夏影
潔い白地に三色のグリーンが走るタンクが、爆音をあげて彗星のように駐車場にすべりこむと、軽自動車からおりてきた人々や目的もなく駐車場をうろついていた一般人が、そそくさと立ち去った。

少し乱れてしまった緑色のリーゼントを、手際よくととのえなおして。
秋生は、無骨な指で額のあせをぬぐいとったあと、迷彩のボトムにぬるついた指を擦りつけた。

上半身は、黒のタンクトップ。
それでも7月の下旬の、凶暴な日差しにあらがうことは、むずかしい。

それにしても。
こんなきっかけでもなければ、生涯訪れる理由もないであろう、妙に仰々しい建物。

横浜国際プール。

センター北駅。そういえば、同じクラスにも、この町に住まうヤツが、いたようないなかったような。

このバイクに、悪意をもって傷つけるような人間は、とりあえず見当たらないようだ。

駐車場から会場内に向かっていると、そこらじゅうを、自転車から降りてくるジャージ姿の高校生がうごめいている。
駅からぞろぞろと歩いてくるのは、同じジャージを着た高校生の群れ。
大きなバスが出たりはいったり、
でかいバンからは子供がぞろぞろ降りてくる。
そういった障害物を華麗によけながら。

いや、障害物側から、秋生を避けてゆく。

緑色の髪の毛と、迷彩につつまれた体。

これがんなにおかしーかよ・・・・・・。

一抹のやりづらさも感じながら、秋生は、あすかとあすかの父親に電話で聞かされたエリアへ向かうため、ずいぶん立派なたてものの階段をのぼってゆく。

関東高等学校水泳競技大会という看板を通り過ぎると、あすかのにおいがする。

塩素と、水のにおい。

夏の香りだ。

ランコーで水泳の授業などまともに成立するわけもなく、プールなど、一年は浸かっていない。

中3のころは、六代目爆音のメンバーに紛れて、由比ガ浜の海水浴場に行ったり、市民プールであばれたりしたものだ。

何をやらせても、須王は器用だったことを思い出す。
夏生にさとされ、しぶしぶついてきた龍也は、いざ水に入るとまるでシャチのようにすいすいと泳ぎはじめ、そんな龍也に、マー坊がさんざんちょっかいをだしていた。
そのうち、龍也とマー坊と須王でバタフライ縛りのレースがはじまり、いつしか一般客や監視員すら巻き込んで盛り上がっていた。
須王と龍也が、タッチの差でマー坊をちぎったあと、ほぼ同着であった龍也と須王は、どちらが速かったかどうか決めるために、まるで水球選手のように水中で殴りあいをはじめた。彼らの身体能力は、スポーツでも活かせるだろうに、あのころ、そんな発想は存在しなかった。
夏生は、市民プールすら、周囲の空気を一変させてしまって。よってくる女たちにかき氷を適当におごっているだけで、モテにモテていた。
およげねーからここで見てんよとやわらかく笑った誠を、だれもかっこわるいなんて思わなかった。いつだって、あの人は、己のことを素直に認めた。それでいて、あれに乗れば、誰よりも速くて、誰よりも美しかった。

あすかがただよわせるプールの香りをかぐと、あすかのこと以外に、もうひとつ、何かを思い出しかけていたこと。

これだったか。
自嘲ぎみにわらった秋生が、アルファベットでしるされた階段の入り口を見つけた。

それにしても、会場内は、がやがやとさわがしい。
通路には、白い旗に何かを一生懸命書き込んでいるジャージの軍団。よくみれば、中央には学校名がプリントされ、そのまわりに一生懸命応援メッセージをかきこんでいるようだ。
爆音にこんな風習はない。シンプルこそが、美しいのに。
生徒をあつめて、なにやら怒り散らしている教師。
写真をとったり、はやくも涙している学校もあった。

こんな雰囲気に縁はない。

居心地の悪さを感じた秋生は、客席へ急ぐ。

階段を上りきった瞬間飛び込んでくる、コンクリートをざっくりときりとった、四角。
その中に浸される水。そのまわりをぞろぞろとあるく、水着の上にジャージを羽織った選手たち。
そして、繰り返されるアナウンスに、スタートを合図する電子音。
次から次へと飛び込む選手たち。
ドーム型の屋根は恐竜の背骨のように無骨で、金属質。たいそうご立派な施設だ。プールと客席も近く感じられるから、まるでこちらにも水しぶきがはねてくるようで。

