1

 ゆうやけこやけでひがくれて―
 闇に包まれた世界に掠れきったオカリナの音が響く。
 目を閉じると浮かぶもの、それはオレンジ色に染まった校庭と、調子外れな子供達の歌声。
 今よりもっと覚束ない指使いでメロディーをたどる自分の姿。
 曲が終わると皆で笑い合って、そろそろ帰ろうかと校門を目指す。
 笑顔で頷いて振り返る。そこにはもう誰もいない。オレンジ色の空を滲ませて、誰にも届かない声で泣いている。

 誰かの歌う声が聞こえた気がして、楓和は目を開けた。声の主を捜そうとして、すぐに止める。
 誰もいないに決まっている。捜したってまた失望するだけだ。
 高校生にもなって、童謡歌う人なんか、いないよね。
 やっぱり吹くんじゃなかった、とため息をつく。
 “ゆうやけこやけ”はもう好きじゃない。日が暮れたって帰る場所は何処にもないから。
 腕時計に目を落とすと、そろそろ寮へ戻った方がいい時刻だった。
 楓和はオカリナを無造作にポケットへ放り込み、とっくに夕焼けを過ぎた空に背中を向けた。



 いつもそれは唐突に起こる、と楓和は思う。ついさっきまで袋の中にはたくさんの形あるものが詰まっていた。確かにそれは事実なのに。気付いたら中身は空気でしかなくて、口を開けた途端に袋はぺちゃんこになってしまう。
 何処で間違えたのか、何時から中身がなかったのか。考えても無駄で全てが手遅れ。この心に残ったものは何に対してかも分からなくなってしまった後悔だけだった。

 だって、一度正しい答えを言えなかっただけで、こんなにも歯車が狂ってしまうなんて知らなかったんだ。

 楓和がこの、私立海丘学院に編入したのは中学三年の五月のことだった。中途半端な時期に入ったこともあって友達が全くできないまま高校へ上がった楓和に、クラスメイトで寮の同室でもある塚原は親しげに声をかけてくれた。人をまとめるのが上手く、成績も優秀でとても目立つ塚原のことを尊敬していたから、声をかけてもらえた時、とても嬉しかった。
 塚原はクラスで浮いた存在の楓和のことを、自然に輪の中へ招き入れてくれた。勉強も教えてくれた。彼は早くも生徒会に入っていたから、一緒に下校したことはなかったけれど、寮での食事は塚原も含めた同室の四人で一緒にとった。友達なのだと思っていた。相手はかけらもそんなこと思っていないだなんて考えもしなかった。不愉快そうな顔をされたことなんて一度もなかったから。
 いつも穏やかに笑っていた。楓和が彼に懐けば懐く程、笑顔の下の苛立ちが募っていくことなんて、全く気付かなかった。
 塚原はだいぶ辛抱強かったのだと思う。けれどもとうとう冬休みの終わる前日に、聞かれた。
「おまえ、俺のことが好きなんだろ?」
 その日、他の同室者は出払っていて、部屋にいたのは塚原と楓和の二人きりだった。
 塚原はいつものように笑っていて、だから自分の言うべき正しい答えが見えなくなってしまった。彼の質問の意味もよく分かっていなかった。
 だから楓和は単純に自分の気持ちを答えた。
「うん、好きだよ」
 一人でいた僕に声かけてくれて、友達にしてくれて、すごく嬉しかった
 そう続けるつもりだったのに、何も言えなかった。彼は笑うのを止めてしまったから。
 笑う代わりに侮蔑を含んだ冷たい目で楓和を見て、言った。
「やっぱりな、そうだと思ったよ。おまえ四六時中俺の後ついてくるもんな。気持ち悪いんだよ」
 予想もできなかった言葉に、楓和はただ呆然とした。
「そもそも教師にちょっと面倒見てやれって言われたからかまってやっただけなのに。
俺はおまえみたいに頭悪くて暗い奴嫌いなんだ」
 もう二度と話しかけんな。
 バタンと音を立ててドアが閉まって、部屋に一人で取り残されても、何が起きたのか理解できなかった。訳が分からなかった。分かったことはただ一つだけ。彼はもう二度と自分に笑いかけたりしないだろう。ただ、それだけ。
 夕食は一人でこっそり食べた。同室の誰も楓和のことを誘わなかった。夜はよく眠れなくて遅刻ぎりぎりで飛び込んだ教室の中、おはようを返してくれるクラスメイトは一人もいなかった。そうやって、楓和はまた独りぼっちになった。
 放課後、忘れ物をして教室へ引き返した楓和は、数人の生徒が残っているのに気が付いて思わず足を止めた。
 クラスメイトたちは蔑んだ口調で話していた。
「なぁ、タカサキの噂聞いた?」
「大内から聞いた。あいつホモなんだろ?」
「何か繁がせまられたっつってたぜ」
「えーマジかよ。気持ち悪っ」
「だいたいタカサキって表情なくて不気味だよな。マネキンみてー」
 それ以上聞いていられず、逃げ出してしまった。
 そんなつもりで言ったんじゃないのに。ただ、友達だと思っていたから。友達として好きだったから。
 でも、それは本当だろうか。
 楓和には友達がいたことはない。幼い頃は双子の紅葵とずっと一緒だったから、友達なんて必要なかった。
 友達ってどういうものなのだろうか。思えば楓和は、クラスの輪へ入れてもらっても、塚原以外とはあまり仲良くなれなかった。せいぜい挨拶をする程度だった。何かあったら頼るのは必ず塚原で。
 この“好き”は本当に友達に対する感情なんだろうか。恋愛感情じゃないと言い切れるだろうか。
 振られてから気付くなんてバカみたいだけど。
 そう思って帰り道、少しだけ泣いた。

