夏影
そろそろ時間だ。

夕食後の片づけを終えたあすかが、ふと顔をあげたとき、あすかの暮す家を力任せにゆらすような轟音が響いた。

あすかが暮らす家は、森戸海岸から、徒歩数分。
したがって、あすかの部屋から、今日の花火はよく見える。

葉山の花火大会。森戸海岸で行われるそれは、とてもアットホームで、あすかにとってちょうどいい規模の花火。あすかの自宅の前の道路も、午前中から車やバスがひっきりなしに行き交っていた。

葉山の夏は、いつもよりすこしだけにぎやかで、あっと言う間に過ぎ去ってしまう。
まるで幻のような毎日だ。

あすかも、あすかと一緒に暮らしている祖母も、いつもどおり、夜の七時前にはすでに夕食を終えた。ともに食事をとった祖母は、仕事の続きがあるため自室へそうそうに戻った。

冷たいお茶が入ったグラスを片手に。
自分の部屋へ戻ったあすかは、カーテンを開けて、窓越しに夜空をながめる。
まだ少しだけ青白い空に、柳のような花火があがったあと、葉がさんざめくように、光が揺れている。海辺で見物すると、名島の鳥居と花火が見事に映えていることだろう。たしか、あの島へ渡る船もでているときいた。

だけれど、あすかは、この部屋で十分だ。

夏は、思い出すことがたくさんある。

冷たいお茶に口をつけたあと、花火の神神しい光と激しい音に身をまかせながら、たちまちに暮れてゆく夜の空を見つめる。

そろそろ、一年になる。
あのとき、母方の実家である葉山ではなく、父方の別荘がある下田に引っ越す考えもあった。
だけれど、あすかは、この海から離れたくなかったのだ。あの人のいる町と、同じ海でつながっている、小さな海辺の町。あすかは、あれ以降、藤沢より向こう側に足を踏み入れたことは、ない。

ゆるやかにはじまった花火を、勉強机のいすにすわって遠い目で眺めていたとき、自宅のチャイムが鳴った。町内会の人か、それとも時折夜も更けた頃にたずねてくる祖母の仕事関係の客人か。

祖母に手間をかけたくなくて、階下へぱたぱたと降りたあすかが、居間のインターフォンをおした。

「はい」
「ああ、あすかか。おれだ」
「……!!あ、は、はい、おまちください」

インターフォン越しに聞こえてきたのは、八尋の声だった。
夏休みは、あの日以来会えていなかった。あすかは、あのときと似たような、ずいぶんリラックスした部屋着だ。更紗のロングスカートに、すこしゆったりとしたTシャツ。日中は庭仕事を手伝っていたため、汗ばんでいるし、入浴はまだすませていない。こんなにだらけた姿で会うことが恥ずかしいけれど、着替えるためにまたせるなんてことは、あってはならない。

あわてて玄関に駆け寄ったあすかが、おそるおそる扉を開いたあと、走り出でて、門も開錠する。
夕方を少し回った、夏の葉山。なまあたたかい風がふたりにぶつかり、ゆっくりときえていく。

「八尋、せんぱい」
「よぉ、あすか」

藍色の清潔なTシャツには、複雑な模様が染め抜かれていて。すらりと長い脚をつつむジーンズ。胸元には、ゴールドのアクセサリーがひかっている。
あすかの澄んだ瞳が、八尋のことを、おそれずに見つめた。

「こんばんは・・・・・・」

消え入りそうな声で、そして、すずしい声で。
その声が己の名前をよぶこと。その事実があまりにもいとしい八尋は、清潔な黒髪を撫でてやりたいことを耐えて、その厳かに整った顔を、ゆっくりと緩める。

「体調はどうだ?」
「はい、今は元気です。せ、せんぱいは?」
「おれはなんともねえよ。あすかメシくったか?」
「は、はい」
「家で見てんのかよ」
これ。

頭上でたからかに咲き続ける花火を、八尋が指さした。

門の手前でねむっていた柴犬が、あすかに何かをねだる。訴えたいことを悟ったあすかが、リードをほどいてやる。花火におびえてしまった子犬が、玄関の隙間から、とことこと家の中に入っていく様を、八尋が眼を細めて見守った。