プールのそばの座席に入ると、ますます、水のかおりがつよくなる。

たしか、アルファベットでどの位置にいると電話できかされた。こんな観客席、どう探していいものやらわからない。けだるそうな目元をあらわにした秋生が、軽くガンをとばすように客席をみわたし、見知った姿をさぐっていると、

オウ、秋生、こっちこっち!
そんな声がきこえて。

軽く手をあげた秋生が、あすかの身内が陣取っているエリアへ向かう。プールの間近だ。
法事に行けなかったから、ひさしぶりに見る顔も多い。
この年になって休日を身内と過ごすことは、どうしたって、自意識がじゃましててれくさい。

そんな気もしらぬあすかの身内が、秋生をうきうきと招き入れた。
夏生は?とたずねられる。だれもかれも兄貴かよ。そう内心に抱きながら、どうしても今日中にしあげなければならない仕事があると告げた。

ありがたいことともいえるが、ずいぶん繁盛している店のスタッフは、基本的には夏生のみ。秋生、そしてときおり祖母が手伝いはするものの、抱えている仕事量が、時たまパンクしてしまいそうになる。
あすかとの約束が夏生にもあったものの、店をしめて出向くわけにはゆかなかったのだ。

夏生からあすかに、気合いいれてけと伝えておけと伝言を預かったが、今からでは伝えられそうにもない。

強く香る、水のにおい。
とっくに始まっている試合。
次から次へとレースがくりかえされてゆく。

帽子を身につけ、競泳用水着に、ゴーグル。
男子は見分けがつくものの、女子は、何がなんだかわからない。

そこへ、プールサイドに、やたら甘ったるいツラをした、背の高い男があらわれると、客席、そしてプール際からもいっせいに黄色い声があがった。
その体はさすがに、見事に鍛えられていて、同性の秋生から見て、実にたいしたもので。他の選手よりも、なんというか、理に適った体をしているのだ。
特攻服の下の体があれほど割れている男は、秋生のすむ世界に、そして同年代はもちろん、年上の人間たちのなかにも、果たしていただろうか。

だらだらと選手紹介がつづいたあと、その男は軽々ととびこみ、バーをつかみ、体を縮めた。短い電子音とともにレースがはじまると、場内の轟音のような歓声に身をまかせていたら、レースなどアッという間だった。
鮫のように水を切りさいたその男は、他に体三つ差をつけて、圧勝した。

これはこれで、スピードの世界だろう。秋生の愛する世界とちがって、こちらはむき出しの生身。運んでくれる鉄の馬もいない。
そして、あれほどの速さをみせつけたのに、その男は、じつに恐縮しながらプールをあとにする。同じレースに挑んだ者全員と抱き合い、健闘をたたえたあと、プールサイドでまちかまえていた女子たちにもみくちゃにされている。

その人混みからぬけだし、カメラのフラッシュをあびながら、その男は、ジャージを羽織った茶髪の女子とハイタッチした。
女にしては、少し背の高いその姿。まだジャージにその身をつつんでいる。ジャージの上からでもわかる、しなやかな背中や、筋肉だけでつくられた足。
後姿だけで、わかる。
あれは。

「あすか」

思わず、秋生の口からとびだした名前。

「あすかよ、女子校だろ?」

秋生のそばにすわるあすかの父親にたずねると、あの男の子はクラブ時代の知り合いで、平塚の高校の子だと話した。秋生と同い年だぞと盛り上がる。そして、オリンピックに出場する子だとさらりと告げられても、秋生は、にとくに感慨も感嘆もうまれない。

父親と母親、そして親戚が、口口にあすかの名前をよんだ。
あすかが、ポニーテールをひるがえし、いきおいよくふりむいた。
そして、そこに秋生のすがたをみつけたあすかが、ひときわ大きく笑った。
あすかに群がる、同じジャージを羽織った同級生たち。秋生を指さし大騒ぎするので、ずいぶん離れた客席とプールサイドではあるが、女のかしましい声が苦手な秋生は面倒くさそうにそっぽをむいた。モテてんな秋生ちゃん!という、親戚の言葉すらうっとおしい。