 それから正面切って蔑まれても、陰口を聞いても、心の中ですら反論することができなくて。クラス全員に嫌われたまま一年は終わって。クラスもルームメイトも学年が上がって変わるはずなのに、何故かどっちも塚原と同じで。
 元々何も信仰していないけれど、つくづく神様なんていないのだと実感した。
息を潜めるようにして学校での時間を過ごし、放課後は完全下校時刻まで教室で教科書を開く。
 二年に上がると寮は四人部屋から二人部屋に変わる。塚原と二人きりになってしまうあの部屋に戻りたくなんかなくて、今日も苦手な数学の教科書を開いて時間を潰している。



 人気のない放課後の教室で宿題を片付けてしまうつもりだったのに、数式を睨んでいると眠気が襲ってきて、さっきから全然進んでいない。ふと窓の外を見ると、もう真っ暗だった。ぼんやりした頭で、昨日ここを通りかかった生徒がまた来たらどうしよう、と考えた。
「こんな時間に一人で何してんの?もう帰った方がいいよ」
 知らない顔の、背がとても高い彼は、ここ数ヶ月聞いた覚えのない優しい声をかけてくれた。
 きっと暗くて楓和の顔が見えなかったからに違いない。顔を見たら皆みたいに蔑んだ目をするに決まってる。
 急に怖くなって、楓和はなおも話しかけようとする彼から走って逃げたのだ。
 今日もここに来る可能性はある。そろそろ出た方がいいだろうと荷物をまとめていると、教室のドアがガラッと開いた。
「あ、やっぱり今日もいた」
 そこにあったのは昨日の彼の笑顔だった。
 逃げる以外の行動が思いつかなかった。大きな音をたてて立ち上がると、慌てて彼がいない方のドアへ向かう。
「うわっ、ちょっと逃げるなよっ!」
 焦ったような声を出して彼が追いかけてくる気配がする。
「っ!!」
 あっという間に腕を掴まれて捕まってしまった。
「逃げても無駄。俺、陸上部なんだ」
 そして目が合う。とても整った顔をした彼は、昨日入部したばっかりだけどな、とまた笑った。
 楓和は戸惑いを隠せない。
「ええと、あなたは僕のこと、知らないの?」
 そう尋ねると、彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
「悪い。俺四月に編入してきたばっかなんだ」
「そう、なんだ」
 知らないならよかった。
 思わず本音が零れてしまう。
「…どうしてそんなこと言う?」
「…」
 当然返ってくる疑問に、答えられる言葉は持っていなかった。人と会話したのさえ久しぶりだった。
「まぁ、いいや。俺、四組の朝香 哲。よろしくな。
 おまえは?」
 朝香は楓和の沈黙を気にせず、明るく名乗って楓和の答えを待っている。
 この質問の正しい答えなら知っている。でも、朝香と名乗る彼には、なんとなく楓和の噂を耳にしてほしくなかった。だから名前を言うのはためらってしまう。結局名字は言わないことにした。
「…五組の楓和です。よろしく」
 楓和がかすれた声で言った瞬間、完全下校時刻を告げる放送が聞こえてきた。
「やべっ、早く帰らなきゃ。じゃ、楓ちゃん、寮まで一緒に帰ろ」
「えっ」
「あれ?楓ちゃん寮生だよな?」
「そうだけど…」
「なら帰るとこ同じじゃん。ほら早く!」
 半ば朝香に引き摺られながら昇降口へ向かう。結局、一緒に帰ることにも、女の子みたいな呼び名にも、異議を唱えられないまま。
 その日の帰り道は、会話なんてちっとも成り立たなかったけれど、楓和は何だか心の中が温かいものでいっぱいになった気がした。
 また明日、と笑って言った朝香に、思わず笑顔を向けた。笑ったのなんていつが最後だっただろうと記憶を探ってみても何も思い出せなかった。まだ自分は笑うことができるんだ、と。その事実が少し嬉しかった。






