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 最近のモブについて一言で簡潔にまとめてみるとこうなる。おかしい。
 もう少し説明を加えればこうなる。「え、俺お前になんかした?」と1日10回は聞きたくなる感じに、おかしい。

 モブの様子がおかしいと思い始めたのは遡ること12日前、テスト期間明けの弟子が1週間ぶりに事務所へ顔を出したあの日である。夜間学校へ向かう芹沢がドアを開けた時、ちょうどそのドアの前に現れたモブは、年上の後輩と内緒話のように二言、三言交わした後で入ってきて、「あ」と小さな声を漏らした。短すぎるほんの1音だけでも、俺にはモブの感情が分かった。
 少しは喜んでくれたようで何よりだ。ソースと鰹節の匂いで事務所内を満たしてくれる食べ物が、丸テーブルの上で湯気を立てているのだから当然である。
「テストおつかれさん。たこ焼き食うよな?」
「いただきます」
「よし、手洗ってこい」
「はい」
 モブは素直に答えて流し前へ向かった。判断材料は「あ」と「いただきます」と「はい」と相変わらず表情筋の動かない顔だけなのだが、その時点ではいつも通りのモブだったと思う。特別浮かれても凹んでもいなかった。
 声に子供らしい覇気がないのもいつものことであるし、ほんの少し落ち込んでいるようにも見えたのは、テストの出来が悪かったせいに違いない。確か数学は最終日だった。

「お客さんはまだ来ないんですか?」
 客がいない時の定位置になっているソファーに落ち着いたモブが、1個目のたこ焼きを飲み込んでから聞いてくる。俺が口に入れようとしたたこ焼きは、楊枝に刺さったまま空中でギュンギュン回っている。
「さっきキャンセルの電話が入った。せっかく来たのに悪いな」
「元々テストが終わったら来るつもりだったから、いいです。部活も早く終わったし」
「そうか」
 お前はあとどれくらいの間、呼ばれなくてもここへ来ようと思ってくれるんだろうな。回転のスピードを上げたたこ焼きを視界の端に入れたまま、残された時間に思いを馳せる。
 出会った頃に比べれば随分大きくなった背中を笑って見送る日は遠からずやって来るんだろうし、お前は俺を振り返りはしないのだ。
 そうやって些か感傷的になっていたつもりだったが、
「まぁ、それ食い終わったら帰っていいぞ」
 実のところ意識の半分以上はたこ焼きに持っていかれつつあった。
 なにせ弟子が冷ましてくれているそれは、いつ口に突っ込まれるか分からないのだ。これくらいでよさそうだとモブが判断した瞬間に飛んでくるのだ。
 火傷しないように、と気遣う心があるくらいなら口へ突っ込む前に予告する親切心もついでに持ち合わせてほしいところだが、目の前の弟子に「はい、あーん」とやられる図をうっかり想像してしまって必死で打ち消した。そういうのは人目を憚らずイチャつく付き合いたてのバカップルがやることなのであり、青春真っ只中の中学生が三十路間近の男にやるのは駄目だ。
 酷い想像してすまん、モブ。
「…帰ってほしいんですか?」
 俺の頭の中でバカップルごっこを強制されていたとは知る由もないモブが、僅かに沈んだ声で聞いてきた。せっかくテストから解放されたのだから、バイトなどせずに羽を伸ばしたいんじゃないかと思ったのだが、別にそうでもなかったらしい。
「んな訳ねーだろ。いてくれた方が助かる」
「そうですか」
 今度はほっとしたような声。ここにいたいと言ってもらえたようで、つい、嬉しくなってしまう。
 己の失言のせいでモブに背を向けられてから起きたあれやこれやは未だ記憶に新しく、この場所に、自分に縛りつけるようなことだけは二度とするものかと常々思っている。時々突き放す加減を誤って凹まれて、それを見てまだ大丈夫だと安堵している俺は狡い大人だ。もちろんわざとやっている訳ではないが。
 ところで、いつまでたこ焼き冷ましてるつもりなんだ。モブ。
 チラリと回転を続けるそれに目をやった瞬間、モブも冷ましすぎたことに気付いたらしい。ヒュン、と俺の口を目指してたこ焼きが飛んでくる。相変わらず予告はしてくれない。
「え」と声を上げたのはモブの方が先だった。

「え?」
 聞こえた声を訝しんだのも束の間、すぐに事態を把握する。俺の唇に触れる寸前、たこ焼きが直角に落ちたのだ。脚を経由して床に落ちた。
 大したことではなかったが、どうしたんだよ、と聞きたくはなる。
「師匠、どうしたんですか?」
 なぜか先に聞かれてしまった。
「いや、お前こそどうした?」
 弟子は言葉に詰まっている。困っているモブの顔を見て、まあいいか、と即座に結論を出した。本当に大したことではないのだし。どうせ何かに気を取られたとかで、コントロールミスしただけだろう。
 視線をモブからズボンへと移す。
「あー、やっぱりスーツ汚れてんな」
「すみません」
「気にすんな。とりあえず拭いとけば大丈夫だ」
 大抵持ち歩いているらしいポケットティッシュを取り出したモブが近寄ってくるのを制して、1枚もらったティッシュで腿の辺りの汚れを拭い取る。勿体ないが床に落ちたたこ焼きはゴミ箱行きだ。