「よく見えますから……」
「……ちっと出れっか?」
「えっ」

しっとりと重たい、夜の湿気。潮まじりのなまあたたかい風に吹かれて、あすかは、長い黒髪をおさえた。
そんなあすかを、まっすぐ見据える八尋。
反射的にうつむいたあすかが、小さな声で答える。

「お、おばあちゃんに、聞いてきます」
少しだけ、待っていてください。

八尋をいつまでも待たせるわけにはいかないから、あすかはあわてて玄関にかけこみ、一階の奥にある和室の障子を開いた。日本舞踊の師範をつとめる祖母は、事務作業の最中であった。この仕事は、あすかが手伝うと申し出ても、あすかにはさわらせてくれないのだ。そうして、八尋からの誘いのことをつたえると、いくらしずかな町といえど行事で喧噪がおとずれている夏の夜に、あすかを外に出すことに、祖母は、当然ではあるが難色をしめした。予測が容易であった祖母の答えに、あまりに悲しそうにな表情に変化したあすかを見て、祖母はしぶしぶ、条件付きでその誘いへの承諾をだした。

門の外で待っている八尋のもとへ、鍵をつかんだあすかがかけよる。

「えっと、今、7時ですよね、だから、8時までには必ず帰りなさいって、言われました」
「約束だな。守るからよ」

玄関を施錠して、門も施錠する。
そのまま八尋の背中を追いかけようとすると、門のそばにとめられたバイクに気が付いた。

「……バイクだったんですね……。窓、あけてたのにきづかたかった」
「花火の音がでけーからかよ?」

二人の頭上で、ひときわカラフルな花火が、まるで大きく口をあけて笑うように打ち上げられた。

「すごいですね」

あすかの澄み切った言葉にこたえるかわり、八尋が、静かに笑みを残したあと、歩き始める。海岸のほうではないのか。八尋の背中について歩くあすか。八尋は、森戸海水浴場と逆の方向へ、歩き始めた。

時折、夜空を振り返りながら。
だまって歩く八尋の背中に、あすかは懸命についてゆく。
海辺から漏れ聞こえていた、にぎやかな音楽と、ひとびとのざわめく声。今年からあんな音楽がなるようになったと祖母が語っていた。

人の声と、音楽と、花火の音。潮風に乗って漂うソースのかおり。まるで囃子のようなそれは、あすかと八尋から、次第にとおざかってゆく。

あすかが時々おとずれるパン屋をとおりすぎて。古めかしい住宅が密集する細い通りを、まるで幾度もおとずれたことがあるかのように、八尋は器用に縫ってゆく。


そっか、こちらのほう。


ひとりごちるあすかを穏やかな瞳で振り返ると、あすかが、照れたようにうつむいた。
いくら平穏な町といえど、夜半の時刻だ。八尋が、少し離れていたあすかのそばに戻り、そっと寄り添った。

「でんわ」
「えっ」
「だからよ、どうしてかけてこねーんだ?」
「・・・・・・御用もないのに、かけると、ごめいわくが」
「ケータイなんざよ、よーもねーときにつかうもんなんだぜ?」
おれぁよ、あすかとしゃべりてぇよ。

その小さな頭を、八尋が少しだけ力を込めてわしわしとなでると、ちいさな声で嬌声をあげ、頭をかかえたあすかが、困ったようにみあげた。そのやさしくさがった眉毛、愛くるしい瞳。不思議そうに開いた口元に、八尋がひきよせられそうになったとき、二人の頭上でひときわ大きな花火がタイミングよく、鳴った。

「・・・・・・本当に、困ったときに」
「すぐかけろよ」

からかい交じりであった声は、すうっと静まりかえるように、冷えて。
八尋は、あすかに畳みかける。

「すぐ俺にいえ」

どうしようもなくて、八尋のそばを歩きながら、あすかは、こくんとうなずいた。

こわがらせちまったかよ。苦笑いを浮かべた八尋が、あすかの背中をはしる黒髪をとり、すこしもてあそぶと、頬を紅色に染めたあすかは、こまったようにうつむいたままだ。


きれぇだな。
八尋の、そんな他愛ない言葉に、あすかは、潤んだ瞳で頭上をみやり、もう一度うなずいた。

昔からこの土地に建っている日本家屋に、湘南らしいログハウス。こぎれいな住宅に、メルヘンなカラーリングの家を縫ってあるくと、家々の間をひっそりと縫って走る、石段にたどり着いた。

