小さなシルエットが、龍也の背中をとことことついて歩く。
龍也が、5歩もあればかけのぼってしまえる階段を、その小さな子は、1段ずつ慎重にあがりゆく。

「葵」
「はい!」

振り向いた龍也が、彼女の名前を短く呼んだ。
背の高い龍也をみあげてきまじめに返事する龍也の恋人、葵は、斜めにショルダーバッグをさげたうえ、小包大の段ボール箱をぎゅっと抱えている。

その不審な段ボール箱のなかにおさめられているのは龍也のものだ。
ずいぶん重さがあるそれを、葵はあらためてぎゅっと抱え直す。

「重いだろ、返せ」

龍也はもうすぐ、アパートの二階にたどり着く。
葵より三段うえから、長い腕を葵に伸ばした。

龍也をまぶしくみあげた葵が、得意げな顔で段ボールをぎゅっと抱きしめる。
かえさないつもりだ。

龍也のととのった口元は、一見厳しくみえる。ただしそこに、葵にたむけたやさしさが、ほんのわずかににじんで見える。
葵にだけわかる優しさだ。

すいぶん慎重に金属の階段を叩く足音をさきほどから耳にしていた龍也が、とうとう懸念の声をあげたのだ。

「……」
「龍也先輩、わたし運べますよ!」
「……あのな葵」

葵が、ぎゅっと抱え込んでいる段ボール。

そこにおさめられているものは、龍也が手に入れたパーツだ。
持ちたいと願った葵が無事ここまで抱えてきたそれ。
仕事を果たすまで、あとはこの階段をのぼるのみ。

「……」
「大事に運びます」
「……オオゲサだぞ……?」
「これ、すぐにつかわないんですか?」
「明日ガッコでいじるんだよ」

葵の靴は、おろしたて。

すたすたと階段をのぼってゆく龍也は、気づくことはなかった。

葵の靴が、葵のちいさなかかとから、歩くたびにすぽすぽと脱げがちであることを。

意外に強情な葵に根負けした龍也が、あきれをあらわにして向き直る。
そして、龍也の大きな足は、階段をのぼりきり、アパート二階の廊下をふみしめた。

その大好きな背中を追いかける。頼れる背中をめざして、葵の足が逸りはじめたとき。

そのくつが、古い階段にひっかかったとき。

あっ、と、葵がちいさな悲鳴をあげたとき。

龍也が彼女のそばにかけつけ、葵を助け出すにはおそかった。



すっぽりと脱げてつまさきにひっかかり、階段をかすめて葵の身体を倒すこととなったその靴は、ふたたび葵のかかとにけろっとおさまった。
しかし、その靴が傾けた葵の身体が元に戻ることはない。

小ぶりな段ボールを片腕でおもいきりぎゅっと抱きしめる。
受け身より段ボール。
そんな捨て身の葵の右肩が階段にやや大きな衝撃とともにぶつかった。

自由であった片腕で、金属の階段からおくられる衝撃をこらえるために手をつく。
ざりっとはがれる錆、土のあと。
そして、葵の手首、突起の真上が階段にこすれたことにより、ずるりとむけてしまった。

ガタガタと響く衝撃音。

「あ?どーし……」

龍也が、背後で起こった一連の出来事をようやく悟った。

眼下には、階段にぺたりとたおれこむ、龍也の恋人。

「葵!!」

龍也の、切羽詰まった叫び声を浴びた葵が、またも得意げに顔をあげた。

「大丈夫か?」

龍也の懸念の声など、何のその。
そして、さびや土にまみれた体で、懸命に叫んだ。

「守りました!先輩のもの!」

小堤を抱えていそいそとたちあがった葵のこぎれいな洋服はあちこちさびだらけ。手首あたりからからとろとろと血液を垂れ流しながら、ダンボールに厳重につつまれたパーツを龍也の前に掲げた。

龍也の長い腕は、葵にあっさりとどく。
腕一本で葵をつかみあげ、あっさり抱き上げ間近に抱き寄せた。
初めからこうしていればよかった。
いまだ小包をぎゅっと抱えて、洋服を汚し、軽いけがを負ってしまった葵のことを片腕ひとつで抱きしめた龍也が、ほとほと疲れ果てたため息をついた。


葵を部屋にまねきこみ、ひとまず、さびだらけのカーディガンを剥いた。
カットソー一枚のやわらかな体をさらす葵は、龍也にされるがまま。
葵が守り抜いた段ボールは、テーブルの上に置いてある。

カーディガンの汚れをはらいのけてやり、髪の毛にもついた錆を丁寧にぬぐいさってやる龍也が、葵に言って聞かせる。

「あのな……パーツっつーのぁよ……葵ひとりコケたとこでどーもなんねーんだ……」
「……そうなんですか……?」

カットソー一枚の葵を、ベッドに座らせている。
スカートからのぞく葵のやわらかい足は、龍也によっていやに入念にチェックを受けた。
さいわい、足には擦り傷ひとつない。

「ダンボールにいれてんだろーが……」
「落としたら危なかったかもしれないですよ?」
「……緩衝材でくるんでんだろーが……」
「丈夫だったんだ……」

葵の左手首には、えぐれたようなキズが残った。
部屋に入るや否や流しに葵の手首をつっこみしばらく水をあびせかけた。
そうした成果により、葵の血液はすっかりとまっている。
ただし、みるからにズクズクとえぐられた傷。
これは、何かで覆わなければならぬケガではある。

葵は絆創膏だけでかまわないと伝えたのに、龍也は、救急箱をあけはじめた。

そして、龍也の部屋のベッドにぺたりと腰掛けた葵の手首をとり、たずねる。

「痛ぇかよ……?」
「ひりひりします」
「これな、中みえてっからよ……ちっと時間かかんぞ……?」
「そーなんですか、でもだいじょうぶです」
こんなとこみるの、龍也先輩だけです。

人当たりが不器用な龍也の手は、ずいぶん器用に動く。
ピンセットにガーゼ。
完全に人任せではなくて自分で単車を弄ることもあるのだから、アタリマエだろうけれど。

葵は、龍也に手首をまかせたまま、その無骨な指が葵をいたわってくれることを観察する。

「手当、はじめてですね!」

そういえば、葵にケガを負わせたのはこれが初めてだろうか。葵は、自分で勝手にケガをしたと主張すれど、そばにいながら守りきれなかったのは事実だ。

己の事情に葵を巻き込んでしまったことが何度もあった気がするが。

怖い目にあわせたこともある。

というより、葵にケガを負わせたことは、あるはずだ。欲が逸るままに押し倒した葵の手首をちからまかせにつかみあげて、捻挫させてしまったこともある。

そんななかで、たしかに、血をながすようなケガはおわせたことはないかもしれないものの。

葵のちいさな傷を、おおげさなガーゼで覆った。

「わー、厳重!」
「葵もよ、オレに手当すんときよ、これくれーかましてくんだろ……」
「龍也せんぱいは、これくらいやんなきゃダメなケガ、ですもん……」

すこししゅんとした葵が、今までのことを思い出し始める。

龍也にケガの手当てを施したことは、数えきれない。

意外にも、はじめてほどこしたのは、龍也とこうして愛をかわしあう直前のことだった。

それ以前にもずっと龍也が傷ついている姿は見てきたのに、あれがはじめてだった。

簡単なケガに大げさな手当てをほどこした龍也の作業は、あっさりと終了した。
葵には、もう、ひりひりとした痛みも、ずくずくと感じる疼きも、ひとつもない。

「終わりました?」
「今日はよ、そこだけよけてフロはいんだぞ、わかったか」
「ありがとうございます…!」

救急箱をテーブルの上にぞんざいに置いたままの龍也が、ひざをついてベッドのうえにのぼった。
そして片腕で葵のやわらかな腰をかかえて、龍也の身体のなかに、一気に引き寄せる。

わっと小さな声をあげた葵のことを、龍也が、背後からぎゅっと抱きしめた。

「龍也先輩、これやってくれるの、ひさしぶりです」
「あー……最近遊んでやれてなかったか……」

龍也の広い胸のなかに、安心しきってちいさな体をあずけた葵の顔をのぞきこみ、龍也がたずねる。

「ほか、ケガねえか……?」
「ないです、足も平気」
「ここぶつけただろうが」

龍也が、葵のカットソーの首元をひっぱり、遠慮なく肩をのぞかせた。
華奢な素材のカットソーはあっさりとのびて、葵の細い肩をあらわにする。
ブラジャーとキャミソールのストラップがのぞき、白い肩をさらされた葵が抗議の声をあげた。

「の、のびる……だ、だいじょうぶです」
「ちっと赤くなってんか……」

衝撃は、葵の痩せた肩に赤いあとをのこしている。
龍也が、そこに、たばこくさいくちびるをよせた。

「やっ!!だ、だいじょうぶ……」
のびるから……もとに……。

葵のけなげな声を聞いた龍也が、葵の肩を解放する。
カットソーの中に収まったからだにほっとして、葵は龍也にあらためて体をあずけた。
そして、手当てをうけた手首をかざした。

「わたしがやる手当よりしっかりしてますね」
「葵にまかせるまえぁよ、てめーでやってたからな……」
「わたしの手当、今まで下手でしたか?」

おそるおそる龍也を見上げて、不安げにたずねる。

そんなこと、オレは、一言でも葵に言ったか。

切れ長の瞳の奥に、自分をみさげるようなことを自分で言うな、そんなことを願う気持ちをにじませて葵をじっと見返すと、葵はちいさくうなずいて、再び龍也に体をあずける。

やわらかな体の感触を楽しみながら、龍也は、葵の耳元でささやいた。

「もーコケんなよ」
「めったにころびません!」
「オレのもん守ってケガなんかすんじゃねえ」
「……龍也先輩は……」

葵の言葉は、そこで途切れる。
龍也が、その続きを補うように、低い声で続けてやる。

「……オレが葵守ってケガしたことあったか……?ねーだろ?」
「そ、そーいうことではないんですけど……」
「てめーでケガしてんだよ。葵が気に病むんじゃねー……」
「好きな人のしんぱいしてるだけです……」

龍也が葵のそばについているかぎり、今後二度と、龍也の敵には、葵のことを指一本ふれさせぬつもりだが。葵が龍也に気をまわしすぎて起こる、こうしたばかばかしい自爆は気がかりだ。

「いいからよ、さっさとこいつなおせ。んっとによ……ここぁヘーキなんかよ……」
「りゅーや先輩、そこめくりたいだけですよね!」
のびるから……。

もう一度、龍也の指先一本でひっぱってみせるカットソー。
そこからのぞくものもあれこれある。
はずかしがる葵のすがたを、龍也が十二分に堪能する。

葵が、テーブルの上をゆびさした。

「部品……」
「いいか、大事に扱ってんのぁいーんだけどよ、もーあんな大げさなことするな」
「……迷惑かけてごめんなさい……もう、先輩のバイクのものに、さわらないので……」

しゅんと反省してしまった葵の髪の毛に龍也がそっとキスを落とす。
そして、根気強く説明を続ける。龍也はいつだってこうして、葵と真面目に向き合ってくれる。でも、龍也の真面目さと、自分のからまわり。すぐには自分自身を向き合うことができない葵が、しょんぼりとうなだれはじめた。
龍也の真面目な声が、葵に真摯に伝える。

「オレが言ってんのぁよ、そこじゃねえぞ、わかってるか?」
「は、はい……」

悲し気にうつむき、時間を置いて、情けなさと恥ずかしさにさいなまれはじめた葵の耳元に口をよせて、龍也は至って真面目に伝え続けている。

「アイツもだいじだけどよ」

龍也がゆびさすものを、葵もじっと見つめる。
そして龍也は、葵のことを体におさめて、実直に述べた。

「オレが大事なのは葵もだからよ」

単車のことと葵のこと。どちらが大事かなんて、葵にはとてもきけない。
そんな疑問の答えより、龍也の温もりをこうして感じて過ごすことのほうが葵にとって大切だから。

「気をつけます!」
「ああ、せーぜー気ぃつけろ……」
肝ひぇんからな……。

葵の手首をとり、手当した傷口に、龍也がそっとキスをおとす。

あれはどこにつかうの?なんてたずねる葵に、龍也が、かみ砕いて説明をしてやる。
わかっているのかわかっていないのか、すんだ瞳でふむふむとうなずく葵のことを抱いてやりながら、ふたりの穏やかな時間は、静かに紡がれる。

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