 朝香は楓和と同じ棟だったけれど、建物の前で別れた。部屋に戻るつもりはまだなかった。
まだ少し肌寒さを感じる外を歩き回って時間を潰した後、いつも通り消灯ぎりぎりになってやっと自分の部屋へ戻った。
 尤も、今年の寮長は同室者だから、消灯までに戻らなくても気にしないだろうし、外で一晩明かしたって、寮監には何とでもごまかしてくれることだろう。二度と戻ってこなくていいとすら、思われていてもおかしくない。
 部屋のドアを開ける。伝わってくる空気に、外気に冷やされた身体は温まるけれど、反対に心は何処までも凍えていく。
 楓和が中へ入ると、塚原は顔をしかめて外へ出て行った。擦れ違いざま、さっさと死ねよ、と言い捨てて。
 塚原のそれはいじめの定番として使われる冗談半分のものではなく、心の底からそう思っているのだと分かるから、ぶつけられる度に深い傷を残す。
 死ね死ね死ね死ね…
 何回言われたのかもう分からない。ただひたすら積み上げられたその言葉は、雪崩が起きそうな程溢れ返っている。
 埋もれて、そこから這い出すことすらできずに。
 無意識に手にした光る刃物が、数え切れない“死ね”の数だけ柔らかい皮膚をえぐるように、刻んだ。
 朝香の笑顔が遠くなる。この血に塗れた身体を見たら、朝香だって笑いかけるのを止めるだろう。
 そう考えたら悲しくなって、また新たな血が流れた。


 瞬きをしたらもう朝だった。そんな気分だった。
 ほとんど眠れなかったせいで、起き上がることにも苦労する。それでも、塚原がこの部屋へ戻ってくる可能性もなくはなかったから、重い身体を引き摺って何とか身支度を済ませた。部屋で会ってしまうよりは教室で遠くから冷たい視線を浴びている方がましだ。他の人がいれば塚原は、楓和に話しかけたりしない。
 昨日までと同じ、真っ暗な一日がまた始まる。
 校舎への十分程の道を辿っている時、ふと、昨日の朝香との会話とも言えないやり取りを思い出した。
 また明日って、言ってくれた…
 ただその一言が、別れ際、友達同士の決まり文句が、暗闇へ差し込む光のように感じた。
また会いたいという気持ちが背中を押して、昨日まで怖くてすぐには開けられなかった教室のドアに、躊躇いなく手をかけることができた。



