夏影
「緋咲さん・・・・・・」
「あ?どーした?」
「ここから、わかりません・・・・・・」

肌襦袢をまとって、腰にぐるぐるとタオルをまきつけて。
鳥の羽のように広げた浴衣を不器用に纏い、小さな手でそれを一生懸命におさえた小春が、か細く頼りない声で、とうとう音をあげた。



「緋咲さん、浴衣は好きですか」

おもむろにそうたずねてきた小春が、肩に掛けていたバッグからいそいそととりだしたのは、きれいにたたまれた浴衣に、濃紺の帯。そして、じゅばんだのタオルだの腰ひもだのが続けてあらわれる。

「オマエが着てりゃよ、なんでも可愛いぜ?」
「・・・・・・・」

からかわれたとおもったのか。
小さなこぶしをつくって、小春が緋咲のみぞおちあたりをぽふぽふとたたいてくるものだから、緋咲は、手のひらでそれを受け止め続ける。
もっと堅くにぎんねーとよ。
緋咲がそうダメだしすると、そーいうことじゃなくて!!と、小春がぶんぶんと手をふった。

「緋咲さんは、浴衣、着れるの?」
「着付けかよ、できなくもねーぞ」
わざわざ着ることは、ねーな。

浴衣などもう何年着ていないか。記憶をぼんやりとたぐりよせていると、小春が驚嘆の声をあげた。

「緋咲さん、着付けもできるんですか・・・・・・!?私、本で、よんできたんです!浴衣の着方!」

すべてを察した緋咲は、まだいくらも吸えるたばこを、ガラスの灰皿におしつぶし、冷房の温度を1度ほど下げた。
つまり、緋咲のかわいい恋人は、ただいまからこの部屋で浴衣に着替えてみせて、それを己に披露してくれるのであろう。

「だから、浴衣、着ますね!」
「ああ、この部屋好きに使えよ?」

物置代わりの別室にでも引っ込んでおいてやるか、それとも、この猛暑ではあるが、ベランダにでも出ておいてやるか。

たばこをつかもうとした緋咲の纏う、だらりとしたガウンのすそを、小春がきゅっとつかんだ。

「あ?オレがいっとよ、ジャマだろ?」

アップにした小春の黒髪が、実に新鮮である。
小さな頭をふるふると振り、小春が緋咲をひきとめる。

「でも、途中で、わからなくなるかも」
「その本はもってきてねーんかよ」
「おぼえたの。図書室に、返しました」
「ま、できなきゃよ、また次見せてくれりゃいーだろ?オレは外出んぞ」
「待って!いてください」

たばこをベッドの上にほうりだして。
緋咲は、わけのわからないことをのたまう小春の、アップにされた髪型をていねいに整えながら伝える。

「意味がわかんねーぞ……、オレがみててもいいのかよ」
「緋咲さんは、あっちをむいていればいいの」

ベランダに続く窓を指さしたあと、大仰だが女子供にも動かしやすいソファのもとへかけだした小春が、一人掛けのソファをくるりと窓に向けてまわした。
そして、ベッドの上からたばこをとりあげたあと、灰皿も手にして、ソファのうえにいそいそと置いた。

「そこ、すわっててください」
「・・・・・・」
「で、わかんなくなったら・・・・・・言いますので・・・・・・」
「・・・・・・助けりゃいーわけだナ?」
「・・・・・・」

実にばつのわるそうな上目遣いで、緋咲をおどおどとみつめたあと、小春は素直にこっくりとうなずいた。

「オレもよ、詳しーわけじゃねーぞ・・・・・・」
できなくてもよ、どーにかなるこたねーんだからよ、ゆっくりやってみろ。

眼下にある小春の小さな頭をいつものように掻き撫でようとしたとき、和装のためにアップヘアにしている髪型を乱してしまうことにきづき、かわりに、おくれ毛をすこし撫で上げたあと、いつまでたっても細い肩をぽんとたたいた。

「これを着ます」

小春が、一気に広げたのは、白地に、色とりどりの飴玉が散らされているような、水玉模様の浴衣。モダンでかわいらしい浴衣は、小春によく似合うだろう。

そして、カーペットの上にぺたりとおかれている帯は、漆黒の帯に、青く煌々と目立つ模様が走っている。
よく見れば、流星群を模した模様だ。
半身半馬のケンタウロスが弓をひき、宇宙を塵のようにうごめく星々が、いくつも散らされている。この、濃厚な流星群の帯は、清楚な愛らしさがあるデザインの浴衣を、ぐっと引き締めるはずだ。

緋咲としては、もうすこしハデな柄が好みではあるが、小春に似合っていればなんだってかまわないうえ、元がはっきりとした顔立ちの小春にハデな浴衣を着せると、ややくどくなるかもしれない。

