"龍也先輩、わたし、先輩と一緒だったらどこでもいいです"


今そばにいる葵は、あの時そう告げたあと、大失敗をしでかしたといわんばかりに顔色を変えて、


"どんなところでも、楽しいです"


小さな声で、そう訂正した。

そのとき龍也にからんでこようとしたのは、どうみてもいい年をした中年男性三人組。
かたぎにもなれず、その筋の者にもなれないものども。
これ自体はいたってよくあることだ。
龍也の場合、制服や特攻服を脱いで私服で気ままにオフを過ごしている際に、同年代の不良少年や族に目をつけられからまれるより、目上の者に一方的にやっかまれて引き起こされる小競り合いのほうが頻発しがちである。

そして、好むと好まざるにかかわらずこうした事態が引き起こされた際、葵を連れていると、彼女を巻き込んでしまう危険性もある。


"あれから、男の人の怒鳴り声が怖い"


いつだったか、そう言った彼女は、このとき、青ざめた顔で龍也の腕をぎゅっとつかみ、たしなめようと試みていた。兄で慣れているのか、物騒な風体の男を見ても平然としていた葵は、いつしかこうして龍也以外のその筋の者におびえがちになった。あの日、絡みつかれた恐怖によるものだろう。
結局これは、さほど騒ぎにならずにすんだけれど、無駄に自分の責任のように感じた葵が訴えたのだ。龍也先輩と一緒にいられればどこでもかまわないと。


「大丈夫か?」

葵の髪の毛を丁寧に撫でてやりながらそうたずねると、葵は何度もうなずく。

あんな雑魚、龍也にとっては多少かすった程度。明日にはもう忘れている。
葵のことから注意をそらし葵を守ったうえ撃退することなど容易なのだが。

それでも、葵が、龍也への気遣いのほか、彼女のなかにおびえや恐怖があるのなら。

外へ連れてゆくこと、単車に乗せることもあれど、あれから比較的、お互いの部屋でふたりですごすことが増えた。

そもそもさほど体力にすぐれているわけでもない葵を、こうして快適な部屋のなかにおいて、そばで過ごすのは、彼女に最適なことなのかもしれない。

狭い部屋で龍也にぴったりとくっついている葵は、出歩くより明らかにほっとして、リラックスしてすごしている。
龍也は龍也で、夜の町でさんざんあばれた翌日に葵に会ってやることが多い。
そうすれば龍也とて、こうした逢瀬のほうが安上がりであり、便利、そしてこのほうが何かとやりやすく、このほうが面倒ではなかった。


そう、今日も、さんざん暴れ抜き暴走りぬいた夜を、明かしたばかりだ。

龍也の体のなかにのこるのは、熱、暴力のあと、そして、一抹の、曖昧な感覚。


龍也の部屋のベッドの上にちんまりとすわりこみ、龍也の腕に抱かれて、そばにおとなしくよりそう葵は、さきほどから、どこか焦点のさだまらぬ瞳のままである龍也のことを、ちらちらと気遣っている。


"暖房、あついかな?"


リモコンは龍也の分厚い体の向こうがわ。
葵にとって、このあたたかさはちょうどいいけれど、龍也には快適とはいえないかもしれない。
しかし、そっと寄り添ったまま体温をたしかめてみても、龍也の体に熱はない。適度な体温だ。

ベッドのヘッドボードにおいた灰皿に、たばこの灰を落とすことだけは忘れていないようだ。その無骨な手も、慣らされたまま動くのみ。

龍也の精悍な腕は、葵の肩をしっかりと抱いているものの、その力はどことなく、虚脱もある。

龍也のそばにそっとくっついて葵が読んでいた本は、とうに終わっていた。
何度読み返してもおもしろいけれど、ただ今は、けして文章を何度も味わっていたわけではない。龍也のそばに寄り添ったまま、龍也のことを慎重に確かめていただけ。

龍也の腕におとなしく抱かれた葵が、じっとしていることに飽きてぴくりと動き始めると、いつもであればすぐそれに気づくのに。

少し身じろぎしてみても、気にしていない。
このまま龍也の腕からぬけだしてしまえそうだけれど、そんなことは、したくない。

ちらりと龍也を見上げてみる。
龍也の切れ長の瞳は、どこか、立ち止まっているようだ。
落ち着いた瞳が、何かをみつめている。そこを追いかけても、ブラックアウトしたテレビしかないのに。