 午前中は教室でじっとしていればよかったから何とかなったけれど、さすがに五、六時間目の体育はきつかった。
 ウォーミングアップに走らされた後は、寝不足のせいだけではない頭痛に襲われて、立っていることすらできなかった。
 校庭へ座り込むと吐き気のような気持ち悪さも加わって世界がぐらぐら揺れ出した。見ない振りをする生徒たちも揺れる。いや、見ない振りじゃなくて楓和のことは誰も見えていないんだろう。
 ぐにゃぐにゃと歪んでいく思考を抱えながら、楓和はただうずくまっていた。
「おい、大丈夫か?」
 最初は幻聴だと思った。でも現実の証拠として、声と一緒に誰かが楓和の顔を覗き込んできた。
 逆光で顔はよく見えないけれど…
「て、あれ?楓ちゃんじゃん。どうした?」
 今は体育の授業中で、まだ放課後ではないのに、朝香が現れた。そういえば今日の体育は四組と合同だったな、と今更思い出す。
 誰の目にも写っていないことも苦しかったから。
 朝香の存在で、すぅっと気持ちが楽になった。
「気持ち、悪いんだ。あと、頭痛い…」
 気付いたら素直に頼ってしまっていた。
「顔色悪いな。こういう時は我慢しないで早く誰かに言えよ?」
 保健室行こう、と朝香が腕を取って立たせてくれる。
「せんせー!楓ちゃんが体調不良なんで保健室に連れて行ってきまーす!」
 朝香は離れた所にいる体育教師に向かって叫んだ後、よいしょっと楓和を抱き上げた。
「えっ、ちょっ!」
 教師は「ふーちゃんて誰?」と思っていることが丸分かりの顔で首を傾げていたが、パニックになってしまってそれどころじゃない。
 わたわたしていると、落とさないから心配すんな、と見当違いのことを言って朝香が笑う。
「そ、そうじゃなくて…歩けるから!!」
 結局何を言っても下ろしてくれなくて、つい零れた一言。
「…朝香くんって力持ち…」
「楓ちゃんが軽すぎるだけだよ」
 もうずっと、抱き上げられた記憶なんてない。こんなに側で人の体温を感じた記憶も。
 そう考えたら急に心臓の鼓動が早くなった。

「あっれ。鍵かかってんな。とっくんいないかも」
 “とっくん”というのはおそらく保健医のことだろう。朝香は誰の名前でも縮めてしまうらしい。
「職員室から鍵取ってくる。そこで待ってて」
 朝香の足音が遠ざかっていく。
 授業中の廊下は本当に静かだった。うるさいのは楓和の鼓動の音だけだ。
 朝香の行動に余程動揺してしまったみたいだ、と深呼吸を繰り返す。
 落ち着いてくると今度は頭が重くなる。今ならあっさりと眠れるかもしれない。
 うつらうつらしながらドアにもたれ掛かっていると、程なく朝香の戻ってくる足音が聞こえてきた。



「よし、熱はないみたいだな」
 楓和をベッドへ寝かせた後、何処からか引っ張り出してきた体温計を覗き込んで、朝香はホッとしたような表情を浮かべる。
 それを見て何だか胸が痛くなった。心配してもらえるようなことが原因の体調不良じゃないからだろうか。
「風邪?」
 朝香に嘘はつきたくなかった。けれど、本当のことはもっと言えないと思った。
 考えた末、肝心なところを省いた答えを返す。
「…最近よく眠れなくて、寝不足で…ごめん…」
 謝ると朝香は不思議そうな表情をして聞いてきた。
「何でごめん?」
「病気じゃないのに保健室連れてきてもらっちゃって…」
「病気かどうかなんて関係ねーだろ。現に楓ちゃんすごい顔色悪かったし。そんな事気にしなくていーんだよ」
 そう言いながら朝香はベッドの傍らにある椅子へ腰掛ける。
「寝不足って、楓ちゃん何か悩み事?」
 楓和は、否定も肯定もできずに黙り込んだ。その表情を見て、何か抱えていることを察したらしい。
「ま、無理には聞かないけどさ。言いたくなったらいつでも言えよ。待ってるから」
 そんな温かいことを、優しい顔で笑って言うから。
 少しだけ、話してみたいと思った。唯一楓和に笑いかけてくれる彼を頼ってみたいと思った。
 けれど。
 どうして構ってくれるの?優しくしてくれるの?助けてくれるの?
 疑問はいっぱいあって、そのどれにも答えは見つからなくて。
 同情?気まぐれ?よりかかったら塚原みたいに放り出してしまう?
 塚原から嫌われて、クラスメイトからいじめのようなものを受けるようになって。またあの頃と同じ事を繰り返すのかと、最初の頃はつらくて悲しかった。けれどすぐに、仕方ないと諦めてしまった。嫌われて当然なのだから、好かれようと思うのは止めてしまった。クラス替えをしても状況は変わらなかったけれど、諦めていたから何にも感じなかった。透明にされていないだけまだましだとさえ思った。
 なのに…どうしてか朝香には嫌われたくないと思ってしまうのだ。
 ほんの二日前に知り合って少し言葉を交わしただけなのに、朝香のことを好きになっていた。
 その“好き”は友情か、それとも…
 朝香の顔を見ていると、その続きの言葉を考えてしまう。それが怖くて、もう授業に戻っていいよと言った。
 そして高鳴る心臓の鼓動と火照る頬を隠すように、楓和は頭まですっぽりと布団を被った。



