「小春、傘持ってきたか?」
「折りたたみ傘、リュックの中に入ってます」
タッセルでとめたカーテン。
カーテンをひとつ開けてもまだこの部屋を外界からさえぎり続ける遮光カーテンの曖昧な刺繍の向こう側に、ねずみ色の空がのぞいている。
この部屋をおとずれるまで、光が道路を支配したり、その光はあっさりと覆い隠されたり、どうにも右往左往しながらぐずりつづけていた天気はとうとう、決壊してしまった。
緋咲の暮らす部屋のベランダにも、線の細い雨がひっきりなしに降り注いでいるようだ。
小春が帰る時分になっても、これはきっと、やまないだろう。
膝の上にクッションをかかえて、ガラスのテーブルにひじをつき、小春は、遮光カーテン越しの窓の向こうのねずみいろの空をじっと眺めてみる。
小春のすぐそばのソファに体をしずめ、長い足を組んでいる緋咲は、小春と同じように空を眺めてジョーカーの複雑な味を楽しんでいる。
部屋のなかには、緋咲のすきな音楽がさきほどまで流れていたけれど、いつしかぴたりとやんでいた。
音楽がやむと同時に、雨の降る音がはっきりと聞こえはじめた。
雨はこのデザイナーズマンションをひとしきり叩いたあと、今はただ、しずかに降り続けている。
ガラスのテーブルの上には、からになったマグカップがふたつ。
新しい飲み物をつくるのは、いつも緋咲の役目だけれど、今日は、小春はこれだけで十分だ。
緋咲も、どうも同様であるようだ。
小春がもってきた手みやげの焼き菓子は、緋咲もひとつだけ食べてくれた。
だけれどほとんど小春ひとりで楽しんで、それもきれいに片づけられた。
緋咲は、映画より音楽の気分であるようで、小春の耳にもなじむような、それでいて緋咲ごのみにエッジも利いた、しずかな音楽を流してくれていた。
それも雨に消えてしまって、今は。
今は、このきれいな部屋に、たったふたりだけ。
音もない部屋。
小春は、どれだけしずかでも平気だ。
緋咲と付き合いはじめたころ、この部屋ですごすとき、小春はいたく緊張していた。
こんなにスマートでやさしくて、とても小粋な人のそばで、小春は何ができるのか。
このやさしい人に何をしてあげればいいのか。
楽しい話なんてひとつもできない。
でもいつしか、そのままここにいればいいということがわかった。
緋咲は、それを小春に強要することもなく、言葉で教えてくれるわけでもなく、小春が自分でその結論にたどりつくまで、小春をみちびいて、待っていてくれたのだ。
小春はただ、嘘をつかず正直なままで、緋咲のそばにいるだけ。
それが小春にできることだということを、緋咲はずっと、黙って教えてくれていた。
それにしたって、こんなに静かな昼下がり。
蛍光灯の光が妙に明るく感じて、クッションをぎゅっと抱きしめて天井をみあげると、まるいわっかのまぶしい光が小春の目のなかにくっきりのこってしまったので、小春は何度かまばたきして光を逃がした。
小春のそんな様を、緋咲のつややかな切れ長の瞳がいつくしむように見つめている。
ぎゅっとクッションをだきしめて、カーペットの上にぺたりとすわりこみ、緋咲の足下に寄り添う。
そんな小春が、ふと口にした。
小春同様、週末、わずかな時間だけおとずれるいとしい静寂を満喫していた緋咲が、己のなまえをよぶ愛らしい声に、低い声で反応した。
「緋咲さん」
「ん?」
それは、緋咲自身でも驚くほど、つやめいた声になった。
小春は、その甘い声をうけとめて、ソファの真横に寄り添ったまま。
サイドテーブルの灰皿にジョーカーをおいて。
緋咲は、長い腕をだらりと垂らして、たばこのけむりをまとった獰猛な手が、小春のちいさな頭をそっとなでた。
緋咲の大きな手にすべてをまかせた小春が、クッションをぎゅっと抱いてつぶやく。
「こーしてると、」
「ああ」
とざされた部屋。
小春がこの部屋で過ごすとき、電話やインターフォンがなったことは、そういえば一度もないはずだ。
いつだってしずかで、緋咲しかいない。
小春が緋咲をひとりじめできて、緋咲は、小春のことだけみてくれる。
そんな世界。
ここは、小春と緋咲、ふたりだけの世界。
「世界に、ふたりだけな気がしますね?」
無機質な空間。
音がひとつもこぼれてこない。
小春の纏う洋服の衣擦れの音、緋咲のソファがしずむ音。
ダンヒルのライターが火をうむ音。
たばこの先端が燃える音。
ふたりがうむ音だけしか存在しない、静かな世界。
今はかすかな雨の音も聴こえてくるけれど。
