夏影
部屋を、すこし模様替えした。

大きな窓の真下に移動させたキングサイズのベッドから、綿のような雲がちぎれてながれゆく様が見える。
網戸ごしに流れ込んでくる、ここちよい、真夏のそよ風。
雲のむこうがわに、くっきりとした空がひろがり、窓の両脇に乱暴に寄せたカーテンが、静かな風にふわりと舞い上がる。

窓枠につりさげられている風鈴が、折り重なるような音をたてて、すずしげに鳴った。


小春のために、部屋をとざし、小春のために、窓をあけない。
緋咲自身、窓をあけることなどめったにない。
夜に動き、夜に暴走し、日の当たる時間は、おおむね、こんこんと眠り続けているからだ。
かつて、女の家にだらだらと滞在したこともあったが、その習慣は小春と出会ったことを境に、ぴたりとやんだ。

ずっと閉ざされ続けていた部屋。
小春をそばに置くようになって。
この部屋には、こんなに澄んだそよ風が吹くことが、わずかながら、増えているのだ。

もう一度風鈴が鳴る。凪いだ風が、その音を呼んでくる。

小春が友人とともに出向いたという夜店。
色とりどりの風鈴を吊ったワゴンを引く、風鈴売りの屋台があったという。きっと今のように、ワゴンから、幾重にもかさなった音楽が流れていたのだろう。
得体の知れない出所の風鈴とはいえ、妙に品がある音だ。

自分で着られるようになったあの浴衣で。
ちょこちょことそれに駆け寄って、指さして買ったのだろう。そんな愛くるしい姿が、容易におもいうかぶ。
透明色のガラスをそめあげる、紅い藤模様。

「緋咲さんのバイクと同じ色の、さがしたの!でも、見つからなかった」

そんなすっとぼけたことを言いながら。普通の風鈴には短冊がつられ、チリンという風流でシンプルな音をたてるだろう。この風鈴は、短冊部分に、チャイムのようなものが4本ほどぶらさがっていて。それが、あまりにも多層的で、豊かな声を響かせている。

それを己にわたしてきたのは、今、緋咲の片腕を枕に、平和な顔で眠り続けている小春。

そもそも腕枕など、眠りやすいのか。
こんなごつごつした腕より、己の太い腕に比べればずっとやわらかい枕の方がよいだろう。
そう考え、小春の小さな頭のしたから慎重に腕をひきぬこうとしたのがさきほど。
すると、この子にそぐわぬ、気の強そうな唸り声をのどのおくからあげ、緋咲にますますよりそい、あまつさえ、スカートからすらりとのびた白い足を、緋咲の足にしっかりとからめた。

「チッ・・・・・・」

癖のようにとびだした舌打ちで、彼女を起こしてしまわないか、あわててようすを伺ってみると。

「安心しきったツラで寝やがってよ・・・・・・」

何の夢をみているのか。そのくっきりとした口元に、にっこりと笑みが浮かんでいる。
緋咲の腕のつけねあたりに顔をうめて。緋咲がまとっている素材のいいTシャツの袖口が、小春の頬にふれるかわり、小春からさらさらとながれてくる豊かな黒髪。それが、夏風でひるがえる。

小春のほっそりとした腰の上に、タオルケットをかけなおしてやった。

大きな瞳はしずかにとじられて、長いまつげは音もたてずに眠り続けている。

その鎖骨のくぼみ。思い出したくない、そしてこの子に思い出させたくない痕のすぐそばに、乾き忘れた汗が、一滴のこっている。今日は風こそ吹いているものの、真夏の大気がおくりつづける熱気といったらたまったものではない。小春がこの部屋におとずれるまで、さぞ不快な暑気にあてられたであろう。冷房を快適にきかせた部屋で、小春の暑気はすっかりはらわれたと思っていたが、日焼け止めとまざり、白濁したしずくが、わずかに、そこに残る。