 気を取り直して紙トレーに残っている方を口に入れた。もう冷ます必要はなかった。むしろ冷えていた。

 モブの様子がおかしくなったのはそれからだ。
 まず、呼んでいないのに毎日事務所に来るところからしておかしい。相談事がある訳でもないらしく、暇な時は今まで通りマンガを読んだり宿題に取り組んだりしているが、時折こちらに向けられる視線を感じる。穴が空きそうなほど見られている。
 あんまり見られるものだから不安になって、「もしかしてなんか憑いてる?…あーいや、すげー強いのだったら分かるし自力で溶かせるけどな、俺くらいになると弱い悪霊じゃ何の影響もないせいで逆に気付けなかったりするし」云々かんぬん言い連ねてみたが、「いえ、今日はまだ何も」と返されて終わった。いつもは憑いている上にこれからも憑かれそうなその言い様はなんだ。
 だったらどうして俺を見るんだ、とは聞けなかった。
 色々と可能性を考えてはみた。師匠がカッコよすぎてつい見てしまうんです、ということなら「仕方ないな、好きなだけ見ていいぞ」で済む話だが、残念ながらそんなお気楽展開になる可能性はゼロだろう。
 どうにか形容するならば、それは何かを探るような目だった。ここ数日なんて苛立ちが混じって尖っていたり、恨みがましげに睨まれたりもしている。
 何かあったな、と察したのならば、簡単に聞き出すことができたのだ。弟子の悩み事なら聞き出し慣れている。ほんの些細なものから重たいものまで、何が来ても受け止めてみせる自信があったのだが。
 モブに何かあったのではなく、何かしてしまったのかもしれない。俺が。他の誰でもないこの俺が。
 どうしたもんかな、と考えつつ、客のいない事務所でだらけている。いくら考えても心当たりはないし、この数週間に限って言えば酒に酔って記憶を飛ばしたこともないし、あの時たこ焼きを落としたのは確かにモブだった。俺は何もしていない。
 そもそもテスト期間中だったモブとは1週間近く会っていなかったのだし、唯一原因となった出来事が見つかりそうな12日前のことをこうして詳細に思い返してみても、ヒントすら見つからないのだからもうお手上げだ。
 はああ、と思い切り溜め息を吐き出す。静かな事務所内には思いの外それが響いてしまって、同じく暇な時間を持て余していた芹沢が釣れた。
「どうかしたんですか、霊幻さん」
「…いや、実はな」
 試しに最近のモブについて軽く説明した上で、芹沢の意見を聞いてみた。
「最近よく見られてるんですか?やっぱり霊幻さんは影山君にとても慕われてるんですね」と、至極あっさり返された。しかも次に続けられた言葉は「そ、それより霊幻さん、もしかして俺、また何か失敗してしまいましたか?」で、既に話題が変えられている。
 今その質問を投げ掛けてきたことが失敗なんだよモブの話はどうした、と思いつつ、元々期待もしていなかったから指摘するのはやめた。他に気にかかることがありそうな顔だった。暇潰しに考え事をしていたらマイナス思考のループに陥って抜け出せなくなったとか、そんな感じだな。
 分かった、今はお前の話を聞こう。
「何でそう思ったんだ?」
「…さっき溜め息をついていたし、最近、霊幻さんが前よりちょっと遠くなった気がするんで……何か俺に怒ってるせいなのかと」
「遠いってなんだよ。心の距離的な話か?」
「いえ、物理的に」
 物理的に、ちょっと遠い。
 そんなことを年上の部下から言われても困る。恋人同士じゃあるまいし、芹沢との距離感なんて意識したこともなかったのだが。
「そりゃ気のせいだ。失敗するかも、怒られるかも、これじゃダメかも云々考えすぎてるせいで不安になって遠く感じてるだけだろ。結局は心の問題だ」
「そうなんですかね…」
「そうだよ。お前は十分よくやってくれてる。難しいかもしれんが、もうちょっと自信を持て」
「は、はい…ありがとうございます」
 吃りながらもそう答えた芹沢が晴れやかな顔をしていなかったのが解せないが、言葉ひとつで解決できる類いの問題ではないのだろう。あんまり考えすぎるなよ、と言いかけて、やめた。自分に跳ね返ってくる言葉だったからだ。最近モブのこと考えすぎだぞ、俺。
 とにかく手助けできるのはここまでだと判断し、暇つぶしのネットサーフィンを再開する。考え事を中断してみたところで、暇な時間は途切れず続いていくのである。何せ仕事がない。

「……なら、ええと、大丈夫なんですね?」
 引き続き考えすぎていたらしい芹沢が、先程の会話の延長線上にあると思われる質問をしてきたのは、トップニュースの見出しに一通り目を通し終えた頃だった。
「ああ、大丈夫だ」と俺は答えた。


 そして今日もモブは来た。一応夜に予約が入ってるが来ても来なくてもいいぞ、くらいのニュアンスで伝えたはずだったが、午前授業だったと言って14時過ぎに来た。
「客が来るのは夜だって言ったよな?」
「暇みたいだから宿題して待ってようと思って」
 何時間待つつもりだ。
 モブはエクボに助けられながら数学と格闘していたが、相変わらず隙あらばと向けられる視線に耐えられなくなり、芹沢と二人で買い出しへ行かせた。おやつも買ってきていいと言ったらすんなり出掛けてくれた。都合よく茶葉が切れかけていてよかった。
