小さくなった消しゴムを、ペンケースのなかに放り込む。
ノートを綴じてある糸にそって丁寧に鉛筆をおいたあすかは、ペンケースのそばに置いていた、オレンジ色のふたが目立つペットボトルをとりあげた。
親指と人差し指で蓋をひねると、かすかな水滴とともに残り僅かになった湯気がたちのぼる。
ペットボトルの飲み口をくちびるにつけて、あすかがひとくちあじわったのは、ぬるくなったミルクティー。
港洛中近所のコンビニが試験販売をはじめた、ホットのペットボトル飲料だ。
さっそくあすかも購入してみた。
それももう、朝からこの図書室にこもっていたおかげで、すっかりぬるくなっている。
ミルクティーの甘みで頭を休めたあすかは再び、理科の問題集に向き合いはじめた。
入試直前の自由登校期間。
図書室は、自習室に様変わりしている。理数科目を重点的に教えるため、理科教師が見守り兼講師として、常駐している。
港洛中の校則では校内への飲食物は持ち込み禁止だが、自由登校期間中はゆるされている。そんな校則を守っているのはほんの一部だ。しかし、あすかは今迄、なにごともなく遵守してきた。校則に左右される生活もあとすこし。あすかが目指す高校は、制服着用以外一切の校則が存在しない。
それにしてもぬるいミルクティーの甘さで満たされて以降、思考のキレまでぬるくなってしまった。
みるみるうちに冷たくなってゆくそれを、もうひとくちのみたくなる。
集中力がきれかけているのかもしれない。
そのとき、図書室の入り口付近で、パイプ椅子に腰かけ腕を組みいい加減に生徒たちを監視していた理科教師の声が響いた。
図書室も、完全なる静寂に包まれているわけではない。すこしのざわつきとともに追い込みの勉強に励む生徒ばかり。教師のその声に、生徒たちのなかで緊張感がゆったりとほどけていく雰囲気が漂った。
そして、教師が呼んだ名前を耳にした瞬間。
ペットボトルをつかもうとしていたあすかは、入り口を注視するほかなかった。
さらさらの茶髪。
短ランの男子。
数日ぶりにすがたを見ることのできた、真里だ。
真里に話しかけられた理科教師が、間の抜けた声をあげた。
「鮎川ァ、どーした。オマエぁランコー受験終わっただろ」
「あすかいんだろ?どこ?」
さっき家庭科室できいたらー、図書室ってゆってた!
「じゃますんじゃねえぞ」
あすか、おまえも休憩とったらどうだ。
見守ってくれていたのか、すこし大きな声であすかの名前を呼んだ理科の教師が、あすかを手招きした。
完全なる静寂がほしい生徒は、自習室として解放されている家庭科室へいくようだ。
あすかも、本当はそちらを選ぶ予定だった。
でも、どこか、息が抜ける空気もほしくて、この雑然とした雰囲気の図書室を選んだ。
それは正しかったのかもしれない。
ペットボトルをつかんだあすかが、がたりと椅子をひいて立ち上がる。
入り口まで足早にかけよったあすかが、理科教師に一度会釈をした。どうも、名簿の下に、スポーツ新聞を隠し持っているようだ。
そして、真里。
わずかに会わないだけで、少し精悍になっただろうか。
全身の輪郭から、強いエネルギーがみなぎっている。
こういう真里は、真里と同じクラスになったことがある生徒は皆、一度は見たことがあるはずだ。
それでもきょとんとした瞳があすかをとらえて、いつもとかわらぬ裏表のない素直な気色で、笑ってくれた。
「マー坊くん、どうしたの」
「おっつかれー、あすか」
すこやかなボーイソプラノ。
ほっとしたあすかも、つられて笑った。
なるべくほかの生徒のじゃまにならぬよう、入り口付近で、あすかは真里の話に耳をかたむけはじめた。
「あすかこれ……あーー!」
いちゃつくなという理科教師の囃し立てを軽く無視した真里が、小さく叫んであすかの手からペットボトルをひったくった。
最近の真里は、こうして、あすかにとって開放的になった。
ひったくられるときに、真里の短い爪があすかの手をこする。痛みはほとんどないけれど。
「のみたいの?ぬるいよー?」
「あすか捜して走ったから喉かわいちまってー」
あすかの忠告を意に介さず、躊躇なくペットボトルのふたをあけた真里が、思い切り口をつけた。
その潔い飲みっぷりに、間接キスだなんて呼べるような情緒はない。
入り口で持ち場についたまま二人を見守っていた理科の教師が、ひとこといさめた。
「鮎川……人のモン勝手にとるもんじゃねーぞ……」
