日常シーン10題
1.風の強い日

小学校のころ、辻堂の塾に通っていたとき。

夜遅くまで続く授業が終わったあと。同じクラスの子供たちの親は皆、高級車やかわいらしいこぶりの車で迎えにくる。

そんな中、あすかの父親は、あすかを軽トラで送迎していた。

そんなことをバカにするような子はいなかったものの、あすかは、どこか恥ずかしかった。

あれからずいぶん時間はたって、高校一年生になった今。
あの頃の自分は、ずいぶん幼稚だったと思う。
人と違うことは、けして恥ずかしいことではない。
そんなことを恥ずかしがる自分自身こそ、了見がせまかった。

軽トラなんて、シブくて、飾らなくて、無骨で、けっして悪くない。

そう思うのは、あすかにとって従兄弟にあたる、この家のこの兄弟。
真嶋夏生と、真嶋秋生。

確実に、彼らの影響だと思う。

父親は漁師。母親も、海の女。あすかは鵠沼のお嬢様女子校に在学中だけれど、大学は海洋学科に行くつもりだ。
直営店を兼ねた自分の家の刻印が入った軽トラ。
見るからに漁師という風格をそなえた父親の運転する軽トラの助手席にのりこみ、あすかは、腰越から、はるばる横浜は山手台までやってきた。

あすかの膝の上には、大量のしらすをのせていた。悪くならないように、大量の氷と水がはいっていたから、制服のスカート越しにつたわったひんやりとした感触は、今も太股の上に残っている。

あすかの父の弟にあたる、この兄弟の父親は、すでに亡くなっている。その後、母親も喪った兄弟。その面倒をみているのは、この兄弟の祖母だ。この店の事務作業も一式、祖母が担当しているはずだ。この家のすぐ近所に暮らす、この兄弟の祖母は、数年前までパワフルに兄弟の面倒をみていたものの、今は、体をやや悪くして、休んでいることが多いようだ。

いったんあすかとしらすをおろした父親は、祖母の家まで出迎えに。

そして、あすかは、かって知ったるこの家の冷蔵庫にしらすをつっこんだあと、久方ぶりに、この兄弟ふたりと水入らずの時間をおくっている。

この工場に足を踏み入れたのも、なんだか久方ぶりだ。でも、あまり様相はかわっていない。隅っこには、カバーのかけられた大きなバイク。解体された車。スクーターに、ぼろぼろになったバイク。あちこちに散らかってしまった工具は、きっと、散らかっているのではなく、仕事しやすいようにおかれたままなのだろう。

「オウ、あすか」

勝手口からひょこっと顔をだしたあすかに、シブい声がとんできたのは、先ほどのこと。

「夏生さん!こんにちは」
「肩くるしー呼び方ぁいらねェよ?」
「じゃ、ナッちゃん」

顔をオイルまみれにしながら、壊れた車と向き合っている秋生が、バイクのすきまから、ちらりとあすかをみやった。

そんな黙礼だけではものたりなくて。

「アッちゃん、ひさしぶり」
「オゥ」

スパナ片手に鼻をこすり、あすかとまっすぐ目をあわせないまま、秋生はひとことだけあいさつをくれた。

そして、工場のかたすみのぼろぼろの事務いすに腰掛け、くるくると回りながら、あすかは、ふたりの仕事ぶりを、興味深そうにながめまわしている。

車から顔をあげた秋生が、あすかにぼそっとたずねる。

「・・・・・・なんで制服だ?」
「午前中だけ部活だったからだよ」
「へー・・・・・・」

何部なのか、どうしてその部活に入ったのか。
そうして会話をスムーズにひろげてゆく技術をもたない秋生に、今も昔もかわらない誠実さと不器用さを感じて、あすかは苦笑いすると同時に一抹の安堵もおぼえた。

「あすか、茶髪かよ。ヤンキーになったんかー?」

助け船をだすように、夏生が会話にはいった。薄暗く、蒸し暑い工場。汗のつぶすら夏生を映えさせる。渋く、かざらないのに、夏生は男らしい。その精悍なすがたを、まぶしく眺めながら、あすかは明るく答えた。