やがてプールへ向き直ってしまえば、秋生のほうをゆびさしおおきな笑顔でまだ何かを説明しているあすかのそばには、先ほどのあの、あまりにも速い男がいた。



知った高校の名前もある。よくよく見れば、きっと、中途半端な知り合いや、中学時代にやりあったことがあるヤツもいるかもしれない。
埼玉や神奈川の私立校が強いようで、何度も繰り返されるレースのなか、ときおりプールサイドにあすかの姿も見え隠れする。

関東はレベルが高く、日本代表クラスや世界と戦えるクラスの高校生も、ひしめいているらしい。そんななかに、あすかがいる。本格的に水泳のトレーニングを重ねていることは、幼いころから知ってはいたものの。ひとつも威張ったりしなかったあすかの、青空のようにスコンとぬけていく、こざっぱりとした笑顔を思い出していると、プールサイドにあらわれたあすかは、額にゴーグルをあてたまま、見たことがないほど、こわばっていた。

通路をへだてた客席には、あすかの高校の制服を着た女子高生グループ。黄色い声とはほどとおい、怒鳴り声で、あすかへ激しい応援をくりかえす。

その声に、あすかは、かけらの反応もみせない。
そのかわり、あすかが、ちらりと振り向いた。
そのすっきりとした目元は、まぎれもなく秋生をさがして、みつけて、そして。


がんばれ、おまえははえーんだからよ。
そんなこと、あすかの努力をしらない秋生が叫べるはずもなくて。


俺が、いてやっからよ。


戦うもののそばにいることが秋生の役割だった。
そして、秋生のもつ技術で戦うものを支え、同じスピードでともに走って、ともに戦う。それが秋生にできることであった。

あすかが戦っている世界で、秋生は無力だ。


俺がいるからよ。

腕組みをして、行儀悪く足を開き、戦うときと同じ目であすかを見つめ、心のなかで叫んだ言葉。

まるでそれが届いたかのように、あすかは、いつものあすかの笑顔をみせ、ひとつうなずいた。


あすかは、隣のレーンをおよぐ選手の数倍華奢だ。父親の大声に、見向きもしない。名前を呼ばれても、正面を向いて手をあげお辞儀をするのみ。父親の解説を聞くに、両レーンをオリンピック選手に囲まれて、あすかと同い年の彼女らをのぞくと全員高校三年生。
レースが始まってしまうと、秋生自身の自覚以上に激しい後押しの声が出た。もっとも、より怒号をひびかせるあすかの父親にかき消されてしまうけれど。立ち上がり、足を前の座席に乗せ。どうか下品であることは許してほしい。

オリンピック選手ふたりに後半でちぎられ、2レーン向こう側の選手と、タッチの差であすかは4位。あすかは、しばらくプールにもぐったあと、あすかの名前を泣きながら呼ぶ女子高生グループに向かって、手をあわせながら頭をさげていた。
そして、秋生や身内を振り向くことはない。

よくよく聞いてみると、水泳部に上級生は二人だけ。部員を自力であつめて、まともに機能していなかったお嬢さん学校の水泳部を、名門クラブ出身のあすかが数ヶ月でここまでもってきたという。そんなこと抱えてたんならよ、相談してくれりゃよかったんだよ。オレだってよ、おまえがんなこと始めたころ、同じよーなこと、やってたぜ。
あすかと会えたらそう言ってやろうか。そして、そんな思い付きは、このプールにできた飛沫のように、消えてゆく。

メドレーリレーなど、関東に連れてくることができただけで奇跡とのこと。そのメドレーリレーは、決勝まで残り、あすかが一気にまくりあげて、これも最終的には4位であった。



激戦区の関東でよ、これだけやれんのは十分なんだよ。
ただねー、あそこまでやってんの、普段からみてるとね。

どこか呆けたような口調で、そして慈愛に満ちた声音で、あすかの両親が、くちぐちにこぼす言葉。

これまで、あすかの頑張りなどつゆほども知らなかった秋生が、たったこれだけの時間で、一分とすこしのレースのなかで、数時間の観戦のなかで、あすかへ生まれた期待。
そしてそれが潰えた瞬間。
その儚さ。

「もどってきたら、秋生にまかせようかな」
「お、おれかよ・・・・・・」

時々、秋生がぽろっとこぼす、あすかという名前。秋生の変化に聡いマー坊が、実に鈍い秋生の近くに大胆に陣取っているといえるあすかにも、会いたがっていたが。結局、今日はつれてこなかった。マー坊でもいれば、あすかを、何の遠慮もなく元気づけ、慰めているのだろうか。

