夏的恋愛二十題
16.蚊ネタ

あすかにとって、バイクの排気音なんて、どれもこれも同じだ。

好きな人のバイクの音は、特別。
そんなわけはない。

何がなんだかわからないあの音は、夜も更けた頃唐突に鳴り響く。
それは、あすかが小さな頃からの、生活音のようなもの。すっかり慣れきったが、判別なんて、とてもじゃないけれど、不可能だ。

だから、夕食を終え、入浴もすませ、部屋着にきがえて、おもしろいテレビも見終わり、さて宿題でもするかという夏休みの夜長。
そんな晩にひびくバイクの音が、まさか、あすかの彼氏のものだとは。

いつまでもやまないそのエンジン音に、すこしの気味のわるさとすこしの好奇心を抱いてしまい、窓をほんのわずか開けて、微風がそよそよと流れる真っ暗の外をのぞきみてみると。

あすかの部屋の、斜め下。街灯が、その姿を照らす。
めざとくあすかの部屋をみつけたカズが、やたらと乱れた黒髪、ぼろぼろにすすけた特攻服、折れ曲がっためがねをずらして、悪びれないさまで、へらりとわらった。

カズくん!!だなんて、大声ではよべなくて。

あわてて部屋をでて、二階の廊下を小走りで駆け抜け、二階から靴を履いて外にでる。

音をたてないように、外に備えられている階段をおりてゆく。
そのすがたを確認したカズが、バイクのキーをぬいた。
あたりは、すうっと静けさを取り戻す。

「カズくん!?」

あすかが小声で叫ぶと、傷ついたカズが、力なく笑った。

「よ、あすか。きちまった」

小粋なリーゼントはぼろぼろで、特攻服も一部破れている。えりもとには、無残な血のしみ。口元にはかわいた血のあと。

「カ、カズくん、どうしたの、そのケガ、大丈夫・・・・・・?」
そのかっこで来ちゃ・・・・・・

それなりに静かな町だから、夜の話し声は、あたりにずいぶん響くのだ。
夏にしては過ごしやすい夜の階下で、いつまでもつづく、男の低い声と女の金切り声。そんな、地味な騒音に悩まされた経験、あすかはいくらもある。これじゃ、あのときの迷惑な男女と同じじゃないか。
それに、こうしている間に、一階にいる父親と母親にばれるかもしれない。

「こ、こっち!」

一階は、父の経営する建築会社の事務所。
二階が、あすかと弟の部屋になっている。

階段を使って土足で二階へあがることもできるので、あすかはあわてて、階段の裏側へカズを招いた。自分の地味な部屋着など、かまっていられない。

あの理科室の日から。
気付けば、カズと付き合いはじめて随分時間は過ぎた。
中学校では、付き合っていることを、周囲になんとなく隠していたのだ。カズとあすかのことを知る者は、数えるほどであろう。
中の上レベルの高校に合格したあすかのことをカズはとびきりほめてくれて。両親は、まあこんなものかという顔をしたにすぎなかったのに、カズはこころからあすかをみとめてくれた。
”有名”な私立高校に入学したカズも、新しい友達がずいぶんたくさんできたようだ。カズの大切なものに首をつっこむ気はないけれど、こうして、カズが、カズにとって特別な服をまとってあすかの目の前に立っている姿を、あすかが真っすぐ見据えたのは、数えるほどだ。

そして、カズの団地に何度かあそびにいき、カズの母親にあいさつをしたことこそあるけれど、あすかはいまだ、カズのことを、両親に紹介したことはない。
家は教えていたけれど、カズが自宅におとずれることだって、はじめてなのだ。

「ケ、ケガが」

安っぽいつっかけは、慎重に足を運ばないと階段とぶつかり大仰な金属音をたててしまう。カズは地下足袋でぺたぺたとのぼっているけれど、あすかは足下に気をくばり。小声で、カズのことを気遣った。

