですよね」
あ、でも、あきなちゃんのほうが歌は……、うまいとおもう……。

平然と批評をはじめた千歳に、秀人はまたも、つまらぬ表情をみせた。

おどおどとおとなしく、もじもじと不器用で、そのくせ千歳はときおりこうして、妙にマイペースだ。

ぱくぱくと食事を終えた千歳が、手をあわせる。

「ごちそーさまでした」

その笑顔は、妙にご機嫌だ。
こどもっぽく拗ねて、伝票を掴み秀人の背中を、千歳がとことこと追いかけてくる。
つっけんどんな調子でお札をかさねた秀人が、釣銭を断って外に出た。
かわりにうけとった千歳が、割り勘…とつぶやいて、足早に歩き始めた秀人を追いかける。


あーー、ガキくせえ。割り勘割り勘とうるさい恋人の髪の毛をわしわしと撫でた秀人はどうにも苛ついてばかりだ。
別世界の人間と自分自身を比較して、千歳のかわいらしく浮ついた態度に苛立つなど。

秀人が、こどもじみた苛立ち、嫉妬を自覚しながらも、まだまだそれはおさまらない。

めずらしく感情をあらわにした秀人に、千歳が弱弱しい声すがりついてくるとでも思えば、当の千歳は、背中にそっとくっついて、澄んだ声で、ささやかにつたえてきた。

「わたしも、嫉妬しますよ?」

秀人の、こどもじみたいらだちが、ゆっくりとついえていく。
そのまま千歳の手をとる。
ぎゅっとつかんだ手はすこやかにあたたかく、いつもよりきつくにぎしりめると、千歳のすずしげな目元がすこしゆがんだ。

「んなこといーやがって、おまえはものわかりいーよなあ……」

ぎゅっと指をからめると、千歳がおずおずと指をにぎりかえしてくる。

「わがままもいわねえ……。不平も不満もいわねー……」

秀人のそばでさらりと流れてゆく黒髪は、彼女自身のように澄み切って、裏表もない。

澄んだ瞳で秀人の言葉をうけいれた千歳は、一転反論をはじめる。

「そんなことないです……わたし、嫉妬してます」
恥ずかしくて、秀ちゃんみたいにまっすぐ言えないだけです……。

この嫉妬のどこがまっすぐなのか。

ぶつぎりの単語を懸命にならべるのが精一杯の千歳が、なめらかにかたりはじめた。

後もう少し歩けば、単車をおいてある場所にたどりつく。

歩調をゆるめた秀人が千歳の顔をのぞきこむ。

真っ赤に紅潮させた千歳が、秀人をまっすぐみあげた。

「秀ちゃん、中学生のとき……県立聖蘭の生徒会長のオンナの人とつきあってたとか……」
頭よくて美人でスポーツもできるひと……。

いつだって動じることのない秀人のしなやかな肩が、跳ね上がる。
それは、ぎくりと音が聴こてしまいそうなほど。
千歳が、秀人とからみあった指に、きゅっと力を込めた。

蚊の鳴くようなか細い声で、千歳が語り続ける。

「私と付き合ってくれるまえは……学年で一番頭いい同級生と親しかったとか……」
港が丘の前の学校のとき……。ほかにも……。

かすかに不安を帯びながらも、そのかわいらしい声には、ちゃっかりした気色に、さらに性急さもかくれていて、とにかく千歳がこれまでため込んだものすべてが詰まっていることがわかる。

「いろいろ、いっぱい、あったって……」
「……どいつだ?」
「吉岡さんに聞いたのもあります……。でも……」
「……なんかあったか?」

千歳が首をふる。

「千歳」

秀人にそう呼ばれると千歳が、自分のことを見守ってくれている秀人を見上げた。

「…電車待ってるときとか、別の学校の女子に、急になんかいわれたり、とか……」
何度か……。いきなり。

秀人が、真剣な炎を、まっすぐな瞳に宿す。
そんなことを、ひとりで抱えていたのか。

「それはいいんです、最近はいわれなくなったの」

でも。
千歳の揺れていた瞳に、すこし悪戯じみた炎がかわいくやどった。

「根岸の外科に入院してたとき、看護婦さんに、モテてましたよね?」
あれ、本気っぽい看護婦さんいましたよ……。

千歳が、なおもつづける。

「ひ、秀ちゃんのタイプって……わか、り、やすい……?なんでもできるコ?」
わたしはあてはまらないですね。

千歳が、ちからなくわらった。

「なんだろ…なんでも、できるひと。きれいで、優秀で」

いじけるようにつぶやいた千歳が、続ける。

「わたしは、タイプは……そんなに」
「今のヤツはちがうのかよ」
「あーー、ないないないない、ないですないです」

一転、千歳が妙にさばけた口調で断言した。

「カキタレとかつくるひとはごかんべんです……。あと鍛えすぎてる人も、そんなに」

先ほどまで、瞳をとろけさせていたというのに。
そしてその品のない単語を、そのきれいな声、たどたどしい口調でさらりと言ってのけるのはやめてもらいたいものだが。


「かっこいいっていうのはー、選手として大洋の役に立つかどうか、です」
「おっまえ……意外とザックリしてやがんな?」
「そんなもんですよ、選手っていつかは別れがくるし」

けろりと言ってのける彼女が、秀人を見上げて伝える。

「わたしのタイプは……」
「……初めて会ったときよ、千歳ぁ言ったよな」

こくりとうなずいた。

「ぼーりょくを……ふるわない、ひと……」

秀人にすがるように大好きなひとの手をにぎりしめる力が、ほのかによわくなったとき、千歳がぽつりとつぶやいた。

「……ひでちゃんの、ことです……」

こたえるかわりに、秀人が千歳の手を思い切りひいた。
千歳の痩せた体が、秀人のしなやかな身体にぴたりと寄り添う。

「秀ちゃんのタイプは、わたしがさっきいったのであってますか……?」
「さーな?オレ振り回した罰だ、おしえねー」
「い、いじわるです…私じゃないんだね……」

みるみるうちにしょんぼりとする千歳をみやって、秀人はさわやかにわらった。

「意外とザックリしてんオンナがいいな」
「私、しめっぽいですよね」
「いーや、千歳ぁざっくりしてんぜ?」

そーだな……と言葉をさがす秀人のことを、千歳はおそるおそる見守る。

「あとぁよ、困ったことあったらよ、ちゃんと相談するオンナがいいかよ」
「……」
「次なんかあったらよ、ぜってー言え。ぜってーだぞ」

千歳が、よわよわしくうなずいた。
さわやかなためいきをついた秀人が、さばさばと宣言する。

「ま、オレもよ、千歳に査定されてクビんなんねーよに、きたえっかよ?」
「クビにしませんし査定もしません……」
今の人はたぶん、億もらってるかなー。

億!?と、秀人が素直な声音で叫ぶ。千歳が、詳細な額を伝えると、降参したように秀人が笑った。

そこに、純白のタンクが、ふたりの瞳にとびこんでくる。

千歳が取り仕切ったデート。
秀人の、年相応の嫉妬が見られた今日。

後は秀人にまかせることになるだろう。
秀人のあたたかい手にひかれ、千歳はいつまでもその、すこやかな力のみなぎるあたたかい背中を、追いかけ続ける。

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