 目の疲れを感じて視線をモニター画面から宙へ転じると、これまた暇そうに浮遊しているエクボを見つけた。てっきりおつかい組についていったものだと思っていたが、途中で戻ってきたのかもしれない。最初からここにいたのかもしれない。
 エクボが見られるのを嫌がると視認できなくなってしまう俺には判断のしようがないし、どちらでも構わないが、好都合だ。家や学校でのモブの様子まで把握しているはずの悪霊なら、芹沢よりもまともな答えをくれるだろう。
「なぁエクボ」
 面倒がって消えられてしまう前にと、ぞんざいに呼び掛けた後ですぐさま本題に入る。
「モブの話なんだが」
「シゲオがどうしたって?」
 ふよふよと寄ってきながらエクボが言った。今日は会話してくれる気があるようだ。俺は頬杖をついたまま、ほんの少し顔の向きを変えて浮遊体を見上げ、「最近のアイツ、おかしいと思わないか?」と聞いた。
 エクボは、どう考えても同意とは解釈し難い反応を返してきた。
「お前それ本気で言ってんのか?」
 浮かぶ高度を僅かに下げて、俺の顔と同じ高さで止まった。よりによってモブと似たような目でじっと見てきた後、悪霊にしては無駄に豊かな表情で、最大限の呆れを表現して言ったのだ。
「シゲオがおかしいって言うけどよ、そうじゃねぇだろ」
「……は?」
 呆気に取られて口を開けた俺に構わず、エクボは更に理解不能な言葉を重ねてくる。
「だいたいな、この件を解決するつもりがねーんだよ、お前は」
「は!?」
 何がそうじゃないんだ。何でそんなこと決めつけるんだ。解っているなら教えてくれてもいいだろうに。
 得意の口八丁で絶対に吐かせてやるからな、と意気込んで標的を睨み据えた途端、ドアノブを回す音が聞こえた。最悪なタイミングでおつかい組が帰ってきたらしい。
「ただいま戻りました」
「牛乳とどら焼き買ってきました。あとお茶葉も」
「…あー、うん。おかえり」
 出鼻を挫かれたせいで間の抜けた声が出た。モブと芹沢は簡易キッチンへ直行した。モブが帰ってきてしまった以上、この話題を続ける訳にはいかない。
 手を洗う水音で二人に声が聞こえなくなる僅かなひと時を逃さなかったのは、意外にもエクボの方だった。
「お前が話す気になったら教えてやるよ」
 それだけ言ってモブ達の方へ漂っていってしまう。
「はぁ!?」
 だから、何を?

「来ないですね」
「来ないなー」
 16時に芹沢が上がってから、3時間半が無為に過ぎていた。18時に来るはずだった依頼人が来ない。
『17時頃には仕事が終わるので』
 電話口で言われたアレは客の予定ではなく願望だった。確実に定時上がりできるホワイト企業か、ちょっと羨ましいな、とか思っていたのに。残業三昧だった己の会社勤め時代と何となく比較してしまったのだが、大して変わらないようだから羨む必要はなかった。
「もう1時間半も過ぎてるぞ」
 エクボからわざわざ教えられなくても分かっている。19時を回った辺りから既に時計と睨めっこ状態だ。モブはケータイを開く回数が増えた。ぱかっと開いて何やら打ち込んでまた閉じる。
「すっぽかされたんじゃねーの」
「残業だと思うが」
「師匠、来るまで待つんですか?」
 すっかり暇疲れした声でモブが言う。
「当たり前だろ。今日来る唯一のお客様だぞ」
 来てくれないと今日の売り上げがゼロになる。どら焼きと牛乳代でむしろマイナスだ。時給300円のモブしかいなかった頃ならともかく、芹沢への給料があるのだからさすがにまずい。
 俺には待つべき理由がある。きっとモブにはないはずだった。
「モブ、お前は帰っていいよ」
「え、でも」
「肩か腰が呪われてる客だから俺一人で十分だ」
「マッサージの常連さんですか?」
「新規だが俺の勘では呪術クラッシュでいける」
「勘か…」
「俺の勘はけっこう当たるぞ」
「…そうでもないような」
 自信満々答えたのに、モブはぐぐっと首を傾げた。
「師匠って、いる時にいないってよく言うし、いない時はいるって言うじゃないですか」
 主語が抜けているとはいえ、モブが言っているのは確実に悪霊や呪いの有無の判断のことで、俺が霊感ではなく勘で仕事してきたのだと、完全に決め付けて掛かっていて。
「そんなことよりなモブ!」
 まずい。これは断たねばならない流れだ。
「お前さっきから腹鳴りまくってるだろ」
「え」
 バレてたんだ、と思っている顔でモブが固まった。
「ケータイも鳴りまくってるな。弟からのメールだな?」
「…はい」
「律と夕飯が待ってるから早く帰れ。な?」
「……はい」
 全力で話を逸らして早急にお帰りいただいた。危なかった。額に滲んだ変な汗を手の甲で拭う。霊感がないことはとっくに知られてるんだから誤魔化しても意味なかったか、と今さら思い至ったが、あれは条件反射だ。仕方ない。
 何はともあれモブを家に帰すことはできたのだから、視線を気にして悶々とする時間は終わったのである。後は一人で依頼人を待つだけだ。
「さっさと来てくんねーかな…」
 独り言が事務所内に虚しく響いた。急に静かになったせいだろうか、今度は時計の秒針の音が耳に付いて落ち着かない。余計に時間の経過が気になってしまう。時折車のエンジン音が、地味に苛立ちを煽ってくるそれをかき消してまた遠ざかる。
