7

 光と音だけの夢を見ていた。目蓋の裏に残った乳白色も曖昧な記憶も、目を開けた途端にぼやけて消えてしまう。二、三時間くらい眠った後みたいな感覚。寝足りなくて頭が働かない。
 ベッドから離れたがらない身体を何とか持ち上げて、ひんやりとした真夜中の空気を吸い込んだ。何を探しているのかも判らないまま視線をさまよわせ、少し離れた場所に幽かな光を見つける。床面近く、ドアの向こう側から漏れているか細い光。
 真っ暗闇の中を壁伝いに歩いて手探りでドアを開けると、待ち構えていたみたいにおれの護衛が立っていた。

「陛下……?」

 驚いてはいない、少し困ったような声だ。おれが起きてしまったことには、とっくに気が付いていたらしい。
 彼の足元に明かりがひとつ。

「どうしたんですか?」

 聞き慣れているのに懐かしく感じる、おれが一番安心できて、一番好きだと思う声。
 夢の中でもこの声を聞いていた気がする。隣でおれの話を聞いてくれて、時々穏やかな相槌を打ってくれて、表情は見えないけれど笑っていると判る、そんな夢。それとも、記憶だろうか。
 おれの? 彼女の?

「ユーリ、ですよね……?」

 答えるのを忘れていたせいかもしれない。彼がおかしなことを言い出した。不安そうな、じゃなかったら怖がっているみたいな声だと思った。

「おれ以外の誰かに見える?」
「……いえ」

 短い否定には安堵が滲んでいる。
 どうしてだろう。コンラッドは何が怖いんだろう。

「コンラッド」
「はい」

 名前を呼べば、すかさず答えが返ってくる。感情を切り離して取り繕ったようなその冷たさに、聞いても無駄か、と諦めて質問を変えた。ドアの前に立っている彼を見つけた時から、少し気掛かりだったこと。

「ちゃんと寝てる?」
「寝ていますよ」
「こんなとこにいるのに?」
「あなたの就寝中は俺の担当なので。朝になったらグリエと交代して休みます」
「嘘つけ。全然休む気ないだろ。なんか、疲れた顔してるし」

 どっか具合悪いんじゃねーの、と続けるつもりだったのだけれど。

「っ見えるんですか!?」

 両肩を掴んできたコンラッドに、予想外の剣幕で遮られて瞬いた。顔が近い。

「……見えないけど。当たってるだろ?」

 確信を持って彼の瞳──がありそうな辺り──をじっと見つめる。実際は顎か鼻か眉辺りだったかもしれない。
 迷うような気配があって、彼の吐いた息がおれの髪を揺らした。

「……やっぱり、あなたにはかなわないな」

 肌に馴染み始めていた体温が離れる。

「実は眠れないんです」と、深刻さのない開き直ったような声で彼は言った。

「眠っている間にあなたがいなくなってしまいそうで」
「……だからさぁ、あんたもヨザックも心配しすぎ。見えない時くらい大人しくしてるよ」
「そうではなくて」と彼が何かを言い掛けて、止める。
「いえ、それでいいです。忘れてください。……トイレですか?」
「え? うん」

 急な話題の転換についていけず、成り行きで何となく頷いてしまった。結局誤魔化されている気がする。

「グリエを起こしてきましょうか?」
「なんでだよ。寝てるとこ起こしちゃったら可哀想だろ」
「……あなたがいいなら、いいんですが」
「いいよ、起こす必要なんてないよ。っていうかガキじゃないんだから一人で」
「靴も履けない癖に行ける訳ないでしょう」

 彼は被せるように言って溜息を落とした。靴は、履くのを忘れていただけだ。

「少し待っていてください」

 言い訳する隙も与えず、彼は急ぎ足でおれの脇を通って、部屋の中へ入っていく。どこかの戸を開けて閉める音。靴ではない、少し大きめな何かを運ぶ音。それがすぐ後ろに下ろされる。

「座って」

 コンラッドはおれの肩に上着を掛けて、わざわざ運んできた椅子に座らせて、上から順番に鈕を留めて、流れるような動きで靴まで履かせてくる。身を委ねてぼんやりとしている間に、遠慮するタイミングを逃してしまった。
 最後にランプを持ち上げて彼が言う。

