「龍也先輩 メールはこれでいいですか」


PHSの液晶に表示されたショートメール。
すべてをカタカナでつづられた文言を、頭の中でわかりやすく漢字に変換しながら読むと、こんな一文がうまれた。

3月。

龍也の大学2年の春休みは、そのほとんどを短期バイトに費やすこととなった。
それも昨日でいったん区切りをむかえて、久方ぶりにのんびりとした休みをむかえている。

めざめたのは、朝も11時をまわるころ。
早朝集合が続いたバイトがようやく明けた昨日。

なにも考えず眠り続けたのは、ずいぶん久しぶりのことだった。

そして、この春先、龍也の頭の中を占有していた懸念事項は、自身の学業、アルバイトのことだけではなかった。


龍也の恋人葵の、大学受験だ。


龍也が受験生であったころ、葵もこうして憂慮と心配がつねに頭の片隅にあったのだろうか。

そして、つい先日、公衆電話からこのPHSに無事合格の連絡があったこと。
龍也も上野の大学構内に掲示されたその番号を、葵と一緒にこの目で確認したこと。
あれは、一週間ほど前の話。そのまま龍也はバイトに駆け出して行ったことも思い出す。

その時彼女は、合格したらPHSを持たせてもらえると語っていた。

「PHSか?携帯にしろよ」
「携帯電話にしたら龍也先輩とメールできるの?」
「できねーと思うぜ……」
「先輩はずっとこのまま?」
「ああ、こわれねーうちはな」
「こだわりないので、メールもできるほうにします」

電話番号は一昨日あたりにかかってきたTELで聞いた。
母親に通話料を払ってもらう身分だからか、一日にあまり通話はできないと語る。そのぶんこっちから電話してやろうかと気遣うと、今からショートメールの勉強をするのだと、やたら得意げに宣言した。

そう言った葵から、ようやく今しがた、メールが届いた。

こちらから送ってやってもかまわないが、そもそも龍也もショートメールには慣れていない。

やっと届いた葵からのメールに、「OK」と、簡素な返信を返す。
龍也の無骨な指先では、ボタンを連打し難いことこの上ないうえ、簡素な文字だけでやりとりするメールというコミュニケーションは、不得意だ。電話もそもそも得意ではない。かといって顔をつきあわせて語り合うときに、葵の想いをすべて汲んでやれて、あの子ののぞむ言葉をすべて与えられているわけがないのだが、体温やかおり、生の声、そして大きな瞳を、この目で確かめながら語るほうが、幾分かラクだ。

そのとき、電子音が響く。

「英語のだしかたがわからないので勉強します」

葵から、そんな一文が帰ってきた。

カタカナの文章をこうして解読するのが、そもそも面倒くさい。
そして、この文章に返信しようもない。

PHSを放置して、昼食づくりにとりかかろうとしたとき、もう一度それが龍也を呼ぶように鳴る。

葵かと思えば、真里からのメールだ。
いわく、目をかけていた野良猫にこどもが生まれただのとのたまっている。
こんなショートメール、無視をするに限る。そういえば真里は、自分で事業をおこすためにバイトざんまいだと語っていたが、今もそうなのだろうか。くだらないメールをいれてくるくせに、彼の近況の詳細はわからない。メールなどというしろものは、こうして断片しかつかめぬところが気にくわないのだ。


そして、もう一度PHSが鳴った。

台所に向かおうとしていた足がいちいちさえぎられる。
ほうっておけばいいのだが、葵からかもしれないうえ、生来律儀な性分の龍也はどうにも、目の前にあることを放置して他のことにとりかかることができないのだ。

誰かと思えば、それは須王からのメールだった。

ひとこと、ニンジャ火ぃいれねーならよこせとのこと。

それは見慣れた文面だ。こいつは暇さえあればこんなことばかりメールしてくるのだ。

あいつが出場するレースは、スポーツ専門チャンネルで放送されているはずだが、このアパートでは受信できない。今シーズンの第一戦は今月末であっただろうか。部屋の隅に積み上げているバイク雑誌が視界をよぎった。こまめに応援してやる義理もないと内心思ってはいるのだが、あいつのレースは何度も生で観戦している。葵を連れて、サーキットで観戦デートをしたこともあるのだ。