 人工照明ばかりが目立つ混沌とした夜の街を窓越しに見遣り、モブを送ってやりたかったなと思う。人間だけでなく、悪霊の類いにも絡まれそうな弟子なのだから、尚更心配だ。保護者役にエクボを付けておけば大丈夫だと解ってはいるが。
 エクボのニヤニヤ顔を思い出して、またイラッとした。俺が言葉巧みにモブを丸め込もうとしていたあの時、悪霊は高見の見物を決め込んで笑っていやがったのだ。


 依頼人はモブを帰らせてから30分後にようやく現れた。気弱そうな丸い顔が横幅の広い身体の上に乗っている、30代前半に見える男だった。贅肉のせいでスーツがはち切れそうになっているから、諦めてもうひとサイズ上のものを買った方がよさそうだ。
「遅れてしまってすみません、終業間際に部下のミスが見つかって、それを何とかするまで帰れなかったんです、上司にはぼくが悪いみたいに言われるし」
 聞き取りにくい声で、ぼそぼそと切れ目なく喋り続ける男だった。
 勢いがある訳ではないのに口を挟めない。これはアレだ、抑揚のなさといい、眠気を誘う調子といい、なんだか法事で聞かされるお経に似ている。少しでも油断すると意識が飛ぶヤツ。
「帰りの電車では思いっきり足を踏まれるし、あげく痴漢と間違えられて、もちろんぼくは触ってないです、ちゃんと両手も上げていたのに信じてくれなくて、なかなか解放されなくて、これは絶対何かに呪われているせいですよね、そういえば昨日も」
 男の話は40分間続いた。俺の持つヒアリング能力・読解力・その他をフル活用しても半分以上聞き取れなかった。意識を保つために相槌くらい打とうと試みてみたが、隙間が足りないせいで「ええ」すら男の声と被ってしまったし、ならばせめて親身になって聞いてる感を出すためにとコクコク頷いていたら、余計眠くなって逆効果だった。眠くなっただけで断じて寝落ちてなどいない。
 ハッと気付いた時には男の声が途切れていた。話が終わったのだと即座に判断し、「おっしゃる通り、それは間違いなく悪霊に呪われているせいですよ」と眠気などおくびにも出さず言い切って、いつもの料金の説明に移った。思う存分愚痴を吐き出したらしい男は、除霊を始める前からスッキリした顔になっている。もう帰りたい。
 肩に何か乗っている気がするし、全身が重くてすぐ疲れるのだと言っていたから、体型のせいじゃね、と思いながらも施術室へ案内する。マッサージした後で、食生活の改善と適度な運動をさりげなく勧めてみよう。
 皺になってしまうので、とスーツの上着を脱いでもらった。途端、むわっと広がった男の体臭が、息苦しいほどに室内を満たす。狭い部屋だから仕方がない。今まで気にしたこともなかったじゃないか。
 白いワイシャツの背中は、汗で湿っているように見えた。
 そういえば、と考える。そういえば、一人で訪れた男性客と一人きりで向き合うのは実に2週間ぶりだ。このところ女性客ばかりだったし、男が来ても羨ましいことに彼女連れだった。呪いらしきものを背負った男が来た時は芹沢が溶かして終わった。
 もちろん、一人だからといってどうということはないのだ。考える必要はない。大したことじゃない。本当に。
 マッサージと生活改善指導をさっさと終わらせて帰るのだ。
「先生?この後どうすればいいんでしょうか?」
 簡易ベッドの前に立ち尽くす男から不安そうな声で聞かれ、自分が動きを止めていたことに気が付いた。
 得意の営業スマイルを崩さないまま、そちらにうつ伏せになってリラックスしていてください、と口を動かした。つもりだった。これより除霊を行います。吐き気がする。
「あのぉ……先生?」
 どうして声が出ない?身体が動かない?金縛りか?悪霊のせい?それとも人間の、

 ――霊幻先生。

 その時耳に届いたのは、目の前の男の声ではなかった。なぜか2週間前に来た客の声が聞こえる。
「霊幻先生のことが好きなんです」
 大したことではないと結論付けたはずなのに、どうしてこんな時に思い出すんだ。何ひとつ取り零せないほど鮮明に。
 2週間前もこの場所だった。息苦しくて、酸素が足りなかった。もっと酷い臭いがしていた。荒い息混じりの台詞の再生は続く。
「本当に、一度だけでいいんだ。二度と来ないと約束しますから」
 鼻があの臭いを覚えている。自分の吐瀉物と客だった男が吐き出したものの混ざり合った臭い。血と、精液でどろどろになっていた簡易ベッドに、今もそれが残っている気がする。あんなに掃除したのに消えないのか。臭いも、記憶も。
 気色悪いだけの体温とか。意味のある言葉が出てこなくなった自分。項垂れたままだった性器を執拗に弄られて、ゲロに塗れながら達してしまった自分。その汚ならしい様を見ても全く萎えずに、「感じてくれてるんだ、よかった」と呟く気色悪い声。手のひらに乗った白濁を恍惚と舐め取って、笑う。笑う。
 何もよくない。気持ち悪い。こんなのは違う。
 好きだから触れたいのだと殊更主張する男の、真っ黒い目が欲望で濁っている。俺を見ているようで見ていなかった。これは最後までやられる、と思った。逃げようがない状況であることは理解している。だったら抵抗し続けることに意味はあるのか?