今度こそ、この子の頭のしたから、慎重に腕を抜く。

ちいさな頭はもちあげられるが、小春にめざめるようすはない。

そうして、よけられていたまくらを、ちいさな頭のしたにさしこみ。

上質な枕に顔をうめて、小春は今度は、ねぼけ声もあげず、おとなしく寝入っている。

鎖骨にひかるしずくに、つめたい唇をよせ、緋咲がそれをかるくすすった。
苦みと塩気が感じられるそれをのみくだしてみる。

真っ白な鎖骨。
いたいたしいほど浮きだしたそれ。

夏になると、あの痕はかくせないのだ。
いまもひきつって残るその痕に、かわいたくちびるをよせようとしたとき。

凪いだ風。
緋咲の部屋に、夏風がふわりとしのびこみ、風鈴がたからかに鳴った。

緋咲がおろした髪の毛が、小春の頬にふれる。
そのやわらかな刺激にも、小春はぴくりとも動かない。

さきほどまで、緋咲の腕に頭をまかせ、すがりつくようにねむっていた小春。緋咲の方を向いていた体は、ころんとあおむけにおさまった。

風鈴がふれあい、重層的な音をたてる。
それはまるで、音楽だ。



ふわりとやわらかくほっそりとした二の腕をつつむパフスリーブ。そのさきは、リボンのように結べるかたちとなっている。
緋咲のしなやかな指が、そのリボンの先を、そっと引っ張る。
はらりとほどけたリボンが、小春のやわらかな二の腕をあらわにした。

ほどいたリボンをもてあそんで。
どうにも、今日はたばこを吸う気分ではない。
たいくつな指先が、リボンをからめたあと、小春の髪の毛に移動した。

眠り込む小春の傍に、すわりこみ、膝をたてて。
緋咲は、小春の豊かな黒髪を幾度も撫でながら、存外寝相のいいその寝姿を、タオルケットの上から、じっと物色する。

お昼寝の時間に良い子に眠るこどものように。
小春は、他の同年代の少女たちにくらべて、緋咲にはずいぶん無垢に見えるのだ。
ぽってりとしたくちびるのうえに、緋咲のてのひらをかざしてみると、規則正しい寝息を感じられる。
目元に、ぬけてしまった長いまつげがくっついているので、人差し指ではらいのけてやると、小春の愛らしい眉間にしわがすこしだけ寄ったあと、すぐに安らかな寝顔に戻った。


風鈴が、また、複雑な音をたてて鳴り響く。

その音に起こされることなく、小春は、穏やかに休み続ける。


隣に眠ってくれているだけで、かまわない。
これ以上、触れられない
そのぽってりとした小春のくちびるにかみつきたくて、
緋咲が守りぬいた小春の体を、己だけのものにしたい。


すべて本当だ。
他人にくらべて己の精神がやや複雑にできていること。それを緋咲は、16年の人生で、それ相応に自覚している。
ふたたび風鈴が鳴る。
この凪いだ夏風のように、緋咲のなかの獰猛な魂が凪ぐことはあるのか。
そのときは、しばらくおとずれないだろう。
そして、その獰猛なケモノが、万が一にも小春を傷つけそうになるときは。
そのとき、この凪いだ風と、この風鈴の声を思い出してみればいいのかもしれない。

ただし、間違っても、緋咲のなかの獰猛なケモノが呼びよせたものが、小春を襲うことはない。
あの日のようなことは、二度とない。
小春だけは、己の手で守ってみせる。



窓の向こうの雲はいつのまにかちりぢりになった。
水色の空の中にまんべんなくちらばった雲が、ゆっくりとうごいている。

はらりと流れてしまった小春の前髪をかきわけながら。

小春の目元と、聡明な額に、そっとキスを落とした。

すると、小春の瞳が、ゆるやかにふるえ、ぱちりと瞳がひらいた。


「……おはよーございます・・・・・・」
「まだ休んでてもかまわねぇぞ?」
「せっかく、緋咲さんとすごせる日だったのに」
「あ?」
「こんなに寝ちゃった・・・・・・。・・・・・・緋咲さんは寝てたの?」

タオルケットを胸あたりにかけたまま。
起きたすがたのまま、大きな目をこすりながら、小春は緋咲にたずねる。
あの特徴的なたばこのかおりもしなければ、緋咲がうごきまわった気配もない気がする。
ここちよい夏の風と、風鈴の音。
緋咲は、ねむりつづける小春のそばに、ずっといてくれたのだろうか。