「穴場」

八尋が先に石段に座り込む。
あすかは、そのそばに立ち尽くしたまま、海の向こう、沖で鳴り続ける花火をぼうっと眺めている。

たばこをひっぱりだした八尋が、逡巡したあと、ジーンズのポケットにしまいなおした。
そして、あすかを促す。

「すわれよ」
「は、はい」
知らなかったです、ここ……。

八尋のそばに、そっと腰をおろした。
ぬるくふきつけた夜風で、更紗のロングスカートの裾がひらりとまいあがり、あすかの白い足首をあらわにする。

「わたしの部屋もみえるんですけど、ここはもっときれいですね」
「そーいや、おまえの部屋行ってねえなあ」
「え、えっと、あの、このまえ」
「あの日以来いれてもらってねーよ」
「そ、そんな、」
「また、会いに行くからよ」
「……い、いえ、いつも、気にかけてくださって、すみません。ありがとうございます」

うつむいてっとよ、花火みえねーだろ。

海では、トロピカルな花火が乱打されている。あすかは、なぜだか恐縮しながら、八尋にさししめされる方向を眺めた。1000発程度しか打ちあがらない。そんな豆知識に、相槌をうちながら。

だけど、どうして、こんな夜に。
こんなに穏やかで、こんなに夜がきらめいていて、こんなにみんなが幸せで、こんなに切ない、夏の夜に。
八尋は、どうして、あすかのそばにいてくれるのだろうか。

「八尋せんぱい」
「なまえでよべっつっただろ」
「……渉先輩、……いつも、ありがとうございます」

今日はどうして。

そう、たずねるつもりでいたのに。
ただ、八尋がそばにいてほしい。そんな願いと、この状況を壊したくないあすかは、あいまいな礼の言葉を口にしていた。

あすかのちいさな言葉に、答えるように軽く笑った八尋が、造作ない言葉をつぶやく。

「毎日暑いな」
「そうですね・・・・・・」

海から、凛とした光の線が一直前に夜空に伸びたあと、それが、空中で思い切りはじめる。家で聞くときより、音は小さい。それでも、あすかにはこれくらいがちょうどよい。花火にベクトルを奪われつつあるとき、八尋が、おもむろに、あすかのなまえをよんだ。

「あすか」
「はい」

八尋が吐き出そうとしていた言葉は、あまりにエゴイズムに満ちていて。
言葉の選別など、容易にできるはずであったのに。ましてや言葉の選択を誤ることなど、ありえない。
八尋は、しずかに笑ったあと、こぼしかけた言葉を奥底にしまい込む。
こんなこと、八尋にとって、あすかの前でしか、起こらないことなのだ。

そうして、あたりさわりのない言葉を用意した。

「あすかにあうとよ、バランスとれんだよ」
「……バランス?渉先輩は、いつだって」
「ちげーよ、ときどきよ、デカくなりすぎちまってんだよ」
「……」
「そーゆーときによ、おれはおまえに会いにくるんだよ」


おまえに会えば、おれがおれでいられる。


沖合に浮かぶ船から投げ入れられた花火が、海の上で、激しく咲き誇る。
懸命に立ち上がろうとしている少女のこと、己はどのように扱っていることか。
八尋が自嘲気味につぶやく。

「都合いいよな、おれぁよ」
「ちがいます、わたしが、いつまでも、渉先輩に、あまえてるんです」

いつになく強い語気。その不器用なのどもとから、澄んだ声で、あすかは言葉をならべたてた。
八尋が、自身の真横に腰をかけたままめずらしくはっきりとした色をみせるあすかの瞳を、黙って見やった。