 無駄だと悟った瞬間に、なんかもう、どうでもいいか、と思ってしまった。掠れきって、引き攣って、声にならない声で言う。好きにすればいい。それを突っ込んでも、殺してもいい。力が抜けたせいで両膝を床に打ち付けた。記憶と現実の境目なんて、とっくに見失っていた。
 ぐわんと、目に映る全ての輪郭が崩れていく。これはまずい。気持ち悪い。本気で、吐く。
「……げん!」
 聴覚のおかしさも加速していき、三人目の声まで聞こえてきた。俺の五感にいったい何が起きたんだ。ぐにゃぐにゃの視界はとうとう緑色に染まった。それにはふたつの目があって、鼻と口まで付いていて、口が開いたり閉じたりする。
「どうした!?おい!霊幻ッ!!!」
 ぱちりと瞬いた。三人目ではなく悪霊の声だ。ボリュームを搾りたくなる程の怒鳴り声だ。視界に緑色のフィルターを掛けてしまうくらい至近距離に馴染みの悪霊が浮いているだけなのだと気が付いて、耐え難かった吐き気も遠退く。よかった。俺はそんなにおかしくはなかった。
「……なんだ、エクボか」
 やっと口が動いて音になった。
「っ、お前なぁ!!」
 エクボは何かを言い掛けて、結局言わずに飲み込んだようだった。少々不自然な間を置いた後、先程までの荒げた声が嘘のように思えるどうでもよさそうな口振りで、「その客、弱いのが憑いてるぞ」と言う。正直、客の存在を忘れかけていた。ちらりと見上げた丸顔は、俺への不審感で溢れている。恐らくは数分間固まられた後で、見えない何かとの会話まで始められたのだから当然だが。
 ホンモノが憑いていたなら後で誤魔化しは効くはずだと開き直り、「じゃあ喰っといて」とエクボに頼む。
 珍しいことにエクボは文句を言わなかった。「何で俺様が」とも「まずいもん喰わせやがって」とも言われなかったのは初めてかもしれない。逆に落ち着かない。
 俺には見ることもできない低級霊を咀嚼する口の動きが止まったことを確認し、おもむろに立ち上がる。そして、「はい、これで除霊は完了しましたよ!」と、わざとらしいほど朗らかに宣言した。
「いやぁ、危なかった!お客さん今日ここに来て正解でしたよ、これ以上放置していたらあなたも危険だったかもしれません!悪霊が抵抗してこちらの動きを封じてきたせいで少々手こずりましたが、もう大丈夫です!ほら身体が軽くなっているでしょう!?」
 捲し立てる勢いに呑まれたらしい男の表情が、じわじわと明るくなっていった。
「ほ、本当だ!何だか軽くなった気がします!」
 たぶん嘘はついていないからこれでいい。さっき俺の感覚がおかしくなったのも間違いなく悪霊のせいだし、しっかり除霊もしてやった。エクボが。
「先生、本当にありがとうございました!」
 満足して帰っていく依頼人を笑顔で見送る。単純な客で助かった。これでやっと事務所を閉められる。

 客がいなくなった後に訪れた静寂が、ほんの少しだけ気まずかった。ひとまずエクボが戻ってきた理由は聞いておくか、と口を開いたが、音になる前に遮られてしまう。
「霊幻」
「…なんだよ」
「お前、何も見えてなかったよな」
「まあな」
 軽く認めると、エクボは言った。
「見えない癖に何にビビッてたんだ?」
 揶揄いを含んでいない声と、らしくない真面目な表情で。
「はぁ!?ビビッてねぇよ。悪霊が金縛り的な攻撃仕掛けてきただけだ」
「へたり込んでたろ」
「それも悪霊のせいだな」
 絶対にそうだ。何てことない出来事だった。一晩寝たら忘れる程度の。
 どうでもいいのでこの話題は切り上げることに決め、「そんなことよりお前何しに来たの?」と聞いた。
「モブが忘れ物でもしたのか?」
 エクボは答えを返す代わりに、は〜〜〜、と溜め息を吐き出した。その上、脈絡なく唐突に「帰るぞ」と言われた。
「送ってやる」
「は?いやいらないけど」
「俺様だってお前なんか送りたくねぇんだよ。話があるから仕方なく、だ。ここで話すのはさすがに嫌だろ?」
「なんで?」
 理由が分からなかったから聞いてみただけなのだが、ぐったり疲れ切ったようなうんざり顔で、またもや溜め息をつかれてしまう。
「……どうしてお前はそうなんだ」
 呆れられているらしいことだけは分かった。


 この部屋に客が来るのは久しぶりだ。尤も客として招いた覚えはないし、実体のない悪霊が客になりえるものなのかどうかも謎だが。
 カチ、と紐を引いて明かりを灯す。目に映る代り映えのない室内に、非日常がふよふよと入り込む。勝手についてくる浮遊物のことは気にせずソファーへ直行し、スーツの上だけ脱いで座り込んだ。上着はソファーの背へ適当に放る。
「おいコラ、ちゃんと手洗いうがいしろ」