「似合うと思うぜ。流星群の帯だな?」
「両方とも、お母さんに買ってもらいました。じゃ、着ますので」
「んじゃ座ってっからよ。オレぁよ、バイトあけでねみーからよ、寝てたら起こせ」

少しだけしゅんとしたようすで、バイト明けなのにごめんなさいとちいさく謝る小春を、軽く抱きしめて、華奢な背中を撫でた。

そのまま、小春のいいつけどおりに、ソファに身をしずめる。


えっと、えっと。
衣服をぬいでいるのであろう、きぬずれの音のあいだに、そんな声をあげながら。
これだけ冷房を強くしておけば、汗をかくこともないだろう。一昨日、カーテンを薄手のものにかえた。開かなくても差し込む、夏の強いひざし。たばこに火をつけて、緋咲は、カーテンの向こう側の光、そして、この陽光の下にたつ小春の浴衣姿を思い浮かべながら、煙を大量に吐き出した。あの流星群の帯。あんな夜を、小春と見られたら。つくりものの花火よりも、それはずっとうつくしいだろう。

小春はワンピースをおもいきりぬぎすてて、ひとまず下着姿になったあと、手早く襦袢をみにつける。
そして、腰に、タオルをぐるぐるとまきつければいいらしい。

やっぱり本を持ってくればよかった。
手元には、買った浴衣についてきた、簡素な説明書しかない。

とりあえず、左右の布を均等にすればよいはずだ。
襟をおもいきり首の後ろにつけて、前をあわせてみる。
均等になっているのかどうなのか、よくわからない。
目の前のクローゼットにつけられている姿見で、確認してみるものの。

早くも汗ばみ始める小春の体を、緋咲が低く設定してくれた冷房が、すうっとひやす。

そして、衿先をもちあげてみる。
くるぶしが隠れる程度でとめて裾の長さを決めて。
前幅を決めて、裾をあわせてみたあと、真ん中をおさえて腰ひもをあててみた。布がずれないようにすばやくとこころがけていたけれど、あえなく布は元通りになり。
また同じ行程をくりかえして、なんとかうまく腰ひもをあてた。

そして、ぎゅっとしめあげたあと、あまったひもを、しめあげた隙間にいれこむ。

脇の開きから両手を背中にさしいれて、背中のたるみをとったあと、衿もきちんとあわせなおして。

力任せに胸ひもをしめてみたものの、はて、次はどうだったか。

一度、家で、母親に着せてもらったのだ。しかし、その際における、母親の器用でスピーディーな手つきが、どうにも思い出せない。

おはしょりの長さを決めればいいというけれど、ここからどうしていいのやらわからない。

ちらりとふりむくと、今日はきれいにたてられている緋咲の紫色の髪の毛が、冷房の風にそよそよとゆれていた。

余分な長さのぶんだけ持ち上げると書いてあったけれど、余分な長さをどうやってはかるのであったか。
結局。
気付けば小春は、いつものように、縋るように緋咲の名前を呼んでいた。

「緋咲さん」
「あ?どーした」
「ここから、わからなく、なりました・・・・・・」

灰皿にたばこを押しつけて。
緋咲がけだるく立ち上がる。

小春のつややかな黒髪。そのアップヘアはところどころみだれていて、顔をまっかにした小春が、胸紐をぎゅっとしめあげたあと、白地にカラフルな水玉が散らされた浴衣をしょざいなさげにもちあげたまま、突っ立っている。

「オレもよ、詳しかねーんだぞ?」
確かよ・・・・・・

そうぼやきながら。
緋咲が小春の前にひざをついた。

緋咲の強い香水が、小春のまわりに、濃厚に漂いはじめる。

またたくまに紅潮してしまった小春の顔は、焦りか、情けなさか、すぐそばにいる緋咲への動揺か。

緋咲が一度、小春の腰ひもを、しゅっとほどく。浴衣ははらりとはだけ、小春のほっそりした体を覆う襦袢があらわれた。

小春はされるがままだ。
言葉もでないまま、緋咲に、すなおに体をあずける。緋咲が器用にみせてくれるであろうその行程をきちんと覚えておかなければ。
そう思うのに、小春のやわらかい腹部あたりにある緋咲の冷たくととのった顔、強い香水、小春のからだにそっとまわされる、しなやかで精悍な腕。
それらが、どうにも慣れない。
くらくらとする自分の頭をしかりとばして、小春は、緋咲の手つきを懸命においかけつづける。

ゆかたをいちどぬがされて。
まず、緋咲が、衿をびしっとつかんだあと、一気に重ね合わせた。
そして、小春が痛くない程度におもいきり腰ひもをむすびあげたあと、身八つ口から大胆に手をつっこみ、おはしょりをあっさりとおろす。
そして、一度たちあがったあと、小春の衿を、思い切りぬいた。
外に出るわけではないからいいだろう。
大胆にぬいたそこは、緋咲の趣味だ。
そして、胸ひもをむすびなおす。