「えれー寝てたな?」

部屋に着いた瞬間、窓辺にくっつけられたベッドに目をとめ。
その向こう側の、入道雲と、流れていく雲にも目をとめて。
バッグのなかから、せっせととりだした風鈴の説明をしながら、ベッドによじのぼり。
まどわくに紐をむすびつけ、緋咲のベッドにちょこんとすわりこんだ小春。
そのほっそりとした肩。その体を、緋咲が、背後から、そっと抱きしめようとすると。
小春が、こてんとベッドに転がったのだ。そして、マイペースに瞳をとじる。
緋咲さん、腕……ということばだけ、のこして。

「昨日、お母さんの仕事の手伝いってゆーか・・・・・・小児科の、こどもと、いっぱい遊んでたの。時間も遅くなっちゃって」
「そっかよ、悪ぃな?もっと休みたかったただろ」
「緋咲さんと一緒がいいです・・・・・・」

起き上がろうとする小春をとめて、まだねておけというジェスチャーをおくった。それに甘えた小春は、体をすこしかたむけて、タオルケットをからだにまきこみ、緋咲に礼をのべる。

「おめー、寝付きわりーんだろ?」
「そうなんです、なのに、緋咲さんが隣にいてくれると・・・・・・」
寝ちゃったの。安心しちゃったのかもしれない。

緋咲のまえで、小春は取り繕わない。
大きな瞳からこぼれる生理的な涙のすじ。
はっきりとした口が大きくあくのもいとわずに、大あくびをした小春は、緋咲のあたえたタオルケットを、ぎゅっと抱きしめる。


お母さんから奪い取ったタオルケットとちがって、これは、緋咲さんのかおりがする。


香水と、シンプルな香りのシャワージェルと、整髪料のかおり。すべてがまざりあうと、緋咲になる。
小春を愛してくれるときの緋咲のかおり。
それをいとおしく抱きしめながら、小春は眠気を振り払おうとつとめた。せっかく緋咲といられる貴重な時間なのだから。
子犬のようにふるふると頭をふる小春をよそに、緋咲は、窓枠につるされた風鈴をゆびさした。

「あれ、いい音だな」
「本当!?キラキラ鳴るから、緋咲さんにはうるさいかもなって思ってたの、よかった。私も、似たの買いました」
「たまには、窓あけてみっかよ」
「・・・・・・夏の、こういう、風がきもちいい日は、いいですよね」

今度こそ起き上がり。
髪の毛を手ぐしで整えながら。寝ていたときの身じろぎのせいか、小春の着ているパフスリーブのさきが、ほどけてしまっていることに気づいた。

緋咲が肘をかけている窓枠に、小春もいそいそとしのびより、やわらかな夏風を、素肌に感じてみる。

「空もきれいですね」
「入道雲散っちまったぞ」
「ほんとだ、なくなってる!」

ここほどけてたと袖を指さす小春に、緋咲が、しらじらしく笑い飛ばした。

「夏に、したいこと、いろいろあったけど……」
「けど?」
「緋咲さんとこーしてるだけで、いいです」

こざっぱりと澄み渡りはじめている夏の青空をみつめて、小春がすずしげに言い切る。

「オレぁ暑ぃのはカンベンだナ・・・・・・」
「この部屋は涼しいですよね!風通しも、いいし。緋咲さん、海とかきらい?」
「この季節にか?ありえねえ・・・・・・」

小春にとっての緋咲は、いつだってどんなことだって、すずしくこなしてしまう。そんな緋咲が顔をしかめて何かを嫌がるすがたが新鮮で。

「じゃ、涼しい部屋で、一緒にいましょう」
「なんかつめてーの飲むかよ?喉かわいただろ」
「アイスティーにします!」

ベッドからおりる緋咲の背中を追いかけて、小春もベッドを降りる。
開けられた窓からふく夏の凪いだ風にゆられて、風鈴がもう一度、鮮やかに、鳴り響いた。
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