そこへ、3度目の電子音。いいかげんにしやがれ。どいつだ。デブ崎か、清美ちゃんか、あるいは夏生か都筑か、真里を介して知り合いになり番号を交換した鳴神か。こいつは、意味のないメールは送ってこないうえ、酒癖も悪くなく、感じのいい男だ。それ以外の縁があることも高校時代から知っていた。あるいは鳴神を介して番号を交換した横須賀の緋咲か。こいつは年下扱いすると、面倒くさく拗ねる男だ。優秀なヤツだが、扱いも難しい。まぁ、根がクソまじめで潔癖な人間であるので、付き合いやすいことは確かだ。あるいは緋咲を介して番号を半ば押し付けられた、建設会社勤めのヒロシかキヨシか。こいつらと飲むと後に引く上いちいち騒がしいので、なるべくカンベン願いたい。そういえば鰐淵からも一度メールが届いたことがある。一体全体どこのどいつた。
龍也が厳しく舌打ちしたとき。


「すきです」


いたずらメールかと思いきや、差出人は、葵だ。
葵からの連絡だけ、音を変えたりできないものか。

そしてこの文章は、からかいか。いや、冗談の下手な子だからそれはないだろう。

その言葉は、あの頃、熱く生きていたころ。
目の前のものを守るだけで、
目の前のものを信じることだけで、
憎んだものを否定するだけで、
拳を固く握りしめるだけで、精一杯であったころ。

あの二度と帰らぬ時間のなかで、葵がぽつりと、生をふりしぼって伝えてくれた言葉だ。


「四年前にきいたぞ」

そう返事を打つ。

「わたしもおぼえてます」

濁点を打ちまちがえたらしく、ぼがほになっているが、解読は適った。

龍也が、ショートメールを使った雑談をとめたとき、もう音が一度鳴る。


「だいすきです」


ハズカシー奴だな……。

そうして呆れながらも、龍也は最近覚えた保存機能で、そのショートメールを保存した。
これだけではもったいない。
すべてを保存しておくか。
葵からのメールにかたっぱしから鍵マークをつけた瞬間、液晶画面に、電話番号と葵の名前が表示され、コール音が鳴りはじめた。

ボタンを押して送話口を耳に当てると、葵のせっぱつまった愛らしい声がとびこんでくる。

「龍也先輩!今の消してくださいね……!」
「あ?」
「消して!」
「オレもだっつってよ、返事するとこだったんだぜ?」
「……先輩……高校生のときは、こんなにさらって……言ってくれなかった……」

そうだっただろうか。
言っていたつもりだが。

気を取り直した葵が、龍也に尋ねる。

「ちゃんとメール、おくれてました?」
「ああ。でもよ、あれも一通いくらかかかんだぜ?」
「え!!ただじゃないの??」
「説明書1から読め。ったくよ、春から芸大だろ」
「読みます……。わたし世間知らずですね……こんなじゃ思いやられますね……」

さぞわかりやすくしょんぼりしているのだろう。
電話越しに、あのちいさな頭が項垂れている姿が龍也の目に浮かぶ。
電話を耳にあてながら台所に移動して、炊飯器を開けた龍也が、葵を気遣う。その中は空っぽだ。

「なんかあったらすぐゆってこい」
「ありがとうございますー……でも先輩も忙しいですよね」
「葵ん相談乗ってやるくれーの余裕ぁあんぜ。何でも言え」
「ありがとーございます……受験のときもいっぱいメーワクかけたのに……」
「オレもだっただろ」
「そんなことないですよー」