 そのまま眠ってしまったらしい。目が覚めて窓の方を見遣ると、夕焼け空を見上げる朝香の背中が目に映った。
 まだ、夢を見ているのだろうか。
 ぼんやりと考え、ただその背中を見つめていると、急に朝香が振り返った。
「目、覚めた?」
「えっ」
 そのまま楓和の方へ近付いてくる。
「何びっくりしてんの?」
 夢では、なかった。
「朝香くん、まさか、ずっとここにいたんじゃないよね?」
 おそるおそる尋ねてみる。否定してほしかったのに。
「いたよ?楓ちゃん一人置いて戻れないし」
「だ、だって授業…あと、もうきっと部活の時間だよね?」
「そんな慌てなくても大丈夫。部活は今から出るし」
「でも…授業さぼっちゃったんだ?」
 申し訳なくて朝香の顔も見れない。
「俺、球技あんま好きじゃないんだよね。さぼれてちょうどよかった」
 朝香は気を使ってか、そんなことまで言ってくれる。
「…迷惑かけて、ごめん…」
 他に言う言葉が見つからなかった。
「だから、気にするなって言ってるだろ」
「でも…」
 いつまでも俯いている楓和に困ってしまったのか、朝香は考え込むように間を置いた。
 そして不意にそうだ、と声を上げる。その明るい調子につられて楓和は朝香の方を見た。
「じゃあさ、交換条件。助けたお礼に俺の頼み聞いて?」
「何?僕にできることなら何でも言って!」
 出来ることといってもほとんどないけれど大丈夫だろうかと不安に思いながら待っていたけれど。
 朝香の頼み事はとても意外な内容だった。
「“朝香くん”ての止めてくれる?何か他人行儀で嫌なんだ。名前呼び捨てで呼んで?」
「…」
 二日前に知り合ったばかりなのに。そんなに馴れ馴れしくしていいのだろうか。
 同学年との距離の取り方はよく知らなかったから戸惑ってしまう。
「ほら、呼んでみ?」
「え、えーと、あさ、か?」
 思い切って言ってみると、何故か苦笑いされた気がした。
 それは本当に一瞬のことで、気のせいかもしれなかったけれど。
 まぁとりあえずいっかと笑った時には明るい笑顔だったから。
 いちいち深く考えて悩み込むのは止めた。
「じゃ、俺は部活行くけど…楓ちゃん一人で帰れる?」
 頷くと朝香はからかうような笑みを浮かべた。
「部屋まで連れてってあげよっか」
「平気!!」
 また抱き上げられるなんて冗談じゃない。
 真っ赤になって飛び起きた楓和を見て、朝香はまた笑う。
「それだけ元気なら心配ないな。昇降口まで一緒に行くよ」