「緋咲さん、こんなこともできるんですか、すごい・・・・・・」

いつだったか、かつての友の恋人であった女にも、こうして着付けを手伝ったことがある。素直におとなしく身をまかせてくれる小春にくらべて、きついだのやっぱり別の浴衣にするだの、ずっと注文が多かった。

「ジュニアハイでよ、こういう授業があったんだよ」

日本語教師が教鞭を執る、古典全般の講義。厳しい老婦人の教師だった。外国暮らしが長い生徒には、とくにきびしく日本文化をたたき込んだ。座学から実技まで。まじめに勉強などしていなかった緋咲のインターナショナルスクール時代の記憶は、ケンカと抗争と音楽と友のことにつきるのだが、そのなかで、わずかにのこる、学業の記憶のひとつだ。
あの教師から教わったことのなかに、着物や浴衣の着付けもあったのだ。

おおむね、どんなことでも、一度見聞きすれば、緋咲はあっと言う間に覚えてしまう。
あえていえば不器用である小春は、緋咲のあざやかな手つきを、ちいさな歓声をあげてみまもりつづけた。

「でよ、こっからだよナ・・・・・・」
「えっと、なんだっけ、帯を肩においたりしますよね?」
「いや、あれぁよ、また違うんじゃねーか」
一人でやるときは、あれなんだろうな。

ひとまず、帯を背中に回して抱えてみたあと、布がだらりと垂れる。

小春が帯をぎゅっとおさえ、緋咲が布を半分に追った。
ひとまきしたあと、帯を真横にもち、ぐいとひきしめる。そして、緋咲がおもいきりひとむすびすると、小春が、うっと声をあげた。

「大丈夫か?あとちっとだからよ・・・・・・我慢しろ」
「はい!」

左に持った帯。それを重ねて、くぐらせるようにひとむすびしたあと、とりあえず蝶結びをつくってみた。
そして、右側のたれをひきだして、左側のたれはまいてしまう。

バイクのシートにもその名前がのこる、アンコ。
アンコに使うてぬぐいを、結び目の下にはさみこむ。

そして、緋咲が帯をつかみあげ、ちからまかせに、180度ぐるりとまわすと。

「緋咲さん、なんでもできますよね……!」
ありがとうございます!!!

髪の毛こそ少し乱れていて、まだメイクはほどこされていないけれど。
小春の体を、白地にポップな模様の浴衣と、濃密な流星群柄の帯が、実に清楚に覆った。

「ま、これでいーんじゃねーか?似合ってんぞ?」

緋咲が、小春の体をくるりとまわして、姿見にうつったそれをゆびさす。
慣れない和装姿に、大きな瞳をぱちぱちとしばたかせながら、鏡の中の自分と、なぜだか緋咲を見比べて、きょろきょろとうろたえる。
落ち着かないその姿に、緋咲は呆れた笑みをうかべた。
だらりとしたガウンをまとった、リラクシングウェアの緋咲と、きっちりと着つけた和装の小春。あまりバランスはとれていないけれど。
小春は、緋咲にぴとりとくっつき、緋咲を見上げて、思い切り笑顔になったあと、すこし恐縮した表情に変遷する。

「結局、緋咲さんを頼っちゃいました」
「ああ、頼れよ?」

できもしないことをできるふりをして。
今日もこうして甘えてばかりで。

緋咲に、少しだけでも違う自分を見せたくなったのだ。

きつくしめられた、流星群柄の帯。
いつか、ほんもののこんな空を、緋咲と一緒に見られるだろうか。

「似合ってますか?」
「かわいいぜ?さっきも言っただろ」
「ありがとうございます・・・・・・!」
「で、それ着てどーすんだ」
「緋咲さんに見せたかっただけです。それに、これ着て、友達と、遊びに行こうかなって」

袖を持ち上げて、小春がいそいそと、模様の説明をしてみせる。
その純粋な姿が眩しく。
緋咲は、うすうす心にあたためていたことを、提案してみせた。

「ペリー祭だけどよ」
「?」
「ここから見えんぞ」
「え!!そうなんですか!」
「あー、去年見えてた気ぃすんわ」

バイトとケンカが続き、昼夜が極端に逆転していた頃。ちょうど親からこの部屋を与えられたころだ。この部屋からも見えた花火。あれはあの祭りであった気がする。

「見えなくても、緋咲さんと一緒にいられたらいいです」
じゃ、そのとき、これ、着ます!