あそこの通路に行けば、そのうちあすかにあえるから。
たぶん秋生に会いたいと思うの。

客席を後にして、プールのそばを去る。
すっかり慣れた、水のかおり。

一族にそう期待され、高校生の集団のそばを次々すりぬけて、居心地のわるさをかかえながら、指定された場所で待っていると。

何やら視線を感じる。
そしてその視線は、ランコーで感じる、殺気や敵意ではない。
実に素直な気配だ。そうだ、あすかが与えてくる瞳と、よく似ている。
その素直さにつられるまま振り向いてみると、そこには、あすかとハイタッチしていた、あの、バカっ速い男が立っていた。新聞記者らしき連中や、テレビカメラにかこまれている。

いやにくりくりした瞳で秋生をじっと見つめたあと、あろうことかその男は、マスコミをかきわけて、秋生の隣にやってきた。
間近でみると、ジャージごしの、迫真の胸板がすさまじい。
秋生よりも、10センチほど高い背丈。秋生とて、そこそこの身長なのだけれど。
秋生が棲息する世界の男たちと一味ちがった、妙にすがすがしい強さがある。

素直にそばによられても、嫌味一つなく、そして、殺気立った凄みひとつない。
秋生も、こんな男に敵愾心をむき出しにする必要性は感じられなくて。
素直そうなこの男と、力を抜いて向き合ってみた。

そして、この男は実にスムーズな声で、きみはあすかちゃんの友達かと、礼儀正しくそして、甲高い声音で語りかけてきた。マー坊もたいがい美しいメゾソプラノだが、あれより倍高い声である。

間近でみると、あまったるいツラに拍車がかかる。たたずまいに嫌味はなくとも、この甘ったるい顔を直視するのは、疲労がたまりそうだ。

「イトコだよ」

感じ悪い声になってしまったことを後悔しながらぼそりとつぶやくと、速い男がたずねてもいないのに名前をなのってくるものだから、秋生もつられるまま自己紹介をした。もちろん、爆音という枕詞ははぶいて。

こうして名乗った瞬間、拳や蹴りがとんでくるのが秋生の生きる世界の常であるし、情報はむやみにわたすものではないが、この速い男は、何の他意も存在せぬ笑顔であいづちをうつうえ、それ以上、秋生のプライバシーに踏み込んでくることはない。

そして、はきはきと語り始める。自分は性格が女っぽいから、男より女のダチが多いのだと。こんな自分だが、あすかちゃんにもよくしてもらっていると。

聞いても居ないことを丁寧につたえてくる、そのすがた。人あたりは、機嫌がいいときのマー坊を、さらに穏やかにしたような案配か。その性格でこのツラがまえ、この体つきであると、さぞ女は安心するだろう。
女が近づいてこようとも、この愛想のなさ、女をよろこばせるような話題をもたぬゆえ、女にそそくさと去られてゆく、己とは違って。
そして、あすかも、この男のそばであると、さぞ安心してすごせるだろう。あすかを何も楽しませてやることもできない己とちがって。

それにしても、あすかちゃん、という呼び方がひっかかる。あげく、今会ったばかり、名前をかわしたばかりの己のことを、あすかちゃんにこんなにかっこいい男友達がいたなんてだの、どうだの。
どいつもこいつも、秋生のことをよけて歩く中、すがすがしいヤツに、他意のない言葉でほめられる。どうにも、居心地が悪い。

「い、いとこだよ」
もう一度念を押すと、そいつは、いやみのない笑顔で謝った。

僕も真嶋くんと友達になりたいなどと。勝手なことを告げたあと、そいつは、記者が待つブースへ帰った。

男より女と仲がいいと言った割に、独特の距離感。不快感ひとつない、清潔な人当たりであった。
あいつも、あすかと同じ、塩素と水のかおり。同じにおいだ。

一抹の疲労感を感じながら、会場の壁に背をあずけた瞬間、通路の向こう側から、あすかが突然あらわれた。

「アッちゃん!」
「……!ん、んだよ、びびんだろ」
「わー、アッちゃんがいてくれるって思わなかったから」

上下ジャージ。
スポーツバッグをななめにさげて、濡れたままの髪の毛をざっくりとポニーテールにまとめて。
さっぱりとしたすっぴんの顔。
こいつが飾っているところ、一度だってみたことがない。
いつだってあすかは、そのままで秋生のそばにいる。