小春の言葉をきき、切れ長の整った瞳をまるくした緋咲が、小春のことを横目でながめいる。
そんな世界があれば。
小春は幸せだろうか。己は幸せだろうか。
だれのことも気にせず、小春を堂々と愛せる世界。
彼女を太陽の下に連れ出せる世界。
そのとき。
緋咲の、非現実な想像をうちくだくように、小春が大きく笑った。
「おおげさだった!」
あのね。
クッションをぽんぽんとたたきながら小春が続ける。
少し、のどが乾いた。
たばこのけむりがからんだのどを、緋咲が何度かせきこんで整える。
「静かだったから」
だから。
ソファにぴったりとくっついた小春が、カーテンの隙間からのぞく相変わらずの曇り空をみあげて、あまりにはればれと言ってのける。
「緋咲さんと、ふたりだけってこと、すごく実感しました」
両手をくみあわせて、細い腕を前方にやった小春がおもいきりのびをする。
そして、勢いでほどけた両手。
ちいさなその手を、だらりとソファからたれていた緋咲の手が、そっととる。
うろたえることなく、手を緋咲にあずけた小春が、澄んだ声でつづけた。
「音楽流れてるのもすきだけど、しずかなのもいいですね!」
この世界に、ふたりぼっち。
だとすると、もう敵はいない。
守るものはこの子だけ。
その世界には、オレと小春以外誰もいない。
小春と、オレと、FXだけ。ギターがあってもかまわないか。
ロマンチックで、そして、それはすこし残酷だ。
緋咲が冗談めかしてつぶやく。
「このままふたりでよ」
「ふたりで?」
「どっか、いっちまうか?」
この静かな城から、小春を連れて出られることがかなう日は、緋咲にとって、まだ遠い未来だ。
首をかしげてクッションをぎゅっと抱きしめ、しばらく考えた小春が言ってのける。
「……あさって、遠足あるから……」
小春のリアリティあふれる答えに、緋咲がたばこくさいためいきをついて、ふっとわらった。
ふたりの手が、マイペースに離れる。
同時に、緋咲がソファから体をおこした。
緋咲は、カーペットの上にぺたりとすわりこむ小春の真後ろにどさりとあぐらをかき、小春の細いからだを、広い胸のなかにひっぱりこんだ。
背後から小春を抱きしめながら、緋咲は、彼女のあいらしい耳元で、小春をからかう。
「遠足ってよォ……小学生かよ」
「遠足で横浜いくから、おみやげかってきますね」
「ケッ、ハマか」
「緋咲さん、けっとか言わない」
「横須賀で遊べ横須賀で」
「遊びじゃありません、校外学習です」
得意げに言ってのけた小春に、ハマのどこなのかたずねる。
めぐるコースは細かいようだ
開発途中のみなとみらいの社会科見学が主であるようで、小春が社会科教師から聞きかじった情報を得意げに緋咲に教えてみせる。
そのあたり、とくに突堤のことであれば緋咲も熟知はしている。
「ね、緋咲さんとわたししか知らないことって、ありますよね?」
「ああ、そうだな」
「そーいうこと考えるとね、ひとりぼっちじゃなくて、ふたりぼっちでいられるんだなって思うの」
小春が、さきほどの想像の続きを連ねてみせる。
「わたしが知らなくて、緋咲さんだけが知ってることもありますよね?」
この問いかけは、緋咲にとって、少しあやういラインをさまよう問答かもしれない。
それでも、小春は凛と続ける。
「でも、それは、ひとりぼっちじゃないんですよ」
からになったマグカップ。
さきほどから、喉にまとわりつく煙で少し声をかすれさせている緋咲に、あたたかいものでもいれてあげたい。
「ちゃんと、ふたりなんだと思います」
「小春が知ってて、オレがしらねーことぁあんのか?」
「あります」
「……」
とたん、緋咲の厳しい眉間に露骨に皺がよれど、この体勢の小春がそれをさとることはない。
昔の男か?
こんなに純粋なイキモノに、そんな過去はあるのか?
自分の過去を棚に上げた緋咲が悶々と思案をかさねていると、小春がけろりと伝えた。
「わたし、部活やってます!」
今まで緋咲さんに言ってなかった!
「……ぶかつ?」
「何部かはー、まだ内緒です」
教えろ。
緋咲が小春の頬をかるくつまむと、おひえない!などど、さ行をちゃんと発音できないまま、小春がつんと言ってのけた。
ぎゅっと抱きしめると、身体を軽く緊張させた小春が、おずおずともう一度頭をあずけてくる。
「ふたりぼっちか」
「そーです、別々の場所にいても、ふたりぼっちになれます」
何の根拠があるのか得意に断言する小春の目元にキスをおとして、緋咲は、雨につつまれた静かな部屋で、小春のことを抱きしめ続ける。