「もしも、渉先輩に必要にされてるのなら、わたしはそれが、うれしいんです」

自分の意見を、はっきりと。
遠い海にとどろく花火の音は小さくて、あすかの声はかきけされない。

「でも、こんなの、よくないんです」

八尋のほうを向いていた、あすかの小さな頭は、海に向き直って。
長い黒髪が、あすかの横顔をさらさらと隠す。


だけど。わたしは、いつでも、あなたに会いたい。


強い言葉を発したからか、あすかがせきこみはじめた。途端、八尋の顔色が変わる。喘息のひどい発作を起こしたあすかの姿は、過去にも幾度か見たことがある。
八尋が、あすかの痩せすぎた背中を、幾度も撫でる。
幸い、大きな発作ではなかった。
せきを幾度かくりかえしたあと、わずかな涙目で、呼吸をととのえながら、あすかは八尋に何度も頭をさげた。

「悪かった」

首を振る。胸の奥を整えながら。あすかは、うつむいたまま、何度も首を振る。

「ほら、ツラあげろ。花火きれーだぞ」

あすかの背中をたどっていた腕は、そのまま、あすかのあまりにもきゃしゃな肩を抱いた。

「本当に」

八尋に抱かれたまま、八尋によりそったまま。
この世でただ一人、あすかを安心させてくれる男性の、腕のぬくもりを感じて。
ふたりは、まるで彼岸花のような花火を眺め続けた。

あすかの肩から腕をほどいた八尋が、腕時計を確認する。

「50分だな、かえるか」
「はい、早かった、ですね」

ここに座っていられたのは実質30分にも満たないかもしれない。八尋があすかに手をのばした。やわらかな力で立たせてもらったあと、あすかのほうから、そのいとしい手をほどいた。

「あすか」

八尋になまえをよばれることが、あまくて、心地よくて、そしてこわい。
八尋の背中を追いかけながら、元来た道をたどる。
1000発の花火は、そろそろ終焉を迎える。

「この町はいいな」
「そうですね、わたしも、好きです……」
「この町はおまえを守ってくれる」

この子をここにおいておけば、だれも追ってこない。
あすかは、八尋のさいごの砦。

「あすかはよ、いつまでも、おれの、大事な女だ」

そうではないと、返事をするべきなのに。
うつむいて、あいまいにくびをふるあすかのちいさな頭を、八尋が、やさしく撫でた。


自宅の門の前に戻ると、花火大会からうちだされた人々がぞくぞくと帰路につきはじめていた。いつもはしずかなあすかの家の前も、今はしばし、かしましい。

「ありがとうございました。お話できて、うれしかった」
「またくるからよ」

厳かな言葉をおとして、八尋が素早くバイクにまたがる。
このまま、いってしまうまえに。この風のようなバイクが、アッという間に消えてしまうまえに。

あすかが、思わず息をのんだあと、ふるえる声で、ぽつりとこぼした。

「また、会いたい、です」

八尋が、愛機にまたがったまま、あすかの腕をつかみとる。
折れてしまいそうな腕。二の腕も、八尋の大きな手で簡単に一周してしまう。
あすかを引き寄せて、胸のなかに抱いた。

「また会いに来るからな」
見送るな。
ちゃんと家に入ってろ。
それと、ケータイに、電話しろよ?

あすかの家の方向に帰宅する人々の波は、いつしか途切れている。
八尋のバイクは、いくつかのいいつけを残したあと、あっという間に消えた。
八尋の言いつけどおり、あすかは、門を施錠したあと、すぐに家の中に戻った。

祖母は、入浴しているようだ。
なまあたたかい夜だった。不快な湿度や、むせかえるような熱気は感じなかった。
ただ、なまあたたかった。
外であったからか。八尋の節度ある香水の香りは、あすかにいっさいのこらない。

あのひとはいつだってこうして、あすかに何ものこさず、さってゆく。

なにも痕跡を残さず。

それはすべて、あすかを守るため。

それをまだ悟ることのできないあすかは、台所で手をあらったあと、自室までの階段を、ぺたぺたとのぼる。廊下で、犬が眠っているのを確認して。

ひらいたままだったカーテン。
その窓越しに、花火はもう見えない。
漆黒の夜、もう見えなくなったタンク。
これからが八尋の時間。
守る町へ戻った八尋のすがたを、その夜の先に、あすかはぼんやりと追い続けた。
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