誰よりもはやかったぜ。
一番かっこよかったぜ。
頑張ったな。


そんな言葉が力をもたないこと、秋生は、秋生が棲息するあの世界で、とっくに知リ得ているのだ。
さっぱりとした目元をみひらいて、秋生のことを、まっすぐ見上げるあすか。


これからも、こういうとき、俺がいてやっからよ。


秋生の口がおそるおそる開き始めた瞬間。

あすかのすずしい目元から、涙がぽろぽろとこぼれはじめた。
あすかの涙を見たことは初めてではなかった。
秋生の父の葬式のとき。母の葬式のとき。
あすかは人のために泣く子であった。

あのとき、プールの壁を死ぬ気で叩いていた大きな手。指先は真っ赤だ。その手で、かたちのいい鼻の頭をおさえたあと、ゆがんだ口元を隠すように。
そして、そのままこうべをたれて、ぼとぼとと涙をこぼす。

「アッちゃん、いきなり、ごめん」
「あすか」
「ごめんね、ごめん」

袖でふいてやろうにも、そもそも袖が存在しない黒いタンクトップ。
宙に浮かせたままの片手。
気がつけば、あすかのしっかりときたえられた背中を、だきよせていた。

「こ、こーしてたらよ、」

その後がつづかない。恥ずかしくないだろ。大丈夫だろ。ラクだろ。

どれを選んでいいかわからぬまま、あすかの濡れた頭を撫でてやっていると、あの速い男と目があった。切なそうに目礼した男は、同じ高校のグループにそのまままぎれた。

「アッちゃんありがとう!」

そして、こういう女だった。
雨上がりのアスファルトがかわいてゆくように、あっさりとした声。
秋生の胸をどんと押せば、はずみで、秋生の背中が壁にぶつかる。

露骨なためいきをついてやれば、それに気づいたあすかがわんぱくにわらって、もう一度礼をのべた。

秋生の胸のなかで集中的な逡巡をくりかえし、ひとまず立ち直ったあすかが、バッグのなかから大きなタオルをとりだし、乱雑に目元をぬぐう。

「うち、わたしが部員集めて、先輩って二人しかいないの」
「ああ、聞いたよ」

涙は完全にはかわかなくて。
すすりあげながら、ぐずぐずとした声を、あすかはどうにか整えようと。

「わたしの自己ベストだとここが限界だね」
「おまえに勝った二人もオリンピックだろ」
「そうだね、同い年ていうのがねえ」

通路で向き合って話していると邪魔かもしれない。
あすかは、秋生のそばによりそって、秋生と同じ格好で、ひんやりとした壁にもたれた。

「わたしも、悔しいんだけど、みんなを勝たせたかった。行かせたかったの」
「あすかはそーゆーやつだよな……」
「行かせたいとか、傲慢かなあ」
「つかよ、決勝に残れただけでよ、すげーんじゃねーか?」
バケモンみたいなのいただろ。

えー、どの子だろ!あの子?フリーとバッタで日本新の!
スピードを重視する世界は、秋生にとっても、存外興味深くて。会場の壁に背中をあずけて、高校生たちにまぎれこみながら。二人の会話は続いてゆく。

「つかよ、あいつ」

同じ高校の群れでくっちゃべっていれど、あいつはどうも、あすかが気にかかるようで。
さきほどから、秋生が感じ続けている素直な視線。あすかは、そういったことには鈍いようだ。
秋生が、こちらをちらちら気にしている、あの速い男を指さす。

「えっ、しゃべったの?あの子たちは今日勝ってもIHは出ないんだよー。でも繰り上がりはないんだよ」
なんでアッちゃんがわかったんだろうね?あ、あのときか!

