キヨシ
キヨシの分厚い体を隠すのは、野暮ったいチェックのトランクス一枚。
考えてみれば、どことなく、情けない姿だ。
さきほどまでの、熱と声。
急速にそれらが醒めてゆき、古いアパートの一室に残った汗とからだのにおいに包まれると、ふと我に返る。
うすっぺらい布団の上で、野蛮に鍛えられているけれど、どこか間の抜けたキヨシの半裸。それをさらに覆っているのは、あすかにおくったストールだ。
キヨシの鋼のような体の中にちょこんとおさまったあすかは、かわいらしいのに媚びない下着の上に、キヨシの半袖Tシャツを着ている。汗くさくはない。冬であるし、部屋のなかで過ごしていたからだ。
事後、あすかは、キヨシが脱ぎ捨てたTシャツをひろいあげて、着てもいいか。そんなことをたずねたがる瞳でキヨシを見上げてきた。
ひとしごとやりきった疲労でよどんだ頭でうなずいたキヨシ。
さきほどまで自分をあたためていたシャツが、あすかのことをすっぽりつつんだ。
そして、あすかのやわらかい体を背後から抱きしめたキヨシ。
あすかのさらなる提案により、あたたかいストールが、ふたりの体ごとくるんでいる。
汗やその他いろいろなものにまみれていたあすかのむきだしの肌を、わかしたてのお湯にひたしてすこし冷ました暖かいタオルで、丁寧に拭ってやった。
キヨシはひごろ、あすかに世話をやかれっぱなしだ。そんなあすかは、めずらしく、疲れきった体をキヨシにあずけて、素直に甘えきっていた。
きれいになった体を、ふるぼけた布団で覆ってやろうとおもいきや、あすかは、愛用のストールをとりあげた。
そして、キヨシに抱きしめられながら、ふたりの身体はストールに覆われている。
あすかの身体を守るように抱きしめたキヨシが、肌触りのいい感覚を楽しみながらもぼやいてみせる。
「コイツ、よごれっちまうぞ……?」
「大丈夫ですよ!素肌にふれてもきもちいいでしょ?」
「そりゃなあ……」
高かったからよ……。
あてつけるつもりはなかった。
もうしわけなさそうにちらりとふりかえったあすかに、キヨシはあわてふためく。
「大事に使いますね」
「クリーニングできれーになんべ?」
あすかが、無意識にためいきをつく。
この細いからだは、キヨシの下で、いたく軋み、無理をしていた。
体も声も悲鳴があがっていたその姿が、キヨシはどうしても気にかかる。
それでも、自分の欲望を優先した。
「……寒ぃだろ?」
「キヨシさんがあったかいから大丈夫です」
こうしたのびのびとした返事は変わらないけれど。
あすかの髪の毛を撫でたキヨシがたずねる。
「だいじょうぶか」
「なにが?」
「カラダ……どこもおかしくねーかよ」
力加減がな……。
「もう大丈夫です」
なれぬことと、ひとつの境目をのりこえたこと。
それらがよぶ疲労があすかににじんでいる。
ありありとわかる痕をかくすように、キヨシがあすかのことをしっかりと抱きしめた。
「痛くなかったか」
「痛かったです!」
あすかが、じつに素直につたえる。
この子は、嘘をつかない子だ。
けろっとした調子で、あすかがコロコロとわらった。
「なんか、思ってたのと、ちがうところがいたかった」
「……」
「でも、きっと次は慣れます。キヨシさんは大丈夫なんですか?」
「オ、オレか?オレぁよ…コレもんだよ…」
「ヘーキなんですねー、よかった!」
そののびやかな声音が、弱弱しく消えた。
もう一度ためいきをつき、キヨシの胸板に遠慮なく頭をあずけたあすかが、しずかにつぶやいた。
「キヨシさん」
キヨシの分厚い胸板に細いからだをあずけたあすか。
キヨシは、中空をみつめているあすかの顔を、さらさらの髪の毛のすきまからのぞいてみる。
「キヨシさんとこういうことすること、ぜんぜんこわくなかったです」
「……無理してねーか……?」
あすかはキヨシの気遣いを意に介さず、続ける。
「でも、今、こわいかも」
「こわい?」
すべてむき出しのまま己と向き合ったことで、あすかに恐怖をうえつけてしまっただろうか。
あすかは心の強い子だが、暴力は怖がる。怖いことは怖いと伝えてくる。
ふつうの少女にとって、それはあたりまえのことだ。
「キヨシさん」
あすかが、無垢な願いをのべた。
「ケガしないでください」
「…ケガ?」