「うるせーなー。そんかーしあすかにわたすもんがあっから、いいんだよ」
「あーー、もうそこまで飲んだなら全部あげるよ……」
牛乳が強いのみものはにがてだ。かつて真里はそう言っていたけれど、ここまで糖分でごまかされていれば大丈夫なのだろう。ちゃっかりとピースサインをおくった真里が、ごくごくと喉をならして飲み干してゆく。
真里が、ひまわりのような笑顔をさかせて、ペットボトルにかすかにのこっていたブラウンの液体を一気に飲み干してしまった。
あっという間に終わった間接キス。
「ごみ、わたしがもらうね」
あすかが、真里の手からペットボトルをとりかえす。
そういえば、わたすものとはなんなのか。
そう尋ねようとしたとき、真里が、短ランのポケットからボンタンのポケット、はては内ポケットの中まで、両手を使って自分の全身をさぐりはじめた。
「あすかーーちっっと、まってて」
首をかしげたあすかは、真里の不可解な挙動を見守りつづける。
あすかがボンタンのポケットをさぐり、ポケットの裏地までひっくりかえしたとき、粉末がぶわっとまいあがる。粉をまともにかぶった理科教師が呆れた声をあげた。
「きったねえな鮎川……」
「アンコ玉ここにつっこんでたんだよ」
「え、直に……?」
「あっ、こっちだった」
真里の短ランのポケットから出てきたのは、赤いパッケージのチョコレート。
CMでもよく見かけるもの。中にサクサクのウエハースが挟まれていて、さくさくした食感が魅力のチョコレートだ。
「はい、これ」
「??あ、ありがとう…え、わたし何かしたっけ」
「晶がさ、傘いれてもらったんならー、あすかにお礼しろってさ」
「晶ちゃんが…」
「オレが自慢したんだぜ、あすかにおくってもらったっつって」
「あ、ありがとう!!合格祈願って書いてるね!」
「んー、そーだっけ、スーパーにあったやつ」
「バレンタインって書いてるね」
チョコレートがスーパーに並び始める季節だ。
それに便乗し、そのうえで商品名が受験シーズンの購買を煽るしかけとなっている。
男の子からチョコレートをもらうなんて、考えてみればあすかの人生ではじめてではないだろうか。
「バレンタインかー、去年もマー坊くんすごかったね」
「あれ、逃げんのめんどいんだぜ?もー今年ぁガッコいかねー……」
モテんやつはうらやましいなあとボヤいた理科教師も、生徒に理解があるからか、チョコレートはよくもらっているはずだ。
それにしたって、バレンタイン。受験でそれどころではなかった。
「わたし、バレンタインとかすっかりわすれてた。マー坊くんにお礼しなきゃ」
さらさらの茶髪が覆う、かたちのいい頭。
頭の後ろで手を組んだ真里が、けろっとあすかに返した。
「ミルクティー全部のんじまったじゃん、かわまねーよコイツで」
「えーー飲みかけだよ」
間接キスをかわしたそれ。そんなプレゼントではあまりに味気ないが、受験におわれるあすかの頭は、たしかにバレンタインどころではないのだ。
それはそうと。
ふたりを見守っていた理科教師が、足を組み替えて、パイプいすのあしもとに名簿とスポーツ新聞をおいた。
のらりくらりとした教師の声音が、すこし真剣味をおびて、真里にまっすぐむきなおる。
「鮎川、今日は家でおとなしくしろよ。生徒指導に補導されるとよー、もうオレでもかばえないぞ」
理科教師がふたりの話の腰を叩き折り、あっさりと舵を切り替えた。
そして、珍しく教師らしいことを述べている。
中学三年間、こんな注意にはついぞ縁のなかったあすかは、ふたりの会話を見守るしかない。
「おまえまでそーゆーことゆーんだ」
ふたりに甘えるように腕白だった真里の口調に、途端に冷気がこもった。
つまり、理科教師は、教師らしく、真里のいわゆる「非行」と呼ばれる行為をとめたいのだろう。
それにしたって三年間、荒れたところもあるこの中学では、ゆきすぎない限り見逃されてきた行動でもあるのに。
ひとりのおとなとして。
こどもを思いやるものとして、何かが見逃せないところまできているのだろうか。
あすかの心情も、この教師寄りだ。
"マー坊くん、ガッコきまったんだし、もうやめなよ"
そう伝えたいけれど、あすかは違う角度から、真里にうかがってみる。
「マー坊くん、この時期、夜に遊んでたら、寒くない……?」
「単車のってんとよー、ぜーんぜんんなことかんじねーの」
教師があきれたため息をつく。
