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 それは、不思議な感覚だった。

 夢を見ているのとは違う。
 べたついた身体を拭ってくれる彼の手が、おれにはぼんやりと見えていた。
 けれど身じろぎひとつすることができない。まるで自分の身体ではなくなったみたいに。
 シャツを羽織っただけで隣へ転がった恋人の姿も、だんだん見えなくなっていく。

 ──眠る時っていつもこんな感じだっけ?

 不安になる。

 ──明らかに違う気がするんだけど。

 コンラッドと、呼んだような気がする。
 起きているとは思わなかったのだろう。彼は驚いたように目を瞠った。
 それから。

「────」

 酷く愛しげに名前を呼ぶ。聞き慣れた響きの声が、誰かの名前を。
 誰かの。

 ──あんた、今なんて言ったんだよ……っ!

 怒りも露に叫びたいのに、どうしても身体が動かない。意識が暗闇へ落ちていく。

 眠りたくない。おれはまだ眠りたくないのに!


「………ジュリア……」


 違うよ。それはおれの名前じゃない。







『ごめんなさい、あなたを悲しませてしまって』

 真っ白い綺麗な女の人が、悲しそうにうなだれている夢を見た。

『ちがうのよ、コンラッドは』

 明け方に見る夢。無性に泣きたくなる。







 次に目を開けた時には朝だった。転がったまま瞬きを繰り返す。

「おはようございます、陛下」

 息遣いを感じるほど近くで動く彼の唇。いつも通りの優しい声。
 この声がおれをジュリアと呼んだ。あれは絶対に夢じゃない。

 ──陛下って呼ぶなよ、名付け親のくせに。

 耳の奥に残る名前に打ちのめされて、おれは決まり文句を飲み込んでしまった。

「大丈夫ですか?」

 黙ったままのおれを心配して、コンラッドが更に顔を寄せてくる。

「起き上がれます? 昨日、無理をさせすぎた?」
「……平気。今、起きる」

 怠い身体を何とか起こした。彼の腕がさりげなく支えてくれる。
 再び顔が近付いて、笑んだままの唇が重なった。

「…ん」

 身体が、震えた。彼があまりにいつも通りだから怖い。
 考えてしまう。
 彼は誰にキスしているんだろう。本当は誰にしたかったんだろう。
 どうしてジュリアさんのこと、呼んだの。

 彼に尋ねる勇気もない。
 確かめるまでもなく判ってしまう。彼女の名前を呼んだ意味なんて、簡単に。

 あんた、おれが寝た後には、いつもジュリアって呼んでたの?

 着替えを用意する彼の横顔を見詰め、気まずさや後ろめたさを探そうとする。
 何も見えない。いつもと同じだ。

「まずは風呂がいいですか? 一応軽く拭いたけど」
「うん、入ってくる」

 頷いてそろりとベッドから下りた。
 当然のようにコンラッドは言う。

「お供します」
「いいよ、一人で」
「どうして」
「朝っぱらから二人で風呂なんて、何か怪しまれそうじゃん」

 今さらじゃないかなと零す彼を残して、おれは部屋から逃げ出した。

 閉めた扉に背中を預けて、ずるずると座り込みそうになるのを何とか堪えて。
 両手をきつく握り締める。

 なんでユーリって呼ばないんだよ。







 コンラッドが彼女のことを口にしたのは、たった一度きりだったと思う。

 ──俺の……友人がくれたものです。

 それだけだ。何の真意も読み取れない、誰を指したのかも判らないたった一言だけ。

 魔石は今も胸元で揺れている。
 生温いそれを握り締めて、自室のベッドへぐったりと転がった。呑気に長風呂できるような気分じゃない。

 まさかコンラッドがおれを、渋谷有利を見てはいないなんて考えたこともなかった。魂のリサイクル元の女性の名を、アーダルベルトから告げられた時さえも。
 だって彼はおれの名付け親で、友達で、今は恋人で。いつだって味方で、守ってくれて、おれのことを誰よりも解ってる。
 向けられている愛情の種類が判らなくて悩んだ時期はあったけれど、親愛か恋愛感情かはともかく、愛されていることだけは知っていた。決して疑わなかった。

 確かに愛しているのだろう。過去の幻影を追っていたアーダルベルトと同じように。おれの中にいるフォンウィンコット卿スザナ・ジュリアを。
 おれじゃなくて。ジュリアさんを。

 いつまでも部屋に篭っている訳にはいかない。そろそろ誰かが扉をノックする。
 もしかしたらそれはコンラッドかもしれないのだ。



 前世なんて、知りたくなかった。
 知らなければヴォルフ直伝の突っ込みを披露できたのに。ジュリアって何だ、女か! とか。

 ……全然笑えない。



2013.5.30

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