一人で盛り上がるあすかが、あげく、あまりにデリケートなことを平気で口にした。

「そういえばあたし、あの子に告白されてんだった!」
「こ、こ、ここ、告白だぁ・・・・・・??」

秋生も、経験がなくはない事象ではあるものの。
思いがけなく打ち明けられたそれに、秋生は露骨に戸惑い始める。

「そう、付き合いたいから考えておいてくださいって」
「お、おめー……、んなこと、ベラベラおれにしゃべんな……」
「で、でも話したの、アッちゃんがはじめてだよ!部活の子にも言ってないし、ナッちゃんにもいってないもん」

スポーツバッグを体からはぎとったあすかが、それを秋生におしつけた。
ズシリと重いバッグをわけもわからぬまま押し付けられた秋生が眉間にしわをよせるのをよそに。

「まっててね」

あの甘いツラのオリンピック選手のもとへ。ぱたぱたと駆け出したあすかが、高校の連中に挨拶をかわしながら、あいつをひっぱりだす。
そのまま、通路の片隅に連れてゆき、竹を割ったような笑顔で、何かをかたりあっている。

五分ほど語り合ったあと、あすかがこちらへ駆け戻ってくる。
そのまま、なんでもないように、まるで今日の夕飯のメニューでも教えてくるように。

「断ってきた」

あすかが、あっさりと結論を口にした。
もう、あの男はこちらを見ない。
それはそうだろう。気持ちは、いたいほどわかる。秋生も、知ったような眼で彼を追うようなことはやめておいた。
そうしなければ、秋生の眼にやどる、もうひとつの感情。
それが、あの男に、失礼にあたるかもしれないからだ。
わるくない男だが、実にデリケートそうな男だ。
これ以上、あの男を煽る必要は、秋生には、ないのだ。

「・・・・・・さっきちっとしゃべったけどよ」
「かわいー男子でしょ」
「まー、わりーヤツじゃなかったな。いーんかよ。あれ銅メダルくらいとるっつってんぞ」
「応援してるよ、スイミングも一緒だったし、仲間だからね。湘南の子だし」
激励してきたよ。

観客、選手の身内、スタッフパスをさげた係員に、カメラや三脚を抱えたマスコミ。
大勢の人をよけるために、ふたりして、もう一度、冷たい壁にもたれる。
あすかのバッグは、秋生が抱えてやって。

「どーして断ったんだ」
「・・・・・・アッちゃんとナッちゃんより、かっこいい男子、しらないから」
「……?はぁぁあ?おめー、んなもんくらべることかよ・・・・・・」

いつだって、秋生の遠慮ない語り口に、遠慮なくかえしてくるあすか。
急にもじもじとうつむいたあすかの変化を、秋生は遠慮なくからかう。

「おれよかよ、マシじゃねーのか」

すると、慣れぬ女子あしらいは、あすかの一本気さにより、見事に打ち砕かれる。

「アッちゃん、そういうところあるよね!自分のことを威張らないし、人のこと、変に悪くいわない。そういうとこだよ!!」
「……あ、あれも人のワルクチいうやつにはみえねーぞ」
「そうだね、かわいいヤツだから。まっ、まだ、あたしにはわかんないや。すきとか、そういうこと」
「一世一代の勝負だろ……?そのまえに、好きなオンナにふられちまったんかよ……」
「そんなメンタルじゃないと思うよ!たぶん」
「たぶんかよ。ま、オレもそー思うな」

ぺたりとすわりこんだあすかのそばに、秋生もずるずるとすわりこむ。
足早にゆきかう高校生たちのあしもとから、水のにおいがただよってくる。
秋生が日ごろ無縁な、爽やかなかおり。今日はこんなかおりも、ずいぶん、わるくない。

「何わたし負けたくせにこんな話してんだろ!」
「でもよー、おめーに勝った女子、オトコといちゃついてんぞ・・・・・・」

すわりこんで、寄り添って。
ふたりして顔をよせあって、あすかと秋生は、下世話な話だって盛り上がる。

「あ、ほんとだ・・・・・・。湘工付の男子だ。あそこ付き合ってたのね・・・・・・」
「あれもおめーが準決勝でつぶした女子だろ。おめーに負けたのにオトコといちゃついてんぞ」
「み、みんな彼氏いるんだね。わたしだけじゃんね」
「あすかはよ?」
「ん?今日、アッちゃんがきてくれて、すっごくうれしかったんだよ!!」

ちっとは役にたったかよ。
秋生がそううそぶくと、あすかが秋生の肩を思い切り叩いた。
アニキに、あすかに殴られたっつっとくわ……。呆れかえってぼそりとつぶやくと、それだけはやめてと願うあすかが可笑しかった。