20歳と18歳。2歳の年齢差は大きい。

どちらかの人生が落ち着けば、どちらかの人生に岐路がおとずれる。
どちらかがゴールすれば、どちらかがスタートだ。
しかし、スタートもゴールもおなじこと。
目の前のことを、ひとつひとつ丁寧にクリアしていくだけだ。

そうして繰り返していった未来。
今この瞬間。
あの冬の海からはじまった時間は、今もこうして、春の陽気のなか、いとおしく続いているのだ。

基本的に用件だけで電話を切ってしまう龍也は、いつもより長く葵と会話をつづけてやる。
葵は人並みに、恋人とかわす電話が好きであるようで、龍也とも楽しく話し続けている。

「これからの子たちって、メールで告白するようになるのかな?」
「今みてーにか」
「……あらためて、こくはくしました……」
「消さねーからな」
「消してー……。でもね、わたしいつも、こーやって思ってます」

龍也が、一呼吸を置く。
お湯を沸かすために、やかんに水をひたしはじめた。
そういえば、葵が受験期間に入って以来、葵がこの部屋に遊びにくることはあれど、泊まりにくることは随分減った。大学に進学すれば、そんな機会も増えるだろうか。しかし龍也とは違って専門教育を受ける大学だ。練習もあるだろう。
なかなか自由はかなわないが、一途な声を信じていれば、これまでと変わらぬ愛を育てていけると思っている。

「あの日からずっとです」
「ずっと、何をだよ」
「だ、だから、ショートメールで言ったこと!」
「いろいろメールきたぞ。どれだ」
「…………す、すきです……ずーっと……」
「オレもだよ」
「……」
「そやって返信するつもりっつっただろーが」
「……」

PHSの向こう側から、くすんと鼻をすする音。
泣き出しはしないだろうけれど、葵は、感極まって言葉をつむげないようだ。
ペラペラとしゃべりつづけるような子ではないが、己のそばで、何かと語り合っていたがる子。
龍也はひとまず、会話のリードをとってやる。

「ま、なんでもいーけどよ、テメーん顔つきあわせんほーが、オレぁやりやすいかよ」
「龍也先輩はそうだと思った。わたしもそうです」

葵が、軽く呼吸した。そして、澄んだ声が龍也の耳元に、あたたかくすべりこむ。

「だから」

龍也は、コンロの火を起こそうとした手を、とめる。

台所の狭い窓からかすかにさしこむ、3月のやわらかい光が、龍也の無骨な手もとを照らす。
オイルのにおいも漂わない。
あの頃のように、切り傷も擦り傷もない。
たばこのにおいがまとわりつくのは変わらないけれど、ペンを握り、本を繰り、葵の髪の毛をやさしく撫でる、大きな手。

「龍也先輩、お出かけしませんか?」
「ああ、今日ぁヒマだぞ、どっかいくか」
「桜です!」
「まだ三月だぜ……?でもよ、4月だと葵疲れんべな?」
「大岡川!!早咲きの桜があるんです。受験終わったら、龍也先輩と一緒に見に行きたいって思ってたの」

弘明寺、桜木町から野毛を流れる川沿い。
たしか、龍也が高校3年、彼女が高校1年の春も、龍也と葵は、ふたりで歩いたはずだ。
その後も歩いたが、そういえば、ふたりで歩いたのは弘明寺近辺だけ
もうすこし歩いてみれば、また違う光景があるのかもしれない。

「久々にニンジャ火ーいれっか……。家だろ?行ってやろうか」
「家じゃないです!」
「あ?」
「もーすぐ、先輩んち!」

葵のもとから、アパートが見える。

龍也の部屋の窓からは、まだ彼女の姿は見えない。

PHSの通話がぷつりと切れる。

古いアパートの金属の階段が、上品に音を立て始める。

かぎがくるりとまわり、龍也の無骨な手がノブを引いた。

3月のとろけそうな光が部屋にさしこむ。
そして、二階の廊下の入り口。古い階段から、葵のちいさな体がのぞいた。

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