「部活のせいでこうなっただけだよ。でもアッちゃんの緑よりマシだと思う」
「何だマシだぁ?」

秋生がすごんでも、あすかは意に介せずけらけらとわらっている。髪の色が何色でも、秋生のなかみは、むかしとなにもかわっていない。

ぼろぼろの事務イスにすわったまま兄弟とじゃれているあすかが、ふと、机の上の書類の山に目をとめた。

「これ、領収書?」
「おー、たまっちまってよ」
「さわんないほうがいい?それとも張り付けとこうか」
「そこに帳簿あんだろ、はっといてくれっかよ」
「やっとくね」

残り少ない水ノリを逆さまにして、たれてくるのを待ちながら。片手は、領収書やレシートが乱雑にはりつけられたせいでぶよぶよになった帳簿をひらいて、あすかは領収書をはりつけはじめた。

「慣れてんだナ?」

夏生がいつのまにかそばにたっていて、首にかけていたオイルまみれの手ぬぐいで汗をぬぐった。

「家の手伝いでやるからね」

工場のすみに鎮座するぼろぼろの冷蔵庫。夏生が扉を引くと、そのなかにはお茶や水、缶ビールにソフトドリンクなど、ところせましと詰まっている。一見ぼろぼろであるけれど、充分使用できるようだ。そのなかから冷えたコーラをとりだした夏生が、あすかのすわるデスクにことりと置き、自分は水を飲んでいる。

「ありがとう!アッちゃんものむ?」
「俺んちのだろーが・・・・・・」
「あはは、そうだった。アッちゃん、工業高校だっけ」
「ちげーよ・・・・・・」
「そっか、間違ってごめんね」

秋生の誠実な仕事ぶり、魔法のように動く手つき。すでに専門的な資格をもっているのだろうか。あすかの戯言を受け流し、わき目もふらず、黙々と仕事をつづけている。

コーラをこくこくと飲んでいると。
工場の向こうがわ。自宅と工場をつなぐ扉から、あすかの父が声をかける。兄弟の祖母もそこから顔をだした。
いわく、メシの支度を手伝えとのこと。

「まだ昼ご飯食べてなかったの?しらす釜上げしてきていい?」
「頼むわ」
「いいー?アッちゃん」
「・・・・・・勝手につかえよ」
「あすか、あんましよ、秋生をからかってやるな・・・・・・」

いたずらっぽい笑みをのこして、コーラをつかんだまま、あすかは扉の向こうに消えてゆく。
ほこりっぽい工場内から、場にそぐわないオンナの気配が消えたので、秋生はなぜか安堵のためいきをついた。無骨で男くさい工場に、シャンプーのにおいと、なぜだか塩素のようなかおりものこる。
たばこに火をつけた夏生が、そんな秋生をにやにやと眺める。

「あすか、別嬪になったナ?」
「別嬪ってなんだよ、オヤジくせーこと言うんじゃねえ」

車の下にもぐりこんだ秋生は、兄にすら、目をあわせることができない。


あすかは、手慣れた調子でしらすをかまあげする。こうしておけば、様々な用途につかえるうえ、比較的長持ちする。そのしらすで、祖母とあすかの父が、乱雑に、だけれど実に美味なしらす丼をつくりあげた。

「ナッちゃん!アッちゃん!ごはんー!」

勝手口から顔だけのぞかせ叫んだあすかは、そのまま再び台所に消えてゆく。

「メシくうぞ秋生」

黙ってあとからついてゆく秋生は、妙にきれいにかたづけられた居間にならべられた昼飯に目を見張り、無言で一気に平らげはじめた。

きもちよく食べつくされたどんぶりをざっと洗うと、夏生も秋生も、そのまま休憩をとりつづけている。遊びたいさかりの年頃だろうに、こうして、親の残した工場を、ふたりで愚直に守り続けている兄弟。どんなにかっこつけたって、どんなにかざりたてたって、この兄弟の誠実さには、どんなオトコもかなわない。あすかは自信をもって、そう断言したいと思っている。

日曜の昼下がり。適当にチャンネルをまわすと、競馬中継やプロ野球中継。冷たい麦茶をふたりのグラスと、父親と祖母のグラスにそそぎながら、しばらく、家族と従兄弟みずいらずの団らんは続いた。

そして、テーブルの上にどかんと置かれたのは、一升瓶が3本。
若干体を悪くしたとはいえ、なんせこの兄弟の祖母。パワフルで豪快な女性だ。酒もずいぶんいけるわけで。父が、大町の酒屋で買い込んだ酒をみやげにしたものだから、父と二人、昼下がりのこの時間から、ずいぶんできあがっている。酒に手を付けようとした兄弟を、あすかは遠慮なくしかり飛ばした。


