少しあけた窓から心地よい風がさらさらと流れ込み、あすかのしっとりとした黒髪がはらりとひるがえる。二階の千冬の部屋で楽しむかおりとは一味違う、やわらかで、あたたかくて、ほっと安堵できるような部屋のかおりとまざって、風は心地よくとけてゆく。

あすかの髪の毛よりずっと軽やかな千冬の金髪は、今日はアイロンで入念にまっすぐに整えられて、彼の冷たい片目を隠している。


いつもとちがうおもむきをみせるあすかの顔を、千冬が、右の瞳だけでじっくりと観察している。

その冷たい瞳をあびて居所のないあすかは、ただすべてを千冬にあずけるのみだ。


ここは、千冬の部屋ではない。


千冬の、母親の部屋だ。


彼女は日中、夜の仕事の準備のため、あわただしく買い出しに出かけている。それは食材であったり、衣装であったり化粧品であったり、様々だ。千冬の母のために酒を配達してきたあすかは、あらかじめ千冬に命じられていたまま、いつもとちがう装い、いつもとちがう準備で千冬の家に訪れた。

そしてとおされたのは、千冬の部屋ではなく、千冬の母親の部屋だ。

ドレッサーの前に置かれている、ボックスタイプのいすにすわらされているあすかは、ひとまず、千冬の入念なチェックを浴びている。


今日は、千冬に、メイクを施してもらうのだ。


そのため、襟ぐりのあいた服を纏って、あらかじめ、自分なりに我流の化粧を拵えているのだ。
千冬の真っ白の指先が、あすかのかたちのととのわぬ顎をつかんで、くいともちあげた。

「……」
「ああ、この色か」

女子高生時代、いい加減に買ってみたベースは、ナチュラルイエローなるカラー。浅黒い自身の肌には合うだろうと、いい加減な算段であった。

それが、このざま。
顔色には透明度というものが失われ、のっぺりとしている。フェイスパウダーは、キャラクターもの。
雑誌で見かけたとおり、笑顔をつくってみたときにあらわれた山部分に安物のチークをおいてみた。
唇は、千冬の贈ってくれたルージュだ。ルージュだけ明らかに浮いているといえる。
目元には単色のシャドウ。これも安物。

できあがったメイクは、どうにもちぐはぐ。けして濃厚にメイクを作ったわけでもないのに、どこか露骨。しかし肌の質感は、自分の欠点があらわれている。

お世辞にも上手なメイクではないだろう。

でも、千冬は、冷たい瞳でじっくりと観察しているだけ。あすかのメイク下手をさっくりと切ってくれるものだと思ったのだが。

あすかは思い出す。千冬は一度だってあすかの誇りを傷つけたことはなかった。ラフで歯に衣着せぬ物言いをみせるときもあれど、それはあすかの心をやわらかくつつみ、あすかをやさしく正しい方向へ導いた。千冬はあすかのことをいつだってひとりの人間として扱ってくれた。あすかの自尊心を大切に育ててくれた千冬は、今も、みっともないこのありさまを笑わずに確かめてくれている。

「鏡向きな」

ぐるりと体を反転させられれば、千冬の母親が愛用するドレッサーの大きな鏡と相対することとなる。火のついていないたばこをくわえた千冬が、それを灰皿に置いて、かわりに布をとりあげる。大げさにメイクエプロンをつけられる。千冬の母親は、ドレス姿や着物姿でメイクする際、これをきちんと使うらしい。千冬や千冬の母親の美しさはきっとそうした繊細な所作から培われてきたものなのだろう。こまやかな努力におもいをはせてため息をついたあすかの頬に、千冬がそっとコットンをあてた。

うーとうめいたあすかの顔から、コットンにふくまれたクレンジングウォーターで、一気にメイクがぬぐわれていく。

「ああ、つよかった?」
「全然。これ気持ちいいね」
「お袋のだからな。オレの刺激つえーからよ」
「勝手に使っていいの?」
「いーんだよ、あいつのなんだからよ」
「よくないよね…今度お酒おまけする」