 黄昏時の光が差し込む昇降口で、オレンジ色の朝香が楓和に手を振った。
 楓和はどうしていいか分からなくなって、俯いて小さく手を振り返した。



「楓ちゃん!」
 名前を呼ばれた気がしてぽかりと目を開けると、目の前に夕日に染まった朝香の顔があった。
「うわっ!」
 椅子がガタンと大きな音を立てる。
 あんまり近くに顔があったせいで驚いて、楓和は思わず立ち上がってしまった。
 びっくりしすぎ、と朝香が笑う。
 今日の放課後も、教室で宿題を広げていたのけれど、教科書を枕にして眠ってしまったらしい。
「校庭からこの教室に人影が見えたからさ。もしかしたら、と思って。昨日大丈夫だったかなって気になってたんだ」
 そう言って朝香は楓和の顔をじっと見る。
「ちゃんと元気になって、はいないみたいだな」
 顔色の悪さを指摘されて、違いなんてないはずなのに、と不思議に思った。
 朝香の目には、楓和が人間として写っているのだろうか。店の片隅で埃を被ったままのマネキン人形ではなく。
 そうだったら嬉しい。泣きたくなるくらい嬉しい。
「何してたの?勉強?」
 開きっ放しの教科書を見て、朝香が聞いてくる。
「うん、そのつもりだったんだけど…気付いたら寝てた」
「首、痛くなんない?」
「…ちょっと痛いかも」
「やっぱり?机で寝ると痛くなるよな」
 そう言いながら、朝香は勝手に教科書を閉じてしまう。
「帰ろ。ここより部屋で寝た方が絶対いいって」
 楓和にとっては、誰もいない教室の方が数倍安らかに眠れるのだけれど。
 朝香の言葉に曖昧に頷いて、教室を出る朝香の背中を追いかけて。
 気付いたら、また一緒に帰ることになってしまっていた。


 二度目の二人きりの帰り道。何か話さなければ、と思いながらも、どうしていいか全く分からない。
 朝香は固まったままの楓和を気にすることなく話し続けてくれるけれど、相槌すらろくに打てない自分が嫌で仕方なくなった。
 こんな自分だから、マネキンなんて呼ばれて、塚原にも嫌われてしまうんだろう。
 自分を責めるように、こっそりと握りしめた拳の中、血が滲みそうなくらい強く爪を突き刺した。
 いつの間にか朝香も言葉を止めている。
 ますます気まずくて小さくなっていると、
「え?」
 握りしめた右手に朝香の手が触れた。
 そのまま包み込むように解いていく。
 爪の跡が残る手の平を、朝香は黙って見つめた。
「…俺、気付かないうちに楓ちゃん傷つけるようなこと言ってた?」
 朝香は悔いているような顔をしていて、そんなはずないのにと慌てて頭を振った。
「っ違うよ、ただ、僕が…上手く話とか、できなくて…つまらないんじゃないかと、思って…」
「つまんなくないよ」
 当然というように返されたけれど、すんなり信じられる訳がない。
「…本当に?」
 疑い深く、聞き返す。
「ていうか…俺が、楓ちゃんの笑ってる顔見たいと思って勝手に頑張ってるだけなんだから」
 そんなもの見て、何が楽しいんだろう。
 きょとんとしている楓和に言い聞かせるように、朝香は言葉を続けた。
「楓ちゃんは何も悪くないんだよ。つまんなかったら黙ってればいいし、面白かったら笑えばいい。無理して笑ってほしい訳じゃないから。
 だから、そんなに簡単に自分のこと責めて傷つけないで」
 そんなことを言われたのは初めてで。
 楓和を傷つけたりせず、温かく包み込んでくれるような朝香のことが、何にも変えられないくらい、大好きだと思った。
 ありがとうなんて、何だか言えなくて。代わりにちょっとだけ笑って朝香を見た。
 楓和が笑うだけで、本当に朝香が喜ぶのなら、無理矢理でも笑ってあげたいと思った。
「楓ちゃんさ、もしかして、今まですっごい緊張してた?」
 やっと笑った、とほっとしたように言われる。
「…何で分かるの?」
「楓ちゃんって緊張すると、面白いくらい表情固まるんだな」
「…マネキンみたい?」
 朝香にまでそう思われていたらどうしよう、と恐る恐る問う。
「違うよ、それよりも…精巧な硝子細工の人形みたい。触ったら壊れそうで近付けない」
「…壊れたり、しないよ?」
「うん、分かってる。手、温かかったしな」
 確かめるようにもう一度、朝香の手が楓和に触れる。
 朝香の方が、温かい。
 何故か泣きそうになりながら、小さな声で呟いた。