 エクボが悪霊らしからぬことを言ってくるから、「後でな」と軽く受け流した。
 いっそこのまま寝たいくらい疲れている。マッサージすらしそびれて終わった1日なのに、必要以上に体力を消耗してしまった気がする。
「シゲオにはうるさく言うくせによ…」
 呆れたような声でエクボが言う。この非日常の塊が目の前にいる限り1日は終わらないんだった。疲労感が増した。
 残り少ない気力をかき集め、背凭れから離れたがらない身体を起こす。
「お前の話とやらを聞くのが先だ。モブが待ってるから早く終わらせて返さねーとな」
 エクボは否定しない。予想通り、というかそれ以外考えられなかったのだが、
「どうせモブに何か頼まれたんだろ」
 半ば確認するように聞く。
「まあな」
「だったらさっさと済まそうぜ」
 モブのことだ。エクボが戻ってきて結果を報告するまで、寝ないで待っているつもりだろう。子供を早く寝かせるためにも、手短に済ませる必要がある。デジタル時計が表示する現在時刻は21時29分。
「で?俺に話ってなんだ?モブがおかしかったのと関係あったりするのか?」
「…まぁ、シゲオの話でもあるが」
 煮え切らない答えを寄越したエクボは一度言葉を切って、俺の顔をじっと見てきた。またあの探るような目だ。何を見つけたいんだか知らないがやめてほしい。俺はそろりと目を逸らした。

「シゲオがショック受けてたぞ」とエクボは言った。
「いつ」
「たこ焼き落とした日だ。お前が本気でビビッた顔なんか見せやがるから、相当堪えたみたいだぜ?」
「……してねーよ。そんな顔、弟子に見せるか」
 僅かに身体が強張ったことを気付かれていないだろうか。俺はいつも通りの声を出せているんだろうか。
「してたんだよ。シゲオでも気付くくらいあからさまだったぞ」
「マジで?そもそもあの時お前いたっけ」
「いただろうが。記憶改竄すんな」
 あの日のことを思い出す。たこ焼きを落としたのはモブなのに、「どうしたんですか」と聞かれたこと。エクボが退屈そうに浮いていたこと。たこ焼きが飛んできた瞬間に考えていたこと。
 食べ物ですらない何かの味と臭いが口の中に蘇っていた、俺は。
「お前はシゲオがおかしいっつったけどよ、ここんとこおかしいのはお前の方だからな」
 違う、と言いたい。おかしいのはモブだ。反論が喉につっかえて出てこない。
「そのせいでシゲオがお前のことばっかり考えてやがる」
 エクボを論破できる材料が足りない。思考が空回ってひとつも見当たらない。
「望めば神にだってなれる程の力を持ってるシゲオが、ずっとインチキ詐欺師のこと考えてんだぞ。シゲオがそんな状態じゃ困るんだよ。変なとこ頑固だから俺様が気にすんなっつっても聞きゃしねぇ。お前が変だとか今更なこと言ってやがるし、何かしてやれることはないかって家でも学校でも悩んでるし、挙句俺様に探ってこい、だとよ。ったく、めんどくせー!」
 苛立ちも露わに捲し立てた後、ぐぐっと距離を詰めてくる。眉を吊り上げた顔が鼻先数センチまで迫る。これは対話に適さない距離だぞ。近すぎるぞエクボ。俺は軽口も叩けやしないのだ。
「わざわざ俺様がお前のために時間を使ってやってんだ。いつまでも逃げてねぇでさっさと吐け」
「……俺がいつ逃げたって?」
 目を合わせられないまま言い返す。
「逃げてんだろ。今も」
 どんなに視線を逸らしても、吹き込まれる声からは逃れられない。
「言っとくがな、さっき俺様が喰ってやった悪霊には、取り憑いた対象以外に何かできる程の力はねーぞ」
「へぇ…だから?」
「お前が固まってたのは悪霊のせいじゃねぇってことだ。てめーの心の問題なんだよ」
 あ、似たような台詞言ったな俺。確か今日の昼間、芹沢に。
 現実逃避しかける俺の両頬を、エクボの透けた手のひらが覆った。逃がした視線の先に現れるなんて霊体は卑怯だ。追い詰められて、動けなくなる。
 触れられている感触は全くない。体温どころか冷気を感じる。けれど微かに身体が震えたのは、とうとう目を合わせてしまったせいだった。
 こんなに近いのだから読み間違えることはないはずだ。ぎゅう、と寄せた眉と何かしらの情を湛えた瞳で、心配しているのだと伝えてくる。
「なぁ、霊幻」
 それを俺に向けるのはおかしいだろう。面倒くさがってたんじゃなかったのか。
「ひとりで逃げ続けても、解決しないことだってあるんだぞ」
 幼い子供に言い聞かせるように、エクボがゆっくりと言葉を継ぐ。
「だから、さっさと吐いちまえ」
 ひとりで抱えるな、抱えたものを渡してもいいんだ、と。
「何があったんだ?」
 促す声が優しかった。その一言で俺の中の何かが決壊する。
 ――俺は、そんなにおかしかったか?
