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 目を開けた時にはもう朝で、頭が痛くて重かった。ベッドから起き上がれないほど重い。熱い。やめておけと身体中が悲鳴を上げている。認めたくないがこれは熱がある。
 体調を崩す原因には、残念ながら幾らでも心当たりがあった。最近寝不足気味だったな、昨日手洗いうがいしなかったな、掛け布団の下じゃなくて上で寝てたな、夕飯食ってないな、最後にまともに食ったのいつだっけな。体調の自己管理も何もあったもんじゃない状態だ。熱が出るのも当然である。
 布団に潜ることすら億劫で、のろのろと転がって身体に巻き付けた。男性客に触れられないだとか以前の問題だ。出勤できない。無理矢理出勤しようにも、玄関にすら辿り着けない気がする。
 未読メールお知らせランプが光るケータイを開き、昨晩芹沢から返ってきた『わかりました』の一言を読み、再び芹沢宛てのメールを作成した。『臨時休業にするから来なくていい』と打った後、ろくに働かない頭で迷ってから、簡潔に理由を付け加える。『熱がでた』
 このタイミングで臨時休業の理由を隠したら、余計に心配されてしまう気がしたのだ。実家の用事という嘘は2週間前に使ったばっかりだし。宛先にモブを追加してから送信ボタンを押す。
 数分後に芹沢から電話がかかってきた。話をする気力はあまりなかったが、頼み忘れたことがあったから寝っ転がったまま出た。
『だ、大丈夫ですか霊幻さん!俺、お見舞いに行きます!』
「見舞いはいらないが、事務所のドアに本日休業の貼り紙しといてくれるか。休みって言ったのに悪いな」
『いえ、それくらい構いません。貼った後でお見舞いに行きます!』
「話聞いてたか?来なくていい。うつってお前までダウンしたら困るから絶対に来るな」
 何とか見舞いは諦めさせて電話を切る。いつもの倍以上の時間をかけて部屋着に着替えた後、皺だらけになったスーツをハンガーへ掛け、体温計を探すために引き出しを開けて、閉めた。この家にあるかないかすら思い出せないものを探し出せる気がしない。平熱になれば感覚で分かるからいいだろう。ベッドへ戻って今度こそ掛け布団の下で寝た。

 昼過ぎに一度起きてトイレへ行った帰り、水を飲みにキッチンへ寄ったら栄養ドリンクらしきものを見つけた。ろくにラベルも見ないまま流し込んだが、もしかしたらオンライン幽霊除霊の際に買い込んだ眠気覚ましの残りだったかもしれない。眠気覚ましにも余裕で勝てる強さの眠気を抱えているから問題はない。
 冷凍庫の下の方から引っ張り出してきた保冷剤とそこら辺にあったタオルを手に、よろよろと壁伝いでベッドまで歩く。枕元に転がるケータイのランプが、メール受信を知らせている。十中八九モブからの返信だろうが、まさかモブまで見舞いに行きたいとか言い出してるはずはなかろう。ないよな?
 結局読まずに寝落ちてしまった。