「ああ、家に帰るまえによー、あすかに会っとこーっておもってよ。夏休み、ぜんぜん会えてねーだろ」
「それはしょうがないことってわかってるよ・・・・・・」

カズが一番大事にしているものは何なのか。
それくらい、あすかだってわかっている。

「私だって部活があるから、いいの。大丈夫」
「マジでへーきなの?」
「そりゃ、会いたいけど……」

二階のふるびた扉から、カズのことを招き入れる。
やや天然が入っている父親はともかく、鋭い母親は感づいているかもしれない。カズの地下足袋を脱がせるのを手伝おうとすると、笑って遮られた。

カズが玄関にすわりこみ、手早く地下足袋をぬいでいた、そのとき。

「まてよあすか、これなに?」

何かに気づいたカズが、あすかの腕をおもいきりつかみ、ぐいと己の元にひきよせる。
汗と、土と、血のにおい。傷ついたカズの顔を間近でみることがつらくて、あすかは顔をそむけた。
あすかの首もと。鎖骨からつらなる、ちょうど、頸動脈のあたり。ふくらみをたずさえた赤みが、首筋にのこっている。

「蚊だよ・・・・・・」
ほかになにがあるの。

ひんまがり、ズレたカズのめがねを、そっと元に戻してあげながら。
妙に真剣な瞳のカズ、傷だらけのそのすがたを見ていられなくて、顔をそむけていると、生暖かい廊下の空気を感じ、あすかはふと現実にひきもどされた。

「てか、ここでしゃべってると、ばれちゃうの!」

すぐそこの部屋には弟がいる。きっと、いまだ寝ていないはずだ。
カズの手をつかみ、ひっぱってたたせる。

「話はわたしの部屋でね?」

弟の部屋の前を、シーっといいながらとおって。
腑に落ちない顔をしているカズを、自室に押し込んだ。
きちんとベッドメイクもされていないし、ベッドの下にいろいろなものをつっこんでいるし。
色合いの統一感もない雑然とした部屋が恥ずかしいけれど。フローリングの上に無造作におかれたクッションに、カズをすわらせた。

安堵したようなためいきをひとつついたカズが、無造作に特攻服をぬぎすてた。

それに、さわっていいのかどうかわからなくて。

「これ、そんなに厚くないんだね・・・・・・」

まだまともに見据えたことのないカズの上半身から目をそらしたまま、あすかは、特攻服の感想をぽつりとつぶやいた。

「飲み物とか出したいんだけど、そしたら下にいかなきゃいけないんだ・・・・・・」
「気ぃつかわせちまってんなー?いらねーよ!」
「でも、冷やすものとか、必要だよね、その、ほっぺとかさ・・・・・・」
「いーよそんなの。あーー、外暑かったんだぜ!あすかの部屋クーラーあっていーよなー!!」

カズが床にぺたりとたおれこみ、強めに設定していた冷房からの冷風を、一身にあびる。鎖骨あたりには、靴の痕。かわいた血が、あすかの部屋の床にはらはらとおちた。

「し、しずかにしてね、弟にバレちゃう」
「そーいやいたな?オレ、ショーガクセーの時スポ少で一緒だったぜ?元気してっか?」
「寮のある中学校行ったんだよ、今帰省してるの」

カズが、ぐしゃぐしゃにつぶされたセブンスターをポケットからひっぱりだしたあと、少し逡巡し、元に戻した。父親もたばこを吸うから、適当な嘘はつける。かまわないよと声をかけようとしたとき、

「でよ、その痕」

あすかのベッドに引っかかっていたタオルを、カズに手渡す。

「蚊だってば!!」
「ほんとに蚊かよ」
「蚊だよ!ほら、とんでる」

あすかがぴしゃりと蚊をはたいた。
カズのむきだしの素肌にも一匹とまり、形のいい手で、カズが叩き落とす。カズの手は大きく、しなやかで、とてもきれいなのだ。

「ほらね?」

上半身むき出しのカズにいそいそと近寄り、首筋のあとをみせつける。ぷっくりとふくらんだそれは、どうみても虫の手によるもの。
わからずやのカズのメガネをむしりとり、ティッシュペーパーで、乾いた血液と土埃をふきとった。