そうしていると、時刻はそろそろ夕方。

「あすか、ガッコだろ明日」
「そうだねー、あれじゃ車で帰れないや、電車で帰るよ」
お父さん、ここに泊まりそうだね。

居間にぺたりとすわりこんでいたあすかは、バッグを肩にかけ、そろそろ帰ろうかと立ち上がった。早く帰らなければ、東海道線は実に混むだろう。

「おくってってやるよ」

夏生がたちあがるので、あすかは手をふりながら遠慮する。

「え、いいよ、電車で帰れるよ」

おくってもらえ!と、できあがってしまった父親の声がとんだ。祖母は、しらすをつかった夕食のしたくをはじめている。

「甘えとけよ?秋生もこい」
「・・・・・・あぁ?マ、マー坊くっかもしんねーしよ」

マー坊というと、月曜日の夜にやっているバラエティ番組で、アイドルが扮しているキャラクターを思い浮かべてしまうけど。秋生からしょっちゅう聞くその名前。まだあすかは会ったことがない。秋生の通う高校すら知らなかったあすか。どんな高校生活をおくっているのか、興味はつきない。

「アッちゃん無理しなくていいよ、ナッちゃんと帰るから」
「・・・・・・しゃーねーな」
「やった!久しぶりに三人で車に乗れるよ」
「車まわしてくるからな」

工場のまえに出て、夏生の軽トラを待つ。腰越につくと、ちょうど夕暮れがきれいな時間だろう。

「アッちゃん、忙しいのに長々とごめんね」
「・・・・・・・」
「アッちゃん、高校楽しい?」
「わるかねえ」
「アッちゃん、彼女できた?」
「・・・・・・チッ」
「舌打ちすることないよねー……でも感じ悪い質問だったかな?ごめんね?」

秋生の顔をのぞきこみ、あすかはこざっぱりと謝った。
秋生が、おもわず、同じことをたずねかえそうとしたとき。

夏生の軽トラが、目の前にとまった。

車のドアをあけて、あすかは真ん中に。秋生はそのとなりに。本来一人掛けである軽トラの助手席。そこに、ふたりはぎゅうぎゅうに詰め込まれた。

「狭ぇよ・・・・・・」
「我慢だよアッちゃん。帰りはふたりだけでしょ」
「そこつっこんでる茶、のんでいいからな」
「ありがとう!」

軽トラがスムーズに走りはじめる。見慣れない住宅街。あすかはきょろきょろと周りを眺めるので、秋生はおおげさにためいきをついた。

「あ、今度大船の親戚の法事があるでしょ、あれはお父さんに頼んでこっちから迎えにいくよ」
「どっちかが顔だすからよ、二人は無理だろーナ・・・・・・」
「そっか、じゃー二人そろってあえるのはまただいぶ先になるね」
「最後にきたの、正月だったよな?」
「そうそう、よく覚えてるアッちゃん」

めったに横浜には出向かないので、あすかは軽く観光客気分だ。海岸通り、ベイブリッジをわたって。歓声をあげながら、秋生の至近距離で、あすかは遠慮なく秋生に会話を次から次へ、ふってゆく。

「昔はよくお泊まりしてたよね」
「んなにしてたかよ」
「アッちゃんが海でおぼれたやつ・・・・・・」
「・・・・・・あすかに深いところ行かされたやつかよ」

あったあった!飾ることなく、大きな口をあけて、あすかはケラケラとわらう。小汚い軽トラが妙に明るくなり、夏生も、二人の会話に茶々をいれながら、笑みを浮かべて運転をしている。

「にしてもよ、髪パッサパサだな」

ほとほと疲れ果てた秋生が、あすかに憎まれ口をぶつけた。

「塩素でこうなるの。トリートメントもしてるんだけどねー」
「あすか水泳部だったか?」

夏生が、興味深そうに口をはさんだ。

「そうだよ、バック専門。このまえ日本選手権に出たんだけど、それテレビでやったんだよ。私の出たレースも映ったよ」
オリンピック出る子に負けたんだけど。

夏生が心から感心した声をあげ、秋生も、ものめずらしそうに話を聞いている。

「んだよ、教えろよ」
「お父さん、教えたっていってたんだけど・・・・・・アッちゃんは知ってた?」
「どーでもいいよ」
「ひどい・・・・・・」
がんばったのになあ。負けたけど。

まるで拗ねた風に言ってみせたあすかだが、何一つ気にしていない。秋生はいつまでも、あすかのその変化と、あすかの続けている努力、あすかの話した内容に心を寄せて、次の言葉を選ぼうとしている。

