渡せなかった手紙がある。そのかわりもらったボタンがある。
さらさらの茶髪のあの子は、まぎれもなく不良少年なのに、どんな女の子にもやさしかった。
鮎川くんへと書いた封筒におさめられたのは、シンプルな文面の一枚の手紙。
結局これは、わたせなかった。
わたしたところでどうなるというのだろう。
いや、どうなりたいわけでもなかった。
ただ、伝えて、けじめをつけたかっただけだったのだ。
封筒を指でなぞると、隆起がある。
封筒に指をさしこみ、たぐりよせてとりだすと、それは、安っぽいボタン。
学ランの立派なボタンではなくて、カッターシャツの、簡素なボタン。
思い出すのは卒業式の日。艶やかなルックスの同級生女子たちや、脱色した髪の毛に短いスカートの下級生女子たちが、真里に群がっている。
マー坊、マー坊先輩、マー坊くん。
結局、あすかは、その呼び方では、よべなかった。
願えば、その呼び方でよぶことを、ゆるしてくれただろう。
そう願う勇気すらなかった。
誰からも愛された真里。その姿を、遠くから存分に瞳にやきつけたまま、あすかはいったん教室に戻った。
鞄と卒業証書を肩にかけたまま、教室の窓から、この学校最後の喧噪をながめてみる。
さきほどの人垣の渦の中心は、いつのまにか、晶と秋生に変わっている。
晶にむらがるのは、後輩のヤンキー少女たちと、ヤンキー男子たち。どちらにも慕われている、陰のある美少女。頭がよくて、心の優しい子だったけれど、いつしかあすかと関わることはなくなった。
秋生にむらがるのは、同じく後輩の不良少年たち。それを遠巻きにながめる、あすかのような一般人女生徒。秋生に、最後に気持ちを伝えようとしているのだろうか。思い詰めた姿に感情移入してしまう。
そのとき、教室の床を、ぺたりとたたく音がする。
驚いてふりむくと。
「あすかチャン、まだ帰んねーの?」
真里だ。彫刻刀で彫りぬいた傷だらけの机のなかから、上履きを入れる袋をとりだし、そのまま上履きをぬぎすてて、袋につっこんでいる。
「あ、もう、帰るよ」
「どこの高校行くんだっけ」
真里の行く高校と、同名の県立校をあげると
「えっ!?おなしガッコー?あすかチャンに限ってそれはないよね?」
「いや、県立の方だよ」
「そっかー!」
偏差値の差など知ってか知らずか、真里がからからと笑った。
それにしても、真里のむざんな姿。
学ランのボタンも、シャツのボタンも、すべて、むしりとられ、中に来ていたTシャツが丸出しだ。
「寒そうだね……」
「そーだよ!さみーよ」
全部とられちった。
両手を広げると、シャツと学ランがばさりとひろがる。
「第二ボタンは晶にやったんだけどさ、あいつ投げ捨ててやんの」
「晶ちゃんに……」
鞄をぎゅっと脇にしめ、あすかは窓辺から離れ、教室から去ろうとした。
鞄のなかにおさめられた手紙は、今のひとことで、渡す勇気はうせた。
「ん、まだ一個余ってる」
真里が、己の胸元をつかむ。カッターシャツにとりつけられた、予備のボタン。素知らぬ顔で、其処に居座っていたようだ。
「あすかチャン!」
真里が胸元のボタンをむしりとり、あすかになげつけた。
「わっ!!」
鞄にぶつかった小さな衝撃。あすかはおどろいてしゃがみこみ、そのボタンをひろった。
「え、く、くれるの?」
「もっててもしょーがないもん!じゃーね!新しいガッコでもがんばって!」
上履き袋をつかんだまま、はだしで。真里は、風のように駆け抜けていく。
「あ、鮎、マー坊くん!ありがとう!」
ぴたりと立ちどまった真里が、あすかをふりむく。そして、弾けるような笑顔にかわったあと、親指をぐっとあげて、
「またな!」
ひとつ叫んだあと、階段の下に消えていった。
ボタンひとつもらってもどうしようもなくて、わたせなかった手紙とともに、真里のボタンは、机の引き出しの奥にそっとしのばせてあった。
彼に今もしも、手紙を送るなら。
ひとつだけ聞きたい。
「いま、恋をしていますか」
ある時から、少しだけ変化した、彼と彼とまわりの人々。あれから、1年以上たった今。どうか幸せでいてほしい。
再び引き出しのなかにしまいこむ。またいつか、ふと思い出したようにこの手紙を見つけたとき、どうかあの子が、今以上の笑顔でいられるように。
あすかは、そっと閉じ込めるように、引きだしをとじた。
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