「では行きますか」
「……え、どこに?」
「トイレでしょう?」
「そうだった」

 トイレに行くためとは思えない過剰な身支度のせいで、寝起きの頭は外出でもするのかと勘違いしかけていた。


 きっぱりと頑なに断り続けたお陰で、中までついてくるのは諦めてもらえた。いつもよりも時間が掛かってしまうだけで、大抵のことは一人で何とかできるのだ。慣れてしまえば時間は短縮されていって、不自由することも減るだろう。手を洗いながら考える。この生活に慣れていいんだっけ。何とかして視力を取り戻そうとしていたような。
 治そうとして、上手くいかなくて、疲れて眠ってしまったことを思い出す。今度こそ治せると思ったのに、どうしておれの目は見えないままなんだろう。心の問題じゃないか、とヨザックは言っていたけれど。
 ずっと前にギーゼラから教わった。癒しの手の一族の魔術は、相手に触れて、心に語りかけながら、治ろうという意志を引き出すものだと。
 意志の方は引き出すまでもなく十分にあると思う。ということは、問題は魔力の方だろうか。視力と一緒に魔術まで使えなくなっているとか、持ち主の命令を聞かなくなっているとか。魔力よりももっと捉えどころがなくて思い通りにならない、心と呼ばれる複雑な機能のせいで。
 治療を阻んだ大きな力、おれが持っているはずの強大な魔力。
 魔術が使えるのか試してみようにも、非常灯代わりに炎を出してくれたヴォルフラムみたいに、器用で小規模なことはできそうにない。何か手頃な方法はないだろうか。
 しつこい眠気に抗いつつも考えこんでいたら、待ち切れなくなった彼が遠慮がちにドアを開く音に邪魔された。

「ユーリ? 大丈夫ですか? そこで寝てないですよね?」
「……うん。起きてる」と気もそぞろで答えて、声が聞こえた方へ戻る。壁を探すために伸ばした手を取られた。まあ、どっちでもいいか。壁でも、コンラッドでも。
 帰りは護衛の服に掴まって歩く。軽く指を滑らせただけで判る、カーキ色の馴染みの軍服。ひとつ思いついたことがあった。見えないから何の意味もないのだけれど、左斜め上に顔を傾けて聞いてみる。

「コンラッド、今、剣持ってるよな?」
「護衛なので帯刀していますが……?」
「貸してくれない? 短剣でもいいんだけど」
「目的を教えていただけないと何とも。どうしました? 成敗したい対象でも見つけたんですか?」
「成敗?」
「虫とか、幽霊とか」

 冗談なのか本気なのか判らない、平坦な調子で彼が言う。まさか曰く付きの建物だったりしないよな、と不安になったが、知らない方がよさそうだから突っ込むのはやめておいた。

「違うって。攻撃じゃなくて、回復の方。痛かったら使えるんじゃないかと思って」

 コンラッドがぴたりと足を止めた。つられておれも立ち止まる。

「陛下」と咎めるように呼んできた彼の声が、低い。何かまずいことを言っただろうか。服を掴んでいた手をそうっと離す。

「眠くて頭が働いていないことは判りますが、始めから、ちゃんと説明してください」

 この声は前にも聞いた覚えがあった。すでに割と腹に据えかねていて、本格的に怒り出す一歩手前だ。これ以上言葉の選択を誤ると危ない。

「だから、そのー……目を、早く治したくて。治せないから、魔術を使えなくなってるのかもって」
「癒しの術を使って、ご自分で治そうとされたんですね。それで?」
「指先とか軽ーく傷つけて、治せるか試してみようかなー、と……」

 頭の中にあるものを促されるままにふわふわと話してしまってから、はたと我に返って、

「とか思ったんだけどそんなことに大事な剣使っちゃ駄目だよな! ごめん、他の方法考えるから忘れて!」

 半歩手前くらいで踏み止まるために足掻いてみた。遅すぎる。
 深い溜息が返ってきた。見当違いの弁明に呆れ果てたみたいに。

「わざわざあなたが痛い思いをしなくても、俺の身体を使って試せば済む話でしょう」

 彼は声を荒げることもなく、平然としたままそう言った。

「どこにします? 指? 腕?」

 すっ、と動いた彼の右腕が、衣擦れの音を立てて微かに空気を揺らす。問いかけておいて答えなんか端から聞く気もなさそうな。

「うわああ待て待て駄目だって! 絶対駄目ッ!」

 飛び込む勢いでコンラッドの腕にしがみつく。躊躇のなさも言い方も怖すぎて心臓が痛い。

「あんた自分ならどうなってもいいとか思ってそうだからうっかりやりすぎちゃうだろ! 治せなかったらどうするんだよ!」

 普通に切り落としそうで怖い、と喚き立てる。

「しませんよ」と彼は咽喉の奥でおかしそうに笑う。

「深い傷では、術を使うあなたに負担がかかる。まあ、指と腕は揃っていた方が、あなたを守りやすいですし」
「そんな理由で思い止まるなよ!」

 おれの声なんて耳に入っていないみたいに、彼は微笑さえ含んだまま話し続ける。

「心配なさらなくても大丈夫です。加減はします。少なくとも、剣を使い慣れていない上に視力も不安定なあなたよりは、適切な深さの傷を作ることができると思いますが」
「深さじゃなくて浅さって言ってくれ、っていうかおかしいだろ! どんな理由があったとしても、わざと傷作るなんて嫌だからな!」
「嫌と言われても。あなたが先に言い出したことなんですが」
 