本当は、部活の友達と行こうと思っていたけれど、まだその約束はとりつけていない。そして彼女たちも、彼氏がいる子が多いから。みんな、好きな人と一緒に花火を見るのかもしれない。

「帰りよ、花火帰りの客とかぶんだろ」
「ああ、そうかも・・・・・・、早めにきりあげなきゃいけませんね・・・・・・」

もしかしたら、その日を緋咲とともにできるかもしれない。緋咲の部屋で、その景色を見られるかもしれない。
そんな希望は、現実によって、少しだけ萎まされる。
だけれど、ほんのわずかな時間でも、緋咲と一緒にいられたらそれでいいのだ。
そう自分に言い聞かせていると。

「泊まってくか?」
「…………えっ、で、でも」
「何もしねー」
「・・・・・・」
「一晩中、一緒にいてやるかよ?」
「……あ、あの、お、お母さんに、聞いてみます……」
「ああ、ダメって言われりゃよ、オレよかよ、親の言うこと聞けよ。正直に言うんだぜ?」
ダチって嘘つくなよ。オトコの家に行くっつってよ。

思いもよらぬ言葉に、すっかりおさまっていた紅潮がふたたびあらわれ、小春の頬をピンク色にそめあげる。冷房でひやされていた体に熱がこもりはじめ、じわじわとあせばみはじめる。
緋咲とともにむかえる、最初の夏。

「ペリー祭、おめーんとこのよ、期末終わったばっかだろ?」
「!!」

またも忙しく変わる、小春の表情に、緋咲は、整った口もとをゆがめて、耐えきれず噴き出した。
小春がしっかりと握りしめたこぶしが、意外なパワーで緋咲の腹部にヒットする。
悪ぃと一言述べながらも、そのこぶしを両手で受け止めながら、緋咲は、小春の愛らしさに、笑いがとまらない。

「・・・・・・だからよ、とりあえず、テストだろ」
「・・・・・・がんばります・・・・・・!」
「このまえ、エーゴみてやっただろ、あれ復習したか?」
「しました!あのね小テストでね、追試にならなかったの、ほとんど満点だったの」
「そーかよ、あれがんなにムズカシーか?」

小春の手をひき、すぐそばのベッドにすわらせる。おそるおそる腰をかけた小春の肩に腕をまわしながら、片方の腕で、カーペットに放っておいたたばこをひきよせて、火をつける。

「・・・・・・がんばるので・・・・・・がんばったら、ごほうびください」
「一緒にいてやっからよ、期末だ期末」
「な、何回もゆわなくてもわかります……!」
「ああ、あばれんな、くずれんぞ。指先までキレーにしろ」
「こうですか?」
「ああ、かわいいんじゃねーか」

たばこを灰皿に置き、少し着崩れかけた小春の浴衣を整えてやりながら。
小さな手を、ほっそりとした膝のうえにちんまりとおく小春の所作に合格点をだしてやる。和装は慣れてないといったけれど、小春は端々のしぐさが、妙に落ち着いていることがある。部活だか習い事だかの影響だろうか。

「緋咲さんも、和服、似合いますよね」
「もってねーしよ?めんどくせーよ、単車のれねーだろ」
「ああ、ゆかたでバイクは無理ですね、そっかあ、しょうがないですよね」
 
実家にかえれば、親の持ち物のなかに、一枚くらい浴衣はあっただろう。手間がかかるものの、一度帰って、衣類の山からさがしあててみるか。

小春のために着て待っていてやるか。
そのたくらみは、当日まであずけて。

緋咲は、ポップな浴衣、そして、濃密な流星群模様の帯に彩られて、幾分か大人びてみえる小春のすがたを、じっと見つめる。

「やっぱり、ぼやけてみえますか?もっと古典っぽいほうがよかったかな。かわいいなって思ったんですけど」
「いや、かわいいぜ?」

かわいい。
緋咲が幾度も小春に与えてくれる言葉に、今更ながら、小春に、照れがおとずれる。
まだまだ慣れない和装だから、そんなことはないはずなのに。

「外にはだせねーな」
「よ、よくある、ゆかたですし・・・・・・だいたい、慣れないから、そんなに似合ってないです」
「オレだけのだ」

キレイに着つけられた浴衣。
本物の流星群より、濃厚なそれ。
浴衣姿の小春を、いつもより慎重な手つきで抱き寄せ、賢そうな額に、緋咲はそっとキスをおくる。
慣れぬ袖を、不器用にさばきながら、小春も、緋咲に、おずおずと身を任せる。

やや乱れたアップヘアを支えていたヘアピンを次々にぬきとれば、黒々とした髪の毛が、ふわりとおりてくる。
小春が、大きな瞳で、緋咲を見あげた。
おろした髪の毛をまさぐるように手を差し入れ、緋咲は、手つきとはうらはらに、なによりもやさしいキスを、小春におくった。

参考文献:「七緒」vol.46 2016年夏号
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