「テレビは見ようね!たぶん水泳はお盆期間あたりだからさ」
「ふーん、なんか知ってんヤツがオリンピックにでるっつーのも、実感ねーな」
「今年もさ、お盆泊まりに行くからね」
「へーへー、家かたづけんのめんどくせーよ」
「わたしがいつもかたづけてる気がするんですけど」

どちらともなく立ち上がり、駐車場へ向かう。
ガッコのやつはいいんかよと尋ねると、ミーティングも終えて、先に帰したと話した。

「……も、もう泣かねーんかよ……」
「いつもこんなもんだよ。泣いててもはやくなんないし!」
「そりゃそーだけどよ・・・・・・別によ、」

オンナに目の前で泣かれるまえに、そもそも、感情を昂らせかけたオンナには、秋生は寄りつかないようにしているが。
幼いころから知るあすかは、さすがに勝手が違っている。
何かもう一つ。
時間をかけて、秋生が言葉をさがしていると、あすかがあっけらかんと話し始める。

「明日からふつーに練習だよ。でもお盆は休みだからね、アッちゃんち、泊まりに行くから!」
「何回も言わなくてもわかんよ」

お盆に、あすかの一家が秋生の家に滞在することは、十数年来の恒例行事だ。
兄弟としても、気が紛れるうえ、あすかとあすかの母のおかげでうまいメシもでてくるうえ、己たちが掃除をしなくても風呂もトイレも家もきれいになり、ずいぶん快適に過ごすことができる。

「アッちゃん、ついててくれて、ありがと」
「ああ、わるくねーレースだったぜ」
「よかったー、忙しいのに、ありがとね」

そういえば、泣いているあすかのそばにいただけで、あれほどがんばったあすかを、いまだたたえていなかった。

「おまえ、電車で帰んのかよ」
「お父さんの車だよ」
「そーかよ・・・・・・」
「今日はいいよ!アッちゃんの背中で、泣いちゃいそーだし」
「……乗せるとはいってねーぞ」
「あはは、そっか!そーだよね、大事な場所だもんね」

視界をかすめた大きな車の運転席から顔をだしたのは、あすかの父親。
秋生も片手をあげて、あすかも大きく手を振る。

「あすか、お疲れ」
「ありがとう!アッちゃんも、わざわざ来てもらっちゃってごめんね。ナッちゃんにもよろしくね」
「あすかぁよ、んっとに……、すげーよ」
「も、もうやめてーー!また泣いちゃうから」

ごまかすように、あすかは大きな自動車を指さした。
親戚総出で来ているから、今日は軽トラックではない。
秋生も乗れ!!と、がなる父親に、秋生は自分の単車が置いてある駐車場を指さした。

「お盆、泊まりにいくからね?」
「あすか……それ三回目だぜ……。わーったからよ、疲れてんだろ、オヤジまってんぞはやく帰れ」
「ナッちゃんにもよろしくね」
「へーへー、言っとくからよ」

すっかり涙も乾いたあすかが、秋生にまっすぐ向き直る。
このまっすぐな瞳に怖気づきそうになるときもあれば、いつだって変わらないあすかのそばに、秋生も変わらずいられるときもある。

「アッちゃん!」
「んだよ・・・・・・」

からりと晴れ上がった声に、幾度も名前を呼ばれることが、むずがゆくて。
首筋をかきながら、あすかの澄んだ瞳をちらりと見返し、ぼそりと尋ね返した。

「ありがとう!」

ジャージのしゃかしゃかした生地が、秋生の腕と、首筋、そして体に、いきなり触れる。
秋生の胸元にあすかの濡れた髪の毛がぺたりとはりつき、塩素の水とシャンプーの、すがすがしいかおりが、秋生をさらりとつつんだあと、潔く離れた。

秋生を抱きしめたあすかは、潔く、その精悍な体から離れる。

「じゃーね!!お盆、泊まるから!」
「四回言わなくてもわかんべ……」
「ありがとう!!ほんとにありがと!!」

秋生を振り向くことなく父親の車にかけより、重たいドアを開けはなち、あすかは車に飛び乗った。
秋生も、これ以上あすかを追いかけない。

駐車場から、一台ずつ車が減ってゆく。

ある者の夏は潰えて、
ある者の夏はこれからはじまる。

今日ここにいた者たちすべてに共通することは、潔い。

秋生は、ただ一言を浮かべながら、己の速さを知る単車に向かった。
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