 呆れが半分くらい混ざった冷やかさ。

「解っていただけましたか? 俺も嫌です」とコンラッドが語気を強めて言う。彼が何を不愉快に思っていたのか、ようやく悟って口をつぐんだ。
 そうだった。確かに言い出したのはおれだった。
 気詰まりな沈黙に俯くと、頬の辺りで彼の三角筋が動くのを感じる。拘束の解き方を忘れたおれの腕に、指先が二回、叩くように触れた。

「ユーリ」

 声に促されて力が抜けた。もう怒っていない、冷たさもない穏やかなコンラッドの声だ。

「ちょっと脅かしすぎました?」
「……ちょっとじゃないし、本当にやりそうで怖かった」
「やりませんよ」と彼は答えたが、おれのために必要だと判断すれば、どんなことでもやってしまう男だと知っている。脅すためにわざと露悪的な台詞を吐いてみせたのだとしても、全てが演技だったとは思えない。求めれば求めるだけ与えてくれる彼が、何を犠牲にして、何を差し出してくれるつもりなのか、見えないままでは判らないし止めることもできない。だから怖い。

 ──なんで見えない? なんで治せない?

 答えの出ない問いかけが、また責め立てるように頭の中で響いている。思考は同じところをぐるぐると回り続ける。この暗がりから早く抜け出したい。今のおれに魔術は使えるのか、それが判れば少しは前へ進めそうなのに。
 黙ったままおれを見下ろして、同じように何か考えこんでいる様子だったコンラッドが、その時、痛みを堪えるような息を吐いた。「どうしたの」と訊こうとした声は、すぐにくぐもって途切れてしまう。彼は空いている右腕をおれの背中に回して、親が子を守るように抱き寄せた。

「ユーリ、そんなに思い詰めないで」

 降ってきた声の方へ顔を向ける。きっと彼は優しくて、少しだけ悲しそうな目でおれを見ていた。

「焦らなくていいんです。見えないままでも大丈夫だから。目が不自由でも王様業は務まるし、嫌になったら辞めてもいい。あなたが魔王でも、何の肩書きもないただのユーリでも、俺はずっと側にいます。
 あなたが、あなたのままで……あなたらしくいてくれればそれだけでいい」

 ゆっくりと紡がれる声と体温が心地よくて、子守唄でも歌ってもらっているみたいで、とろりと目蓋が落ちそうになって。

「……ユーリ? 聞こえてる?」

「うん」と小さく頷いた。彼に伝わったかどうかは判らない。届かなくてもいいと思いながら、狭くて温かな暗闇に声を落とす。

「あんたは、おれでいいの?」
「あなたがいいです」とコンラッドは迷いなく答えてくれる。

「みえないままでも、おれでいいの?」
「あなたのままでいてください」
「ほんとにそう思ってる?」
「本当に」

 どうしてだろう。何度答えをもらっても、しつこい汚れみたいな不安が頭にこびりついたまま消えてくれない。

 ──本当に、おれでいいんだっけ。

 何かを忘れている気がするけれど、今は思い出すことができない。

「だから、ゆっくりで大丈夫」

 繰り返される「大丈夫」に、頷けないから「でも」と言う。

「おれは早くあんたの顔を見たいよ」

 言葉を探すための長い沈黙の後で、彼はただ、「そうですか」と言った。もっと別の言葉を見つけるつもりだったのに、結局何も見つからなかったのだと判るぎこちなさ。
 右手で彼の心臓がある辺りに触れる。指先で確かめながら上っていく。襟元、首から顎のライン、唇の端。
 彼は身動ぎひとつせず、呼吸すら酷く密やかだった。服に止まっている小さな蝶か何かを、驚かせないように、逃がさないように、息を殺しているみたいだなんて、益体もないことを考えながら、頬に辿りついて掌を当てる。

「今みたいに疲れてる顔じゃなくて、いつもの……笑ってる顔がいい」

 コンラッドは、答える代わりにそっと手を重ねてきた。彼の掌は冷たかった。おれの手が温まり過ぎているだけかもしれない。熱を放って眠りに落ちる準備をしているから。

「……ユーリ」

 見たかった笑顔には程遠い苦笑いで、彼の口角が上がる。

「今、半分くらい寝てるでしょう」
「そう、かも……」

 頭が重い。まだ、眠りたくない。
 夢の中みたいに笑ってくれなくてもいい。せめて、おれに隠せなくなるほど弱っていない、いつものコンラッドに戻るまで。

 眠気で満たされた感覚の中を、おれのものじゃない一瞬の怠さが駆け抜けて、消えた。

 ──できた。

 はっ、と息を呑んだ彼が、誤って熱いものに触れた時の反射みたいに身体を離す。急に寄りかかる場所を失ったせいでふらついて、とん、と背中が壁に当たる。
「ほらな。やっぱり具合悪かったんだろ」と言って、笑う。
 彼を癒すための魔術は、呆気ないくらい簡単に使えた。思い悩む必要なんてなかった。最初からこうしておけばよかったんだ。
 安心しきって目を閉じたら、あっという間に全てが遠くなった。



2022.8.16

title:capriccio(http://noir.sub.jp/cpr/)

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