「楓ちゃんって本当真面目っていうか…偉いよね」
 楓和の前の席に座った朝香が感心したように言う。
「毎日毎日放課後残って勉強してさ…今日なんて金曜日だよ?やっと一週間終わって明日は休みだっていうのに。俺だったら絶対月曜くるまで教科書開かない」
 今日は陸上部の練習が早く終わったらしい。いつも朝香が来るのは完全下校時刻直前だから、すぐに教室を出なければいけないけれど、こういう日はここでのんびりできる。
 気付けば朝香と知り合ってから二週間以上が過ぎ、教室へ顔を出した朝香と一緒に帰ることは、当たり前の習慣のようになっていた。
「全然偉くなんか、ないよ」
 本当は今日も、教科書の一頁分すら進んでいない。眺めていても全く何も分からないし、校庭を軽やかに走り回る朝香に、すっかり見惚れてしまっていたから。
「朝香の方が、すごいと思う。毎日部活頑張ってるから」
「そりゃ頑張るよ。走るの好きだし、昨日より早く走れたら嬉しいじゃん」
 走るのが好き、というのは見ていてよく分かる。走っている朝香はとてもいきいきとしていて、普段よりもっとキラキラして見える。
 コーチや先輩に怒鳴られてもへこまない。人に否定されると固まって何もできなくなる楓和とは、全然違う。
「でもさ、好きなこと頑張れるのは当たり前だろ。楓ちゃんは、好きじゃないのに毎日義務みたいに教科書開き続けてるから。偉いなって」
「…」
 それを見抜かれているなんて、思いもしなかった。
「できないからやらないとって思ってるんだろ?けど、そんな無理矢理やって自分追い詰めたって、逆に何も頭入んなくない?」
 図星すぎて言葉が出ない。
「俺も楓ちゃんみたいな時あったからよく分かるよ」
「え?」
「俺、ここに編入するまではすごいガリ勉野郎だったんだ」
「嘘っ」
 全然想像できない。
「本当だって。もう、すごい進学校で、毎日塾通いして、寝る間も惜しんで勉強して…幸い記憶力はよかったから成績は中の上くらいだったけどな。でも丸ごと全部詰め込んでるだけで、全く分かった気しなくてさ。思い詰めて何にも入んなくなって、うわーって爆発して転校。
だから楓ちゃんも、無理矢理はよくないよ。いつか爆発しちゃうから。好きなこととかやって、落ち着いたら案外あっさり理解できたりするもんだからさ」
 だから今日はおしまい、と机の上に散らばった教科書や問題集が次々と閉じられていく。
「それしまって。もう帰らないと。実は時間がやばい」
 そう言われて壁の時計を見ると、完全下校時刻一分前だった。慌てて全てをカバンヘ放り込み、腕を引かれるまま走り出した。
 本当はここまで急ぐ必要はないのだけれど。
 楓和は基本的に身体を動かすのは好きではないし、スポーツ全般が苦手だ。でも、朝香と二人で走るのは好きかもしれない。
 閉められそうになる昇降口に向かって全力疾走する自分たちが何だか滑稽で、楓和は久しぶりに声を上げて笑った。