「ケガ、いたいよね?」
「いんや、慣れてんよー?」

手当、すればいいものか。男子のケガの手当てができるのは、マネージャーと彼女だけ。この間友達に借りた少女漫画に描いてあった言葉。
しかしこの部屋には、ワセリンと絆創膏と、虫さされの薬しかない。

そのとき、あすかの部屋の扉がコツコツとノックされる。
あすかもカズも、ぴくりととびあがり、そっとくっついた。
そして、遠慮なく開けられる、あすかの部屋の扉。

そこに立っていたのは、あすか、そしてカズよりも、ずっと身長が高い、あすかの弟だった。

「おいあすか。これいるんだろ」

あすかのことを、名前で呼び捨てにする弟が、あすかの部屋の入り口にコトリと救急箱を置いた。

「お姉ちゃんってよべっていってるじゃん」
「キモちわり。ねえ、今川さんでしょ?」
お久しぶりっす。

あすかより頭2個分高い身長で、体格もご立派な弟が、あすかの部屋にずずいと侵入した。

弟は、はるか青森の全寮制の中高一貫校に合格してしまい、実家を離れて寮に住みこみ勉学と部活に励んでいるけれど、弟とカズとは小学校時代からの顔見知りなのだ。

よぉ!とへらりと笑い、弟の名前を気安く呼んだカズは、あすかをさしおいて、弟と妙に仲良く話し込んでいる。

今川さん、爆音ッスか?オレのダチの兄貴、夜叉神だったんすけど、転勤で北海道いっちまったんすよ。
そんな、あすかにはよくわからない専門用語なんて使って。

あげく、カズの腕をかるく診て、打撲はしてないから顔だけ手当してあげればいいだなんてアドバイスをしてくるしまつだ。

「じゃましないでよね」
「はいはい、でてくよ。たぶんオヤジにもお母さんにもバレてないんで、フツーにでてったんで大丈夫だと思いますよ?」
泊まったらバレますよ!お母さん、毎日あすか起こしにくっから!

生意気な口をきいた弟が、部屋からでてゆく。

「よく育ってんじゃん。ガタイ、おれよりいいな??」
「アイスホッケーやってるの。お盆休みで帰省してて。生意気だよね」
「サッカーやめちまったんかよ、うまかったのによ?」

弟がおいていった救急箱。よくみれば、父の事務所に置かれている置き薬箱だ。薬業者が置いて回る救急箱。これを消費すると、親にバレてしまうのではないか。
しかし、そうはいっていられない。

「えっ、でも手当ってしたことない」
「いーよいーよ、自分でやれんよ?」
「じゃ、やりかたおしえて?やるから」
「んー?消毒液ひたすだけだよ」

薬箱のなかにつめこまれていたカット綿に、消毒液を浸して、口元の傷におもいきりあてると、カズが、蛙のようなうめきごえをあげた。

「しみるよね、ごめんね。私、こんなケガ、保育園の頃しかしたことないなあ」
「オンナノコはふつーそーでしょ?いーよ、あとオレやるから」

カズは、カズらしい誇りを持っている。
長く付き合うなかで、あすかはいつしかそれを悟った。
そのプライドが傷ついたからといって、あすかのせいにしたり、あすかに八つ当たりすることはない。
だけれど、ほんのすこしだけ、カズは、自分の世界に戻ってしまう。
わずかのあいだ、自分の世界で、これまでの自分とこれからの自分と話し合いをしたあと、また、あすかに笑顔をみせてくれる。
カズはそういう人なのだ。

よごれた脱脂綿を持ったまま、あすかは、カズが自分の傷と向き合う時間を、邪魔せずに待っている。

傷口にあてるカット綿をそっと手渡しながら。

「大丈夫……?」
「いきなり来ちまったのによ、サンキュな?」
きゅーきゅーばこのも、勝手に使っちまってよ?