浅黒い肌は、比較的きめはととのっている。
シンプルなスキンケアのせいか、乾燥は目立つようだ。
クレンジングウォーターでぬぐわれた肌に、千冬がぺたぺたと化粧水と乳液をぬりたくる。はっきりとした瞳を瞬かせながら、千冬の手元を見守っていれば、千冬が、シンプルなフォルムのチューブをとりだした。リッチなシンプルさといった佇まい。あすかは名ばかりしか知らぬブランドだ。

「こっちの色のが似合うよ」

千冬の、きめこまやかな甲にとられたのは、ピンク色の下地。

「これは、千冬さんとか千冬さんのお母さんに似合うんじゃないの?あたし、黒いし…」
「あすか、こっちのほうがあうよ。決めつけずによ、まかせてみな」

千冬がそういうなら、そうなのか。すっかり千冬を信用しきっているあすかが、素直にうなずいて、化粧水でひんやりと温度を失った千冬の指に、肌をあずけた。ドレッサーの上に広がる色とりどりの化粧品。

「これ全部、千冬さんの?」
「半分がお袋の」

千冬の指が、あすかの顔じゅうを軽くたたいていく。
ピンク色の下地は、あすかの顔色にバランスよくなじみ、潤いと明るさを生み始める。

「な、顔色いいだろ」
「すごいね……」

質のいいシャツ越しの手首が、あすかの頬をかすめたので、千冬が軽く謝ってみせた。付き合い始めてから打ち明けてくれたのだけれど、千冬のファッションは一部母親と兼用だという。性別を飛び越えて自分自身を表現してみせる千冬の美意識に、あすかは感嘆するばかりだった。そして、今もそうだ。別人のように明るくなった肌のあとは、ほぼ自前の眉であるあすかの目の上を、千冬がそっとたどった。そして、小さなブラシが毛の流れを整えたあと、ペンシルが器用に動きはじめる。

「眉、ずっとそのままだったよ」
「これくれーかいていいよ」

じっくりと縁どられてゆく眉は、濃すぎやしないか。あきらかにパーツ配置がアンバランスな自分の顔をうまく直視できないが、視力にめぐまれているあすかの眼は、自分自身の現実を容赦なくうつしだす。完成途中の自分の顔。千冬の手によって濃くつくられてゆくそれが、どう変わるのか。千冬にまかせきるしかない。どっちにする?とさしだされたリキッドファンデーションのボトル。あすかが、同じブランドのものをゆびさした。

「千冬さんが今やってるメイクは、あたしがあげたファンデ?」
「そうだよ。もーなくなっちまう……」

千冬の爪は、今日は短くけずりとられている。あすかを傷つけない指先が、あすかの頬を軽く撫でながらファンデーションをのせてゆく。

「オレぁ筆でやるんだよ。でもあすかはこんくれーでいいよ」

千冬がもうひとつのファンデーションも指先にとり、均一であった肌に凹凸をつくってゆく。その色合いの重ね方は、今のあすかには到底習得できないものばかり。魔法のようになめらかにうごく千冬の指先を、あすかのくっきりとした瞳が追いかけている。

「オレのあげたルージュ」
「あるよ、ここ」

あすかが、ジーンズのポケットからルージュを引き出した。
付属していたビロードの巾着におさめられたそれを、ドレッサーの上にコトリと置く。
巾着のなかからのぞいたルージュは、指紋ひとつ付着しておらず、綺麗なままだ。キャップをとってみても、紅筆で丁重にとられた跡がみられるが、ほとんど減っていない。