 いつも通り寮の前で別れようとすると、ちょっと待って、と呼び止められた。
「楓ちゃん明後日何か予定ある?」
「日曜日?ないけど…」
 質問の意図が分からなくて戸惑いながら答える。
「じゃー二人で勉強会しよ。俺、少しなら教えてあげられるから」
「えっ、いいの?」
 さっきは月曜日まで教科書開きたくないって言ってたのに。
 それに朝香なら休日の予定がびっしり詰まっていてもおかしくないだろう。それを楓和のために使ってくれるなんて、信じられない。
「楓ちゃんと一緒だったら楽しそうだから。いいんだよ。明日は一日部活で好きなだけ走るしね」
「楽しい?」
「楽しいよ。楓ちゃんが嫌だったら無理にとは言わないけど」
「…よろしくお願いします」
 朝香がどういうつもりなのかは分からないけれど、休みの日を一緒に過ごせるのは嬉しかったから、そう言って頭を下げた。
「こちらこそよろしく」
 楓和の畏まった様子に吹き出しながら、朝香も言葉を返してきた。
「場所はどうする?俺の部屋は同室者がいるかもしれないし。いい奴なんだけど、楓ちゃんが緊張して固まっちゃったら困る」
「…僕の部屋でいいよ。週末は同室者いないから」
 塚原は毎週末必ず実家に帰るのだ。詮索できるような立場ではないし、する気もないけれど、彼は彼なりに家庭の事情というものがあるのだろう。そのお陰で楓和は、週末だけは塚原にびくびくせず過ごすことができる。
「ふぅん。じゃあ楓ちゃんの部屋行くよ。どこ?」
「…A棟の203」
 同じ棟じゃんと突っ込まれることを覚悟していたのに、何故か朝香は何も言わなかった。
 ただ、分かったと頷いて、また明後日な、と背中を向けた。
 もしかしたらとっくに気付いていたのかもしれない。楓和が敢えて寮の前で別れていることに。
 朝香は一体、何処まで楓和のことを見抜いているのだろう。
 もう見えなくなった背中を捜すように、楓和はしばらく寮の入口をじっと見つめていた。







「だったらこのdidは何?」
 下から二つ目の英文を指差して朝香に聞く。
 日曜日の午後、朝香は本当に楓和の部屋へやって来て、まずは英語から、と、楓和が理解できなかった部分を丁寧に解説してくれている。
「それは強調のdid。doで辞書ひくと載ってるよ」
 そう言って朝香は手元の英和辞典をぱらぱらと捲ると、doのページを見つけて楓和の前に置いた。
 上から順番にたどっていって、四番目に強調という文字を発見する。
「本当だ、あった」
「じゃ、訳はどうなる?」
「えーと、Sがtheyだから…けれども彼らはその島に本当に到着した…ってこと?」
「正解」
 朝香がにっこりと笑ってくれたから、安心してホッと息をついた。
「知ってる単語でも、何か意味が繋がんないなーって思ったら辞書引いてみるといいよ。載ってる中のどれかが必ず答えなんだからさ。
 すとんってはまる意味見つかると気持ちいいよ。宝探しみたいで楽しいし。だから俺、英文を訳すのはけっこう好きなんだ」
 楽しいなんて、そんな風に考えてみたことは一度もなかった。
「英語はこれで終わり?」
「うん。次は数学お願いします」
 言いながら机の上の教科書を取り換えると、うー、と朝香が困ったような声を出した。
「実は俺も数学苦手なんだよね」

 あんなに分かりやすく英語を教えてくれたのだから、そんな事言いつつ朝香の方がよくできるのだろうと思っていたけれど。
 数学は意外とどっちもどっちだった。
 二人の解答が食い違っていて頭を抱えたり、些細すぎる計算ミスに笑ったり。
 あーでもないこーでもないと騒ぎながら何とか課題を終わらせて、やっと一息ついた頃にはとうに日が暮れていた。

「あー、腹減った!楓ちゃん、夕飯食いに行こ」
「え」
「一緒に行くの嫌?」
「嫌って訳じゃないけど…」
 朝香と一緒にいるところを見られたくなかった。見られたら、誰かが朝香に教えるかもしれない。あいつはホモなんだ、友達に言い寄った気持ち悪い奴なんだ、と。
 聞いた朝香はどう思うだろうか。気持ち悪がって楓和を避けるかもしれない。もう笑いかけてくれないかもしれない。いつか朝香も塚原のように…
 そんなのは嫌だ、絶対に耐えられない。朝香を、失いたくない。
 悪い想像を追い払うように、少し見上げる位置にある朝香の顔をじっと見つめた。
 朝香は一瞬戸惑ったように瞳を揺らした後、嫌じゃないならいいだろ、と少し強引に楓和の手を引いた。
 どっちにしろこのまま部屋にいると、実家から帰ってくる塚原に鉢合わせしてしまう。
 朝香なら、大丈夫だよね?噂くらいで…態度変えたりしないよね?
 心の中でそっと問いかけて、楓和は素直に朝香の後を追いかけた。

[prev] [next]


back



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -