夏影
「あっ!!」

キヨシの部屋の片隅に置かれている古いブラウン管のテレビが、ブラックアウトしたあと、波紋のような光をのこして、ぷつんと切れた。

驚いた声を、短くあげるあすか。
無言でゆらりと立ち上がったキヨシがあすかの傍を縫って、テレビに一発ぶちこんだ。

「キヨシさん、すごい」
「いーかげん、限界かぁ・・・・・・?」

古いテレビ画面は、無事、真夏に白煙が巻きあがる、横浜スタジアムをうつしだした。



全国高校野球選手権大会神奈川県予選準決勝。
桐蔭学園高校対日本大学藤沢高校。

桐蔭学園の二年には、スカウトが付きまとっている選手がいる。顔も甘口で、追っかけも大量に抱えているようであるが、あすかは、パワータイプの打者に惚れ込むタチではない。この選手は、テイクバック時の左肩のつっこみ方に特徴がある。何球かボールをみて、甘くはいったスライダーを見事にとらえライトスタンドにたたき込んだあと、悠々とダイヤモンドをまわった。彼が走ると、人工芝にひかれた白煙が舞い上がる。

冷たいお茶が注がれたグラスを、ほっそりとした両手につつみこんだまま。あすかの澄んだ瞳は、キヨシが何気なくつけたテレビ、そこにうつしだされた、白球を追いかける球児に、くぎづけになった。

キヨシには、他人がやっている勝負ごとをおとなしく観戦する趣味など、まるでない。
ただおとなしくすわったまま外野から黙りこくって観戦するより、夜の町へ出て、己が戦うほうが、よっぽどすっきりするのだ。

しかし。
今日は、暑い。
あまりにも熱い。

それに、雑音でしかないテレビ番組を見て時間をつぶすより、こちらのほうがまだましかもしれない。そしてなにより、日頃キヨシのそばでいつもご機嫌なあすかが、輪をかけて楽しそうであるのは、実に結構なことである。

九連勤をこなし、仕事があければ即ケンカという毎日をくりかえした果てに、やっとおとずれた休日は、彼女のあすかと過ごせる時間。
あいにく外をうろついていればビョーキになりそうなほど、暑かった。あすかの体調をおもって、キヨシの部屋にまねくこととした。窓をあけはなして、意外に風通しのいい部屋にながれこむ自然の風をあびて、あすかが持ってきた冷たいウーロン茶を飲みながら、カビくさい畳に、キヨシは、たくましい体をゴロリと横たえている。

そもそもキヨシは、あすかが、こんなものに夢中になるタチだとはしらなかったのだ。たまたまつけたチャンネルに釘付けになるあすかを、うかがうような声でたずねてみる。

「・・・・・・」
「ああ、今の打てばよかったのに。もうあんな甘いのこない」
「あすか」
「なんですか?キヨシさん」

グラスをくちびるにおしつけて、液体を、とろとろとのどのおくにながしこみながら。澄み渡った声で返事をしたあすかは、再びテレビにくぎづけとなる。

日大藤沢高校の投手は、オーバースローから三種類の変化球をあやつる。でも直球のスピードが物足りない。しかし、制球がばらつきはじめたピッチャーを、相手打者はこらえきれず追いかけてしまう。

「あすか」
「なんですか?キヨシさん」
「こんなん好きだったんかよ」
「好きです」

からになったグラスをげっ歯類の小動物のようにかかえたまま、あすかは、きっぱりと答えた。

「親の影響です」

高校野球が特別好きだというわけではない。あすかは、もっぱらプロ野球だ。イメージにそぐわないと評されることが多いけれど、関西出身の母親の影響で、地元横浜ではない球団を応援することを刷り込まれ、気づけばそんな趣味嗜好があすかの中に存在していた。最も応援している選手は、二軍の片隅でヘルニアのリハビリ生活をおくっている、既婚で子供が四人いる選手だ。ちなみに、キヨシには全く似ていない。

「キヨシさんは?」
「きょーみねえ」
「ですよねぇ。もう今は、若い男の人が野球観る時代なんて、終わっちゃってるもの」
「好きなトコとかあんのかよ」
「ありますよ、弱いけど!」
この前の無様な負けかたといったら。横浜スタジアムのレフトスタンドで先日味わった屈辱に関して、キヨシに、一部始終の説明をこころみようとしたとき。

「あっ」

あすかが、軽い叫び声をあげた。
あすかの話に耳を傾けようとしていたキヨシも、寝転がったまま、テレビ画面を確認する。

「たっか・・・・・・」

その変化球は、あまりに高すぎる。

「ああ、」

失投は、在京球団のスカウトが張り付いているドラフト上位候補のバットにより、レフト上段へ運び込まれてしまった。これが決勝点となりそうだ。

あすかが、空になったグラスに、ウーロン茶をそそぎこむ。
畳の上に置かれていたキヨシのグラスにもお茶をそそぐと、キヨシがちょうどいいところで制止したあと、礼を述べて上体を起こした。