この年齢でバイクを乗り回していること。
その事実をとがめるより、もっと根っこの部分を正したいのだろうか。
あすかもこの教師も、この校内のなかでは真里の味方だ。
もちろん、真里の味方はたくさんいる。晶に秋生、そして多くの不良少年たち。あすかは口もきいたことはないが、高遠という男の子もそうであろう。
そして、彼らとは別の角度から真里を見守る人たちもいる。あすかは、そのつもりであった。
あすかを盲信するつもりもなかった。同じ目線で生きているつもりもなかった。
でも、真里の味方であるつもりだった。
あすかのそんな思いもつゆ知らず、いつも真里の話に温かく耳をかたむけるあすかの反応に手ごたえを感じられないからか、真里がこどもっぽく口をとがらせている。
「何か、そこでやりたいことがあるの?」
理科教師が、ちらりとあすかを見やる。
もしかすると、不用意だったかもしれない。
「みえそーなものが、あるんだよ」
真里の声が、冷たく光った。
どんぐりのような澄んだ瞳にも、みたことのない光が宿った。
あすかが、真里の瞳をじっとのぞきこむ。
まっすぐみつめても、真里は何処を見ているのやら、つかみきれない。
「今日さあ」
理科教師は真里を呆れた顔で見上げている。
真里が吐き出そうとしているものが、けして特別な何かではないということ。
誰にでも一度はおとずれるものであるということ。
大人はきっと、それをわかっているのかもしれない。
「みたこともないものが、みれるかもしんねー」
理科教師は、これまで幾度も出会ってきたのであろう厄介なこどもを前に、首をひねる。
真里が、自分の言うことに耳をひとまずかたむけてくれる大人に向かって甘えている。
「アッ、オマエ、理科じゃーん?オマエにきいたら意味わかんかも……」
「いっとくけどな、オレあオカルト信じてねぇぞ」
「ケッ、つまんねぇ。やっぱオマエじゃ役にたたねーや」
たちたくもねーがな……。
そうぼやいた教師は、いよいよお手上げといわんばかりに腕を組み、顔をしかめた。
「あ、鮎川くん」
あすかの中から思わずとびだしたのは、かつての呼び方だ。
あすかはあわてて、マー坊くんともう一度呼んで見せる。
何処かわからぬ箇所へ向いていた、真里のベクトル。
それが、あすかのほうへ戻った。
「チョコ、ありがとう。あのね、」
真里に説教がしたいわけじゃない。
でも、ただ。
「見えるものって……どこかじゃなくても、すぐそこにあったり、するよ」
マー坊に、ここにいてほしかった。
当たり前のようにわらっていてほしかった。
手の届く場所にいてほしかった。
この学校で、同い年のこどもたちにかこまれる真里をみていたかった。
「怖いところとか行かなくても、大事なことって気づかないとこにあったりするから……」
つかみこんだチョコレートが、ぱきっとおれた。
「あんま、怖いこと、しないで……」
なんて陳腐な言葉だろう。
そして、ただ不吉であるだけで、中身がからっぽの言葉だ。
赤いパッケージのチョコレート。
ぽっきりと折れてしまったチョコレートを益々握りしめる。
真里の、すんだブラウンの瞳。それが、おそろしいほどに、しずまった。
血走ることも、殺気を湛えることもない。
そして、何かを決めたように笑った。
ボーイソプラノの美声は変わらない。
あすかを脅すような色なんてひとつもない。
「あすかーー、オレ、知ってんよ?そんなこと!」
「……ご、ごめん!よけーなこと……どーかしてたね、しったよーなことごめん……」
「かまわねぇよ?んじゃ、そいつ、お礼だから」
ジュケンがんばってーー。
図書室をあとにした真里が、軽快な調子で廊下の向こうに消えてゆく。
ぼろぼろの上履きが、タイルをたたく音がする。
それはやがて、階段の下に軽やかに消えてゆく。
理科の教師が、あすかのそばに立った。
「おまえは間違ったことは言ってないよ」
あすかの肩をかるく叩き、そう伝えてくれる。
間違いか間違いじゃないかなんてどうでもよかった。
同じミルクティーを飲んだ。
間接キスの記憶を詰め込んだペットボトルが、あすかの手元にのこっている。
そして、あすかの手のなかで、ぐしゃぐしゃにつぶれてしまったチョコレート。
ただ、真里に、ここにいてほしかった。
この日から真里と晶と真嶋秋生は、学校に顔を見せなくなった。
そしてあすかは、翌朝のニュースで、あの雨の昼、真里から聞いた名前を耳にすることとなる。