 目を開けたら顔が白くて胴体が黒い人型の何かがいた。
「うおおぉぉモブ!?!?」
 俺は身体の重さと怠さを一瞬だけ忘れて飛び起き、温くなった保冷剤入りタオルを床に落とし、思わず上げた声の途中でモブだと気が付いた。黒いのは学ランで白いのはマスクだ。医療従事者が使っていそうな本格的立体マスクで顔の半分以上が覆われていて、手にはスーパーのビニール袋をぶら提げている。
「師匠、大丈夫ですか?」
 マスクのせいで少々くぐもってはいるが、いつも通りテンションの低い声でモブが言った。
「おっまえ勝手に入ってくるなよ、びっくりしただろ!」
「鍵開いてましたけど。メールを見て開けておいてくれたんじゃ…?」
 身体の陰でこそこそケータイを開き、未読メール2件に素早く目を通す。『わかりました。学校が終わった後で家の方に行きます』が10時前で、『16時半頃に着きます』は15分前だ。
「…そうだったな。ちょっと寝たせいで忘れてた」
 まさか昨晩から開けっぱなしで寝てました、なんて言えない。エクボもエクボだ。手洗いうがいなんて母親みたいなことを言い出す前に、戸締まりについて突っ込んでくれればいいものを。
「あ、これ買ってきたのでどうぞ」
 幸い俺の苦し紛れの言い訳で納得してもらえたらしく、モブがビニール袋を差し出してきたことで鍵の話は終わる。
「おお、ありがとな」
 熱は微熱程度まで下がったらしく、身体を起こしたままでもそう辛くはない。素人判断ではあるが、風邪ではなく疲れから熱を出しただけなのかもしれなかった。
 よいしょと布団から脚を抜いて、ベッドに腰掛けながら受け取った袋は、予想を裏切る重さだった。
「何か食べられそうですか?」
「……とりあえず今はいいかなー」
 重さの正体を確認してからそう答える。
 中味はレトルトのお粥とフルーツゼリーと、プリンと薬味葱お得な3パックセットと牛乳だった。さすがモブだ。途中からちょっとおかしい。葱はフリーザーバッグに移して冷凍できるからいいとして、1リットルパックの牛乳を賞味期限内に一人で飲み切れると思っているのか。無理だからプリンと一緒に持って帰ってもらいたい。
 もちろん中味が何であれ、有り難いことは有難いのだ。それはもう、物凄く。
 だから、「後で食べるよ」と言う。
「そうですか。ちゃんと食べて、早く治してくださいね」
「…おう」
 見舞いなんていいのにわざわざ手土産を買って訪ねてくれたことに対する嬉しさや幸福感が、じわじわと湧き上って心を温める。病原菌の巣窟かもしれない場所に弟子を長居させるなと大人の自分が言うのに、まだ帰ってほしくないと思っている。退去を促す言葉を先延ばしにしたくて、少し気になっていたことを聞いてしまう。
「そういえば今日はお前一人か?」
「はい。律はスーパーにはついてきてくれたんですが」
「いや、弟君じゃなくて…」
 律は一緒に来ないのか、なんて思っていないし聞く訳がない。兄弟揃ってここに現れた場合は困惑のあまり「何でつれてきた?」と真顔で聞くだろうが。
「エクボがいない気がしてな」
 昨晩の少々気恥ずかしくもあるアレコレを思い出しながら、もごもごと言う。
 アイツは結局モブに何と報告したんだろう。俺に対するモブの態度に変わりはないから、変なことは言っていないはずだと信じたい。
「ああ、エクボとは学校へ行く途中で別れました。用事があるみたいで…あ、師匠には話すなって言われてたんだった」
 するっと口を滑らせてしまってから、あまり隠し事向きではないモブが「でも、どうしてだろう?」と続けて首を傾げる。
「悪さしに行ったんなら止めるべきだったかな…師匠はどう思います?」
「…さあな」
 全く見当もつかないが、俺には知られたくないということは俺に関わりのある用事かもしれなくて、そうなると行き先に思い当たるような気が、しないでもない。
「さすがにそれはないか」
「師匠?」
「いや、今のは独り言だ」
 まさかな、と苦笑して打ち消した。
「悪霊の考えることは分からん」