すべてを悟っている夏生は、ニヤニヤと笑いながら。慢性的渋滞の、初夏の朝比奈峠を越える。

「次勝ちゃいーじゃねーかよ」
「ん?何が??」

時間をかけて会話の答えをひねりだした秋生の舌打ち。あすかはそんなことつゆほども気づかず、肩口できた日焼けあとを、べろりとむき出し秋生にみせびらかし、秋生はあきれながら、顔を紅潮させ、そっぽを向いた。

そして、秋生に、あれをみろこれをみてと指さしてまわりつづける。

あすかの生活は、腰越から藤沢、辻堂あたりに、せいぜい大船。時折鎌倉でことたりてしまう。兄弟とこうして車に乗っているだけで、まるで幸せな観光気分なのだ。

そして、ようやく湘南だ。

「湘南かよ、久々だな」
「そっか、ナッちゃんは忙しいよね。アッちゃん、もっと遊びに来なよ」
「はぁ?ガキの頃じゃあるめーしよ、今更おめーと何して遊ぶんだよ」
「あっちゃんサーフィンできる?できないなら教えてあげるよ」
「何がサーフィンだ、チャラチャラしやがって・・・・・・」

チャラチャラしてるのは一部だよ!と、真面目に怒るあすかに、秋生は、わ、わりぃと素直に謝った。そして、続けて、気にしていたことを口にする。

「さっきよ、パサパサとかゆってよ、わるかったな」

秋生は、あすかの髪の毛を指さした。
指をさすだけで、けしてさわらない。
そうだ、女の頭なんて、親と恋人と美容師以外、触ってよいものではない。秋生の行動は、そうした紳士的意識より、照れからくるものだろうけれど。
まだ小学校低学年のころ。秋生と髪の毛のひっぱりあいをして、片瀬海岸でころげまわったことを、あすかはよくおぼえている。あすかの髪の感触なんて、秋生はきっと、わすれてしまっただろう。

「だってホントのことだもん!こっちこそアッちゃんの緑色からかってごめんね」
アッちゃんの美学でしょ、それ。わかった、バイクとお揃いだ?

ようやく単車の話になったので、秋生の瞳に生気とやる気がやどった。ぽつりぽつりと、己の乗るバイクの話をはじめた秋生を、夏生はめずらしそうに見やっている。あすかは、興味津々にその話に耳をかたむける。

「あすかぁ中免とらねーんかよ?」
「うちは、免許取りに行くこと自体が禁止だから、もしとるとしても卒業後かなあ」
「やめとけ、ケガすんぞ」
「やめといたほうがいいのかなあ、バイクに乗ったら、ナッちゃんちに迷惑かけそうだしね」
「いーんだぜ。うちぁよ、ゼニになっからよ」
「あ、そっか!じゃーとろっかな。でも水泳の日本代表って、バイク禁止なんだよね。もしも代表に入れるくらい強くなったら、たぶん無理だなあ・・・・・・」

うだうだと秋生とじゃれあい、夏生に見守られながら、車内で過ごしていると、いつのまにか、腰越。あすかの自宅から数十秒で海。

横浜とは違い、強い風が吹いている。

「海岸よっていく?」
「そーすっかよ」
「……」
「秋生」

そのとき、あすかのお嬢様学校の制服のスカートが、強い潮風にあおられて、ひらりとめくれあがった。

「おい!」

罵声と心配とほんのすこしのしたごころを兼ねた声で秋生が叫ぶと、あすかのチェックのスカートの下からあらわれたのは、膝までの味気ないハーフパンツ。

夏生が肩をふるわせて笑う声と、秋生が肩をおとしてためいきをつく音がきこえる。

「・・・・・・」
「いつも履いてるよ」
「色気がねーゾ・・・・・・」
「どーでもいーんだよ色気なんて。スカートもキュロットにしてほしいくらい」
「キュロット?」
「ナッちゃんはわかりますよね」
「知らねえ」

強い風が吹く。その風から炎をおおうように、オイルまみれの手のひらをかぶせ、夏生がたばこに火をつけた。

「たばこ・・・・・・は、ナッちゃんはいいのか。ん?いいの?今何歳?」
「35」
「何言ってるの?20・・・・・・だったよね?」

肩をふるわせて笑う夏生の近くで、秋生もたばこをとりだそうとするものだから、あすかはそれをギャーギャーととがめた。素直にいうことを聞く秋生の姿に、夏生はふくみわらいがとまらない。

たばこをくわえたまま、強い風からあすかを守るように立った夏生が、なにげなくあすかにたずねる。

「あすかはオトコいるんかよ」
「さあね」

なにもモテるわけではないけれど。
男子と付き合った経験すらない。

でも、代表候補合宿で一緒になった、平塚の高校の水泳部の男子に、付き合ってほしいのだが考えておいてほしいと告白されたのは、つい最近のことだ。
でも、あすかの人生で、この兄弟以上にイイオトコには、出会ったことがないのだ。

夏生に、同じことを尋ねかえすことはできなかった。秋生に、かさねて聞くこともできない。

ただでさえ、今日の藤沢は、風の強い日。
海辺の風は、さらにはげしい。
ひらひらと舞い上がるスカートに、夏生はどうということもない様子。秋生ですらすっかり慣れたようすだ。

「スカート脱ごうかな、どうせハーフパンツだし」
「バカばっかぬかすんじゃねえよ・・・・・・」
「そーだぜ、あすか」

夏生にまじめなこえでとがめられると、素直に反省したくなる。

「ふざけたこといってごめん」
なさい。

敬語をつけくわえると、なんだかはずかしくなった。

「イー女になったな?」

かげりはじめた太陽のせいか、強い風のせいか。目をほそめていう夏生のすがたに、あすかは妙にむずがゆくなる。元気と物おじしない肝っ玉がとりえなのに。恥ずかしがったり、もじもじと引っ込み思案な態度をとったり、そんなの自分らしくないのに。

「・・・・・・」
「ナッちゃんは、言うまでもないけど・・・・・・アッちゃんもイイオトコになったね」

腰越、海岸から、徒歩数十秒の自宅。父親をおいてきたから、今日は母と二人きり。そろそろ、兄弟と、しばらくの別れの時間だ。

軽トラに乗った兄弟に、しばしのわかれの挨拶を交わす。

「ありがとう、じゃあ法事でね、どっちかは絶対きてよね」
「秋生が行くだろーナ。じゃあな、部活がんばれよ」
「ありがとう!ナッちゃんも無理しないでね、アッちゃん!」
「んだよ」
「・・・・・・アッちゃんも、一人でかかえすぎちゃだめだよ」
「・・・・・・しったよーなくち、きくな」
「・・・・・・ごめんねアッちゃん。あっ、お父さんのことごめんね!それじゃ、法事でね」
「・・・・・・」
「秋生」

夏生にとがめられ、舌打ちをした秋生がことばをえらぶ。

「あー、えー、あすか。・・・・・・まあ、無理すんな」
「・・・・・・ありがとう!お父さんがメーワクかけてごめんね!じゃあね!次大船でね」

軽トラはゆるゆると出発する。あすかのシャンプーのかおりと、塩素のかおりは、車内に充満している。兄弟どうしのしずかな車。いつものことなのに。

あのころのように、身を乗り出して手をふってくれることなんて、ないけれど。
あのころのように、いつまでも手をふってくれることも、ないけれど。

134号線は大渋滞。だらだらとすすむ車の海にのまれて、秋生は、隣にすわっていたあすかのためにずっと我慢していたたばこに、ようやく手をつけた。

「あすか、おもしれー育ちかたしてんなァ」
オヤジの影響かよ。

「水泳かよ、観に行ってやんねーとな」

たばこを口にくわえたまま夏生が語る。

キラキラときらめく、夕暮れの湘南の海。
窓枠にひじをついたまま、秋生は、やや憮然とした、そしてどことなく満たされた顔で、その先が見えない深いブルーの海を眺めている。

「オメーには、ああいう引っ張ってくれそーなオンナが合うんじゃねーのか?」

からかいまじりの、兄からのそのことば。秋生が感情的に返す。

「ア、兄貴こそよ、あんなガキの世話すんのが似合ってるよ」
「ありゃ、ガキじゃねえぞぉ?しっかりしてんな、あすかぁよ」

鎌倉高校前で、夏生は左折する。勝手知ったる抜け道をつかい、横浜へ向かうのだろう。秋生は、海を名残惜しそうにながめた。

「オレも行くかよ、大船」
「マジかよ、店閉めてくんか」
「ありゃクセになんな、たまに会いたくなるよ」

夏生の言葉には、粘度がない。心地よく乾いた、適度な温度のことば。いつだって、誰のことも、こうしてさらりと認めている。

「めんどくせぇ」
「若ぇな、おめーもよ」

レバーを回し、窓をあけると、磯くさい風がシャンプーのかおりをとかしてゆく。

「しめとけ」
「……」

夏生の、やや据わった声がとぶ。素直に窓をしめている秋生。ひさしぶりにあじわった、藤沢の、強い風の日は、塩素とシャンプーの香りにつつまれ、海のかおりとともに、実にデリケートに複雑に、とけて消えていった。

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