「キレーだな、つかってる?」
「千冬さん、つかっちゃだめって言わなかった?」
「言葉のあやだよ」

ルージュが必要になるのはまだ先だ。母親のドレッサーの引き出しのなかから、適当なチークをえらびだした千冬が、ブラシの先に大胆に粉をとりあげた。コーラルオレンジのそれを、あすかの頬にそっとすべらせてゆく。ありがちなピンクではなく、こんな色を選べばいいのか。一人納得したあすかがうなずいていると、千冬に強い力で頭を固定された。わざとらしく顔をしかめてみせれば、千冬が愉快そうに笑ってくれた。

「あと何するの?」
「目だけだな。そのままでもいいけどよ」

千冬の指が、あすかの大きな瞳をそっと閉じさせる。質のいいブラシがアイホールを走ったあと、目のきわに濃厚なブラウンが施されはじめた。下瞼を彩る必要はないほど、これだけで充分映える。彼女の目元は、持ち前の輝きだけで十分美しいが、こうしてメイクで自信を与える。
そして、あすかが目を閉じている間、千冬がとりだしたアイライナーは、一筆であすかの瞳を強く彩った。

「こいつぁ自分でやりな」

あすかにビューラーを手渡して、まつげをあげさせる。そして、繊維の入ったマスカラが、あすかのまつげを思い切りあげた。

千冬の母親の愛用している、1本2000円のリップクリームが、あすかのくちびるを入念に覆う。その上から、筆にとられた紅が、あすかのくちびるを丹念に飾った。

「もちっとハデな色でも似合うね、あすか」
「……」

完成した顔。
それは、あすかの想像以上に濃厚で、しっかりと作りこまれていた。
いびつで冴えなくて、これ以上作りようもないと思っていた自分の顔。
あすかがあきらめていたそれは、千冬の手によって、深く、濃く、そして自然に作り直されていた。

「す、すごいね……ありがとう……!!」

自分の顔なのに、そんな賞賛をしていいものか。
照れる顔をみせるあすかに、千冬が腰をまげて彼女の頬にみずからの頬をよせ、しなやかになじみはじめているメイクの具合をたしかめて、彼女を励ました。

「可愛いよ、よろこんでいーんだぜ?こーいうときぁよ」

一仕事終えた千冬が、あすかの髪の毛をくるくると弄び始める。
ただし、ヘアアレンジはあすかのほうが得意なのだ。
千冬は、アイロンでまっすぐにととのえるか、くるくるとウェーブをあてる以外、知らない。

「そ、そうだよね、千冬さんがやってくれたんだから」
ありがとう!

メイク用のエプロンをほどくと、しなやかな首筋と鎖骨があらわれる。千冬が選んだ化粧品は、彼女のもちまえの肌の色にも、すんなりとなじんでいる。あすかは肌の色や輪郭、少し骨ばった骨格に悩んでいるようだが、悩むものは大胆に出してしまえばいい。

「自分じゃできないよ……でも眉だけマネしようかな?」
「ああ、簡単だぜ。全部マネしなくていいからよ、少しずつ覚えな」

あすかが、千冬を見上げて素直な調子でうなずいた。

あまりきれいになってもらうと困るのだが。
あすかの肩口に、千冬の腕がそっとからめられて、彼女の耳元を千冬のくちびるが辿る。そのくちびるを自由に遊ばせるあすかは、千冬の腕につつまれて、鏡のなかの自分を興味深そうに見つめている。

しかし、健やかな自信のもとに、こうして正直に笑ってくれているあすかの姿が、千冬にとって至高のものだ。
小さな古い家の部屋。頼りない壁の向こう側に、自動車のアイドリング音が聞こえる。母親がかえってきたようだ。母親は、このありさまをみて、千冬を叱り飛ばしながら、きれいに飾られたあすかをおおよろこびで抱きしめてしまうだろう。母親にあすかを奪われてしまうまえに。あすかにおくったルージュの上に、そっとくちびるを重ねて、そのまま素直に閉じられる瞳を濃く彩るカラーを、千冬は、しばしのあいだ、味わいつづける。

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