 黙ったまま俺が口を開くのを待つエクボに、そう問い掛けてみようとして、やめた。わざわざ聞くまでもないことだ。何せモブが気付くくらいだからな。よっぽどおかしかったんだろうな。
 騙すのは得意だと思っていた。自分も自分以外も完璧に騙し通せると踏んでいたのだが、結局は自分しか騙せなかったらしい。モブに不審がられた時点で終わっている。
 それでも俺は最後の悪足掻きのつもりで、「大したことじゃないんだが」と言った。
 あの夜、汚れたシーツをゴミ袋に詰めながら、ベッドマットまで染み込んだ血の跡を落としながら、消毒液で湿らせた雑巾で床を磨きながら、狂ったように呟き続けた言葉だ。こんなの大したことじゃない。夜が明けるまで繰り返しても思い込ませるには足りなくて、それからも嫌な記憶が蘇りかける度に、自分があの捨てたシーツや雑巾と大差ない汚物のように感じる度に、何度も何度も言い聞かせた。
 焦れたようにエクボは言う。
「そういう前置きはいらねぇんだよ」
 わかった。言い聞かせるのももうやめる。正直に認める。俺は全然平気じゃなかった。
 虚勢を張っていたことなんてとっくに見透かされていて、だから、もういいか、と思ってしまう。これ以上取り繕わなくてもいいのか。
 ゆっくり目を閉じて、深く息を吸って、吐き出す。瞼の裏に浮かんだのは、俺をじっと見つめるモブの顔だった。それを追い払うように目を開く。エクボの両手は頬から離れて消えていた。 
「……エクボ」
「ん?」
「モブには黙っててくれるか?」
「内容に依るな」
 素っ気なく返してきたエクボが、会話しやすい距離までスイ、と離れた。
「判断基準を知っておきたいんだが」と俺は言う。エクボが笑う。優位に立った者が浮かべる、面白がるようなあの笑みだ。にたりとでも表現するのが相応しいそれは少し大袈裟で、わざとらしさも透けて見えていた。
「悪霊怒らせて痛い目見たとか、霊能詐欺がバレて客にボコられたとかだったら報告するぜ」
 それは言うのか。だったら。
「……客にレイプされた場合は?」
 エクボがニヤニヤ笑いを止めた。さすがにこれは言えないよな。子供に聞かせていい話じゃない。
「そっちかよ」と舌打ちされる。不愉快だろうが最後まで聞いてくれ。吐いていいと言ったのはお前だ。
「この前、常連客に掘られた」
 もう一度はっきりと言葉にしてみた。
「半月に一度くらい来てたマッサージ目当ての客だ。初めて来た時は呪われてるせいで結婚を前提に付き合ってた彼女に振られたとか言ってたんだが」
 話し出したら止まらなくなっていた。出口を探していた言葉が溢れているのだと思った。
「まさか、男もいけるとはな」
 どうしても手が震えるから膝の上で組み合わせて、それでも足りなくて白くなるまで握った。
「無理やり突っ込まれて尻が切れたしすげー痛かった。中出しされたせいで腹壊したし次の日動けなくて臨時休業にしたし、とんだ災難だよ全く」
「いつもの正当防衛はどうした?」
 嫌悪するでも呆れるでもなく、凪いだ声でエクボが聞いてくる。
「いきなりスタンガン使われたんだよ。目が覚めたらベッドの上で、縛られてて、口ん中に突っ込まれてたから無理だった。なんかもう、顎ガクガクで噛み切る余力もなかった」
 はは、と笑ってしまおうとしたが、唇の端が引き攣っただけだった。笑えない。
「常連じゃあ警戒怠るのも仕方ねぇか。相手の個人情報は分かってんだろ」
「一応顧客名簿にあるが…ヤり逃げするような男は、馬鹿正直に本名を使ってないと思うぞ。電話番号も変えてそうだしな」
「その話し振りじゃ、実際どうなのか調べてないんだな。警察に突き出す気はないのか?」
 意外だと言いたげな顔でエクボが聞いてくる。俺は、答えられなかった。
 平然と警察に突き出すなり、犯罪にならない程度の反撃を仕掛けて「もう二度とやりません」と言わせるなりするのが、エクボの知る霊幻新隆なんだろうな、と思った。俺だってそう思っていた。そうするべきだとも思っていた。
 アイツがアラサーの男にだけ興奮する類いの変態だと、どんな根拠があって決め付けることができる?常習犯だったらどうする?もしも次に犠牲になるのが女性だったら?もしも年端もいかない子供だったら?