あけはなたれた窓から、速度の遅い昼下がりの風がゆっくりと流れ込み、あすかの髪の毛をふわりとゆらした。

「……今度よ、ハマスタいくかよ?」
「い、いいんですか?でもキヨシさん、興味はないでしょう?」
「ねーよ……」
「でしょう、興味ない人が観ても、おもしろくないかもしれません」

さきほどの失投で、日大藤沢高校の投手の気持ちは切れたか。画面のなかでは、またたくまに4点が奪われている。

「あっ、でも、おいしいゴハンはいっぱいあります」

みかん氷、しうまいカレーに、ピザにナポリタン、ハンバーガー。キヨシ好みの食事は選び放題で。でも思い浮かべた数だけでは、きっとたりないだろう。がつがつと食べつくす恋人のすがたを想像するだけで、あすかは幸せだ。

「今度行きましょうね!いい席用意しますから」

誘っておいて、退屈せずにあすかに付き合えるだろうか。そんな心配もあるが、まあ食ってりゃいーかよ。そう考えなおして、キヨシは、台所と一体化した和室、そのかたすみの小さな冷蔵庫からアイスをとりだして、包装をぺりぺりと剥がした。あすかにもすすめると、あすかは笑って遠慮した。

気付けば、テレビの中の試合は、10点にもおよぶ大差がついている。大味になりはじめた攻撃をながめながら、あすかが、常々気にかかっていたことをたずねた。

「キヨシさんは、ヒロシさんと、いつもどこで過ごされてるんですか?」
「元町……のよ……」
「えっ!わたしの学校とか、わたしの家のちかく?」
「……元町、の……いや、なんでもねえ」

あの瀟洒な町の裏や、ゲーセン。
とてもではないが、あすかに与えられる情報ではない。

「そうなんですね、意外と近くであそんでらっしゃるんだ」
「ま、ほかにもよ、いろいろだナ……。現場の近所とかよ」
「そっかぁ、現場次第ってこともあるんですね」
「あとぁよ、ま、ヒロシとよ、はしってんな」
横須賀とかよ、湘南もザラだぜ

「そんなに遠くもですか?ヒロシさんと一緒にどこまでもいかれるんですね」

あすかの暮らしは、横浜の山手の、小さな町で賄える。自分の身の丈で足りるものであすかは充分だと思っているけれど、あすかが十数年間で育てたちいさな常識をうちやぶって、どこまでもいってしまうキヨシに、あすかは憧れすら抱いているのだ。

「あすかは、単車のりてーか?」
「うーん、あ、毎年八耐はみてます、よくわかんないけど観ます。でも、わたし、体育ニガテだし。むいてないとおもいます」

切り出した話。のぞんでいた答えとすこしずれた回答があすかから返ってくる。

キヨシは、眉間のぽりぽりとかいたあと、食べ終えたアイスの棒をティッシュペーパーでよくぬぐった。先日、こいつめあてに、扉のすきまからアリが入ってきたのだ。こうしてぬぐっておかないと、またあの日の二の舞だ。

「そーじゃなくてよ、そのよ、オトコの単車のケツによ」
「わたし、キヨシさんと手つないで歩きたいから、歩く方がすきです!!」

それは、やさしいあすかの気遣いなのか、あすかのまっすぐな本音か。
キヨシは、本音であることを信じる。

テレビの中。大差で負けている高校が1点をかえすと、あすかがその勇敢な走塁を心から褒めちぎった。

「でもあの原付はかわいい!あれって、わたしでものれますか?」

アパートの駐輪場に置いてあるパッソル2。真っ赤なそれは、しばらく動かしていない。

「免許センターで一発免許とってこいよ。明後日にゃ乗れんぞ」
「へええー、そんなのがあるんですか。全部、自動車学校でやるんだとおもってた」

サイレンが鳴りひびき、試合が終わった。14-5。桐蔭学園が決勝へすすむ。
涙にむせぶ球児をみても、キヨシの心は動かないし、あすかも、野球観戦を楽しむ場合、こどもの涙よりは、たくみな戦術や技術を堪能したいと思っている。

ふたたびごろんと寝転がったあと少し姿勢を変えたキヨシのほうへ、あすかが扇風機を動かす。

「か、かまわねーよおれぁよ。あすかがつかえよ」
「わたし、家からもってきた扇子があるもの。キヨシさんは暑がりでしょ?」
「窓あけてんからよ、きにすんな」

トートバッグを引き寄せて、あすかは、友人にもらったディズニーランド土産の扇子をはらりとひろげた。そしてパタパタとあおぎはじめる。

続いて、準決勝第二試合。
横浜高校対横浜商業高校。
この高校のエースはプロ志望届を出すのだろうか。あすかが少し気にかかっている左ピッチャーだ。

試合開始前。準備をはじめている真夏の球場。白煙。解説の声。
にぶい風をあびながら、そんなものをふたりして眺めていると、またも画面にスクランブルがかかりはじめる。

「たたいてみてもかまいませんか?」
「あすかじゃ効かねーと思うけどよ」

テレビにすりよったあすかが、上部あたりを、ぽんぽんと叩いた。
いつも、キヨシの背中をつついているように。
その頼りない様が気にかかるキヨシが助言をおくる。

「もっとつよくなぐっちまえよ」
「ええ、気の毒ですよ」

もう一度、愛を込めて、テレビをぽふぽふと叩いてみる。
そうすると、スクランブルはふっと消えて、元通り、真夏に白煙の舞う横浜スタジアムが映し出された。

「あっ、つきましたね」

さすがに、知らない高校生のダラダラと長そうな試合をふたたび観戦する気力は、キヨシはもちあわせていない。

肘をついて畳に寝そべっていたが、扇風機の風をあびながら、キヨシは仰向けにぺたりとねころがった。かびくさい畳だが、背中につたわる冷涼さは、ずいぶんとここちいい。

「あー、ラーメンくいてえ」

ひとりごとのようにつぶやいたキヨシ。
何のあてこすりでもなく、何の主張でもなく。
ただ、本能のままに口をついて出た言葉なのだが、そのぼやきに、あすかがみごとに食いついた。

「ラーメン!」

その言葉を、うれしそうに繰り返したあすか。ちらりとみやったあと、そういえば、先日、ふたりで外でメシをくったときのことを思い出す。
なんと、あすかは、16年間、ラーメンを一度も食べたことがないというのだ。
初めて見たラーメン、横浜家系。とんこつしょうゆのストレート麺を、あすかのとなりでラーメンを飲むように食い尽くしたキヨシに、これはなんですかあれはなんですかと実に素直に尋ねながら、ずいぶん時間をかけて、あすかは幸福いっぱいに完食したのであった。最後の海苔一枚をつまみあげたキヨシの彼女のすがたは、おそるべき甘美のなかにあった。

「ラーメン食べたトキねーとかよ、ウソだろ?」
「本当です、私の家、わりと食べ物のことが厳しくて。キヨシさんとお付き合いをはじめてから、初めてポテトチップスも食べたし、初めてラーメンもたべました。おいしかったなあー」
でも、球場だと何食べても怒られないんですよね……。

一方的に大量得点を獲得してゆく横浜高校。その試合を観ることもなく、あすかは、ラーメンという言葉に、澄んだ瞳をますます澄み渡らせた。

「あすかのメシ、すげーよな」
「すごくないです、最初はぜんぜんできなかったけど、半年くらいつくりつづけて、やっとある程度できるようになりました」

恋人のつくる食事のおいしさ。それをキヨシがほめようとしたとき。

狭い和室に、プツンという音が響いた。

キヨシとあすかふたりして振り向くと、テレビ画面が再びブラックアウトしている。顔を見合わせて、ふたりして困ったようにわらったあと、キヨシが話をつづけた。

「半年もがんばったんかよ」
「飲み込みが悪いんです。人の倍かかるの。だからたぶん、バイクを運転したいとおもっても、免許とるのは苦労するとおもうから」
いまはまだ、いいかな。原付も難しいと思います。

それはともかく!!

テレビの向こうの真夏のこどもたち。その掛け声や金属バット、硬球の音が、消えた部屋で。
あすかはなぜだか、相手の強打者を三振に取った投手のようにガッツポーズをかまえながら、キヨシに提案する。

「ラーメン!たべにいきましょう!」
「……この暑ぃのによぉ……」
「帰ってきたらいっぱいあおいであげますから」
「……ああ、あすかがそーゆーならよ、いくかー」

ラーメン屋から帰ってきたらどちらが勝っているだろう。
キヨシがなぐれば、あすかがたたけば、ねむってしまったテレビはまた起きてくれるだろうか。そして、あの真夏の白煙はまた起こるだろうか。

キヨシが、グラスに残っていたウーロン茶を一気に飲み干した。
あすかもマネして飲み干したあと、ふたりして立ち上がる。

消えてしまったテレビの頭を、あすかがやさしくなでた後、あすかとキヨシは、33度の炎天下に飛び出した。
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