「無理もしないで」
「無理なんかしたトキねーぞ?」
「痛いときは痛いって教えてください」
キヨシの腕のなかで、頼りない恰好のままで、いつものびのびとふるまうあすかが突如矢継ぎ早にあびせはじめた懸念の言葉。
すべて、そっくりそのまま、あすかに返したい言葉ばかりだ。むろん、あすかがケンカでキズをつくってくることなどないけれど、キヨシが知らぬ間にこの子を傷つけていることだって有り得る。
「今、わたし、すごく怖いです……」
その声は震えてはいない。むしろ、凛と輝くような声だ。
そんな声で、あすかは、おもむろに不安をつむぎはじめた。
どう声をかけてやればいいかわからない。
すべてが言い訳になるようだ。
キヨシはただ、あすかのことを強く抱き、ストールをきつく巻き付ける。
すると、あすかが、いつもの調子でふわふわと予定を尋ねてくる。
「年越しの時も、年明けもお仕事ですか……?」
「まだわかんねーっつーことぁよー……現場はいるっつーことだな……。休めるときぁ先にわかんからな」
あすかが、口をとがらせてうつむく。挙句、ヒロシさんと暴走るんですね……と、ぼやいてみせた。
「さみしいかよ」
あすかがこくりとうなずき、会話をつむぐうちにすこしゆるんでいたキヨシの腕をぎゅっと胸元にまきつけた。やわらかなふくらみを直に感じたキヨシは懸命に熱を寝かせる。
「さみしいです」
キヨシが、あすかの耳元にそっとキスを落とす。
あすかが、蚊の鳴くような声でささやいた。
「わたし、弱くなりました」
涙腺もゆるんだ……。
そうぼやきながらも、あすかの声は凛としたまま。
そういえば、あすかは、先ほどまで、泣きながらキヨシの責めに耐えていた。
赤く染まった目元が、それを思い出される。
「キヨシさんとちょっと離れるだけで寂しいです」
今まで、ヘーキだったのに……。
こんな願いひとつ、あすかから聞いたことはなかった。
あすかにさんざん甘やかされてきたキヨシは、慰めも弁解も何一つみつからない。丸太のような腕で、あすかを抱くしかかなわない。
「大晦日、友達と初詣いくから、そのとき、キヨシさんのこともお願いしてきます」
「大晦日ぁ!?混んでんだろ、気ぃつけろよ?夜も遅くなんだろ……?」
「6人くらいで行くから、大丈夫ですよ。帰りは、お父さんも迎えにくるし」
「ああ、親くんのか……ならデージョブだな……」
布団の真横におかれたミネラルウォーターに手を伸ばしたあすかが、キャップをきゅっと開けた。口につけて、水をふくみながらつぶやく。髪の毛のあいだからのぞく白い首に、紅い痕がきざみつけられている。歯型をのこすことは堪えきってよかった。血を流させるようなキズは、ひとつで充分だった。
「あと、ヒロシさんのこともお願いする」
「ヒロシ!?」
「ヒロシさんの安全はキヨシさんの安全ですよ」
あすかのちいさな手のなかから水をうばったキヨシ。
キヨシの広い胸のなかで、あすかが指折り数える。
「事故もケガもありませんように」
「来年も、キヨシさんが、ケガもしなくて、友達と一緒にいられて」
「だれのことも、うしなわなくて」
「キヨシさんも、キヨシさんの友達も、みんな元気で」
「いっぱい幸せでいられたらいいですね」
キヨシの胸にぐりぐりと後頭部をおしつけて、子猫のようにあまえるあすかが、すっきりとした表情でわらいかけた。
「オレんことばっかかよ……あすかぁよ、たまにはテメーのことも考えろよ?」
「キヨシさんが痛いおもいすると、わたしも痛いから、キヨシさんの安全はわたしの安全でもあるんですよ」
あすかの続ける、抽象的な言葉。
考えることより痛みや感触で真実をつかみ取る方が得意なキヨシに、眠気を及ぼし始めた。
「どこもいかないでください」
「いくかよ……。まぁヒロシにもねだっとけ」
「そうですね……」
キヨシのいい加減な生返事に、あすかが力なくわらった。
どうか傷つかないで。
どうか、何も失わないで。
どうか、この人から、何も奪ってゆかないで。
あと、今年も一日とすこし。
ひとつのものを喪って、キヨシによって初めての傷をおわされたあすかは、いもしないだろう神に、静かに祈り続ける。
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