「カズくん、会いに来てくれてうれしい」

心配。それは、ですぎた言葉ではないだろうか。
カズの気遣いを、傷つける言葉ではないだろうか。

カズが、大事なものを大事にするのも。
カズと、なかなか会えない期間があるのも。
カズが、あすかの家にほとんと訪れないのも。
すべて、あすかを想ってのことなのではないか。あすかはようやくそれに気づきはじめている。

「心配すんなよ?ちっとヘマしただけ。誰にも何もねーんだぜ?」
「でも、あんまり、無茶しないで」
「なんかよー、オレ、都合いいよなー?」
「いいの。でも時々元気な顔みせてね」
「あすかん家にはよ、メーワクかけっかもしんねーから?近よらねーよーにしよーと思ってたんだけどなー」
今日は、来ちまった!

あすかがきれいにみがきあげたメガネをかけなおして。
血だらけの特攻服をさらりと羽織る。
血だらけのタオルをばつが悪そうにつかんでいるカズに、あげる!と一言伝えると、あすかの手がひかれた。

汗ばみ、血のかおりが漂いつづける、カズの胸元。
抱き寄せられたまま、あすかは、そこに、体を預けている。

「ケンカ……あんまりしないでほしい……」
「……あすかの前では、しねーから」
「でも私、大丈夫だから、こういうときまた頼ってね」

カズに名前を呼ばれて。
軽く上を向くと、ややのびてしまったあすかのショートボブ。カズにより、真っ白な耳にかけられる。

先ほど手当てした口元には、絆創膏がぺたりと貼られている。
かすむ瞳で、痛々しい傷をみつめていると、あすかのぬれたくちびるが、かさついたカズのくちびるでそっと覆われたあと、それは、ほんの少し深くなった。

そのまま、カズのくちびるが、あすかの首元にすべりおちたあと。
真新しい、赤いあとに、カズがおもいきりかぶりつく。

「あっ!ちょっ……と、痛い!」

ちゅっと、音をたててはなれた、カズのくちびるは、蚊にさされたあすかの痕のうえから、真っ赤に燃える花を咲かせた。

「次はよ、コーコーセーらしい服で来るからよ!」
「気を付けてね?」
「裏口じゃなくてよ、正々堂々な!」

風のように立ち上がり、廊下をぺたぺたと歩いてゆく。
カズのその疾風のような後姿を、あすかはあわてて追いかける。
座り込み、地下足袋を装着するカズの肩にそっと手を置くと、カズが、正直な笑顔で、へらりと笑った。

階段を、ぺたぺたと降りてゆく。
そして、肩をすくめて。
二階の扉から見送るあすかに、ニカっと笑みを残したあと、カズは、バイクを押して歩き始めた。

あすかの家から数十メートル。二階から見えなくなるあたり。
ようやくカズは、バイクにまたがり、非常に特徴的な音をたてて、カズはアッという前に消え去った。

カズに赤くすいあげられた首元。
片手で、そっとおさえながら、その音だけは覚えておこうと、反芻していると。

あすか、だれかいるの?
一階台所の勝手口をあけた母親が、二階に向かって叫ぶ。

仰天しているあすかをよそに、あすかの背後から顔をのぞかせた弟が「オレだよ!」と返事した。

早く寝なさいよ。
やや機嫌の悪い母親が、バタンと台所の扉をしめた。

「あすかも苦労すんね!」
薬代はあすかがだせよ。

生意気な言葉を残して、おやすみーと挨拶をのこし、弟は自室に消えてゆく。

ぬるい夜風があすかの頬を撫でる。
残りの夏休み。カズと幾度会えるだろうか。そのうち幾度、カズは、傷をおっているだろうか。
この町のどこで、バイクの唸り声が聞こえる。
もうわかる。
あれは、カズの音ではない。カズのバイクの声ではない。
どうか、あの音が鳴るとき、カズが傷ついていなければいい。カズが、一人で苦しんでいなければいい。
そんな頼りない願いをちいさな心の奥に抱えながら、あすかは二階の扉を閉め、首元に残った赤い痕を、こするように、撫で上げた。

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