 さて、それから数分後の未来の俺は、思考停止状態に陥りかけている。

「師匠、まだ起きてても大丈夫そうですか?」
「ああ。このまま夜まで起きてるつもりだ」
「じゃあ、ちょっとやりたい事があるんですけど。いいですか?」
「今ここでか?とりあえず言ってみろ」
「僕もベッドに座っていいですか?」
「よくないな。あっちの椅子にしとけ」
「師匠、さっきから咳もくしゃみもしてないじゃないですか。うつらないですよ」
「分かんないだろ」
 そんな一連の会話の末、言う事を聞かずマスクまで外してベッドへ近寄ってきたモブに、俺は「離れろ」と言い掛け、そのままぽかんと口を開けて呆けてしまった。まず座ろうとする場所からしておかしかった。どうして俺の脚の間を選ぶ?
「師匠」
「うおあっ」
 モブが座らずに抱きついてきた。乗っかってきた体重を受け止めきれず、傾いだ身体が壁にぶつかりかけ、寸でのところで両腕で支えて堪える。なんなんだこの状況は。壁がなかったら勢いで押し倒されてた可能性もなくはない体勢じゃないか。考えたくもないが。目が回る。
 あまりのことに俺が放心していると、ぴっとりくっついたままの弟子が、胸元に埋めていた顔を上げて聞いてきた。
「怖いですか?」
 ひやりとした。
「怖い訳ないだろ。驚いてるんだよ」
「よかった。本気で怖がられたらやめておけと言われていたので」
 師匠、と改まった声でモブは言う。
「エクボから聞きました」
 まさかとは思うが、本当のこと話したんじゃないだろうな?
 心臓の鼓動が早くなる。動揺したらモブにばれてしまうのに。
「今まで気付けなくてすみませんでした」と言われる。ますます嫌な予感しかしない。
 けれどその後にモブの口から飛び出したのは、全く想定外の発言だった。
「師匠は、寂しかったんですね」
「……ん?」
「寂しすぎて死にそうになってたから、様子がおかしかったんですね」
 思わず「ちげーよ!」と言ってしまいそうになる程度には、大人の男としてカッコ悪すぎる理由だった。これはエクボの嫌がらせか?他に適当なのなかったのかよ。
 事実を話すことができない以上、否定する訳にもいかない。エクボの作り話に乗っかる以外、道は残されていないのだが。
「お前それ信じたの?」と聞く。ささやかな抵抗のつもりだった。
「まぁ、本当かなぁ、とは思いましたけど。でも、例えば僕が大人になった時に、ツボミちゃんや、花沢君や、部活の皆とももう会わなくなっていて、家族とも年末年始にしか会えなくて、恋人もできなくて、家に帰っても誰も迎えてくれなくて、独り言言いながらテレビを見たり、笑ったりしてたらどうしよう、って考えてみたら、すごく寂しくなったので」
 モブの想像図と俺の日常は、ほぼ一致していると言えるだろう。学生時代の友人とも、前の職場の同僚や先輩とも会うことはなく、新たな友達も恋人もできず、誰も迎えてくれない家に帰って独り言を言って、たまに笑って、一人で寝る。確かに寂しく見えるかもしれない。
 しかしながらモブの想像には、致命的に足りない部分がある。モブ自身だ。そんな日常にモブが現れてくれたから、俺はそこまで寂しくはないのだ。
 俺が寂しすぎて死にそうになるのは、お前がいなくなった後なんだぞ。分かってるのかモブ。
 お前が抱きついてきたりしたせいで、数年後の俺が寂しくて死んじゃうかもしれないんだぞ。

「師匠?違うんですか?」
 変な顔で黙りこくっていたせいか、怪訝そうにモブが聞いてくる。
「もうそれでいいよ」
 そういうことにしておかないと話が進まない。
「つまり、俺が寂しがってるから抱きついてこいってエクボに言われたんだな」
「…抱きしめてるつもりなんですが」
「あ、そうだったの」
「はい。抱きしめてやれば師匠は元に戻るからって」
 モブは表情を曇らせた。抱きつくも抱きしめるも同じようなもんだろ、と思っている俺とは違い、やけにその差を気にしているらしい。
「これじゃあ駄目でしたか?僕が子供だから?包容力が足りないせいですか?」
 珍しく矢継ぎ早に質問をぶつけてきたモブは、意外といっぱいいっぱいな顔をしていた。何とかして身近な大人の寂しさを取り除きたいと願う、健気な子供の顔だった。
「そうだな…」
 駄目なものか、と思いながらも、狡い大人は本当のことを言わないのだ。
「多少、効果薄めにはなるな」
「え」
 ショックを受けたような顔になったモブに言う。
「だからさ、」
 ――ごめんな、モブ。
 今だけ、ほんの少しだけでいいから甘えさせてほしい。
「ちょっと長めにやっといて」
「…わかりました」
 背中に回るモブの両腕に力が籠った。強めに、とは言ってないんだが。
 力と一緒に感情すら籠められていると思った。垣間見えるのは弟子の必死さや不安だ。本当にお前に心配かけてたんだな。
 胸が苦しくなる。しがみつかれているようにすら感じてしまう。
「なぁ、あんまりくっつくと鼻水つくぞ」
「出てないですって」
「…疲れないか?」
「鍛えてるので」
「…そうか」
 こんなことのために筋トレしてるんじゃないだろうに。
 肉体を改造する部活でそれなりに鍛えられた弟子の全力は少しだけ痛くて、どうしようもなく温かくて、なんだか今さら泣けてきそうだ。

「モブ」
「はい」
「最近たこ焼き食ってなかったな」
「…そうですね」
「食いたくなったな。明日にでも買いに行くか」
 俺がそう言って笑いかけると、モブの腕に籠められた力がふっと緩んだ。
「はい」

 たった2音の短すぎる言葉だったが、俺がモブの感情を察するには十分だった。
 それは好物を奢ってもらえる嬉しさではなく、心からの安堵が滲んだ「はい」だった。



2016.12.9

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