読んでいた文庫本をベッドの上にそっとおいた葵は、龍也の顔をのぞきこんでみる。

でも、龍也が葵の行動に気づくことはない。

つまらないのかな?
なんて、後ろ向きな思考が葵のなかを飛び交えど、この目をみせる龍也は不機嫌な龍也ではないことくらい、葵はわかっている。

どこかへいってしまいそうな目だ。

葵が一番すきなデートは、こうしてふたりで、しずかな部屋で、穏やかに過ごすこと。
こうしていれば、龍也は誰にも傷つけられないし、誰のことも傷つけない。
やむを得ず傷つけることも、好奇や揶揄の目に傷ついてしまうこともない。
そしてこんな状況は、葵のわがままが生み出したものなのかもしれない。葵はそう考えている。
葵はこうしているだけで幸せだけど、龍也は同じじゃないかもしれない。
エネルギーが体に溜まってゆくだけかもしれないし、そもそも、龍也は傷を負うことなんて何も怖くないのだろう。怖いのは葵だけ。
そんな葵のわがままに付き合って、静かに過ごすことは同時に発散できないことでもある。それはむしろ、龍也を疲れさせてしまうのかもしれない。

不安にかられた葵が、ぺたりと体勢をかえる。

葵の痩せた肩から、龍也の腕がどさりと落ちても、龍也はひとつも気にかけない。

龍也が無意識にたばこを灰皿においたとき。


少しまがっていた背筋をのばした葵が、龍也のきずあとに、そっとくちびるをよせた。


龍也の指先からたばこがころがり、それは灰皿のなかでくるくるとまわってぽとりと横になった。たちのぼる煙は、天井の壁紙を黄色くそめることだろう。

葵のうすいくちびるは、龍也の頬を、きずあと越しにそっと撫でたようなもの。
キスともいえないそれは、それでも龍也に確かなインパクトを与える。

自分で自分の行動に驚いた葵が、すぐにちいさくなってしまった。

そばでちんまりと体をちぢめた葵のことを、龍也は思い切り分厚い胸のなかに抱き込んだ。そんな龍也のことを、葵は見上げることひとつ、かなわない。

龍也の腕のなかにからだをかたくして収まっている葵へ、厳しい視線を落として見せても、耳を赤くして龍也の胸元にぎゅっと顔をうめてしまった葵には効果ひとつない。

「……」
「……」

龍也のあたたかい胸のなかにぎゅっと顔をおしつけた葵が、くぐもった声をあげる。

「……あ!あの、さみしいんじゃないです……」
「じゃあなんなんだ……」
いきなり、よ……。

葵の細い背中をたどりながら、龍也は問い詰める。
葵のかすかなくちびるの感触は、きずごしにあっさりと消えてしまった。

「え、えっと……先輩、元気ないみたいだったから……」
「……」
「こーしたら、元気でるかなって……」
「……」
「不意打ち……」

白状すればするほど、自意識過剰な行動への恥にさいなまれる葵に反して、魂を突堤においてきたかのようなふるまいをみせていた龍也には、年相応のやさしさ、そして年相応のいじわるさが舞い戻ってくる。

龍也の、暴走ったあとの曖昧な感覚は、葵のやわらかなくちびるの感触で、みるみるうちに現実ににひきもどされはじめた。

おびえることもなくこわがることもなく、しずかな部屋でそばに寄り添ってくれる彼女を、置いてきぼりにしていた自覚も、龍也に同時に芽生える。

不安げに龍也をみあげた葵が、おそるおそるたずねた。

「元気でましたか?」
「……」
「どうして元気なかったの?」

少しくだけたことばで龍也に甘えてみせる葵の、かわいらしい額を、龍也が軽くはじいてみせる。葵に、いたみは、ひとつもない。

「ねみーだけだよ」
「……ごめんなさい…ねむいのに……」

妙に申し訳なさげにわびた葵のことを、龍也が抱きしめる。
不安にさせただろうか。そう思いやっても、当の葵も懸念するような仕草はすっかりなりをひそめ、龍也に愛される自信をとりもどしている。
龍也の逞しい腕にしっかりと抱かれた葵が、わんぱくな気色を愛らしい目元にうかべて、ちゃっかりと伝えてのけた。

「龍也先輩、ねむそうじゃないですよ?」
「さっきので目ーさめちまった」
「よかったですね?」

葵の細い背中をしっかりと守ったまま、干すことをさぼりつづけているシーツのうえに軽量な体をどさりと押し倒す。
一度拘束からほどかれた葵のやわらかい体。その手首をおさえつけて、葵の首筋に、龍也はくちびるをすべらせる。葵とちがって、濃厚に。

「りゅ、りゅーやせんぱい……」

葵の白い首筋を、龍也のがさついたくちびるが性急にたどる。

乱雑なキスをあびた葵が、手首の拘束をふりほどいて、龍也の胸元をぽふぽふと叩いて抗議した。

「ちょ、ちょっと……たばこくさい……です……」

小生意気な抵抗をみせる愛らしいくちびるをがぶりとふさぐまえに。

葵が与えてきたキスと同等の軽さで。
葵のやわらかな頬に、龍也はそっとくちびるをすべらせたのであた。

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