 そこまで考えておきながら行動を起こさず、忘れることで自分の心だけを守ろうとしている。そんな自分を見下ろして、お前は誰だ、と問いたくなるのだ。影山茂夫の師匠じゃなかったのか?弱くて、情けなくて、子供を守ってやれる大人だと胸も張れなくて、モブの師匠でいられないお前なら俺はいらない。

「あ〜〜〜ッ」
 不意にエクボが声を上げた。らしくなく焦ったような声は一瞬で近付く。
「分かった、もう聞かねぇよ!」と耳元で喚く。うるさい。
「聞かねぇから、ビルの屋上にぼけーっと立ってる飛び降り寸前の奴みたいな顔すんのやめろ」
 理解が追い付かなくて固まった。そんなに酷い顔をしていたかどうかなんて、鏡でも見ない限り分からない。悪霊が慌てふためく理由はもっと分からない。
 困惑から抜け出せないまま横目で窺った先のエクボは、透けた腕をひょいと伸ばしている。小さな手が俺の頭の上に乗った、ような気がする。いやお前何やってんの。
 髪がふわふわと揺れ始めた。眠気を誘う穏やかな風に吹かれているみたいだと、思った。
「怖かったんだな」
 エクボは俺の頭を撫でながら言った。手のひらから体温を感じることはできないが、包み込むようなその声が優しくて、温かくて困るのだ。何やってんの、と言い損なった口元が震える。
「シゲオにたこ焼き食わされるのも、芹沢に近寄りすぎるのも、客に触れるのも、怖いんだな」
 こくん、と一度頷いてみた。我ながらガキみたいだと呆れてしまう。
「……うん」
 相手はモブで、モブが冷ましてくれたお陰で火傷をする危険もない、モブの好物を口に入れられる、ただそれだけのことだったのに。理屈ではなく、
「怖かった」
 怖かったのだ。俺がちょっと遠くなったことを気にして悩んでいた芹沢とも、無意識の内に距離をとっていたんだろう。物理的に遠いという彼の表現は適切だった、と考え直すと同時に、どうやら俺が思っている以上に、モブと芹沢から見られていたらしいことを悟る。
「やっと言ったな」と言って俺の髪を掻き混ぜて離れたこの悪霊からも、きっと。
 こんなに温かい彼らのことを、どうして怖いなんて思ったんだろう。今度芹沢が凹んでいる姿を見掛けたら、心を浮上させる一言とセットにして、ぽんと肩でも叩いてやりたい。頑張っているモブの頭を撫でてやりたい。あの体温が恋しいような気さえしてくる。だから二人になら触れられる。
 無意識の内に抱えていた恐怖のせいで色々とボロを出してしまったのであって、自分の中にあるものを認めた今となっては、薄れるまで上手く付き合っていけるはずだ。ここで問題はひとつに絞られた。明日からも霊とか相談所で依頼人を迎える以上、薄れるまでなんて待っていられないことである。
「ちょっと考えてみたんだが」と、俺はエクボに話しかけた。
「モブか芹沢かお前になら触れるが、客はまだ無理そうだ」
「俺様にも触れないだろ」
 聞き逃さなかったエクボからすかさずツッコミが入る。お前に触るのも怖くないと言ったんだ、なんてわざわざ説明してやるつもりはない。素知らぬ顔で聞く。
「どうしたらいいと思う?」
「俺様が知るか。とりあえず客と二人きりにならなきゃ平気なんだろ?」
「たぶんな」
「だったらシゲオか芹沢にいてもらえ。あとは人に触るなり触られるなりして、少しずつ体温に慣れていくしかないんじゃねぇの?」
 最初に突き放すようなことを言ったくせして、難しい顔で考えながら答えをくれる。
「そうだな」と短く返す。
「いい機会だからよ」と冗談めかしてエクボが言う。
「いっそ思いきって転職するのもいいんじゃねぇの?」
 目は口調を裏切って真剣だった。逃げ道を示されたのだと解る。今のところは選ぶつもりのない道だ。少なくとも、こんな動機では。
「よくねーよ。せっかくまともに社会復帰できた芹沢が職を失うだろ」
「理由そこかよ」
 理由が芹沢では不服なのか。
 ――そろそろ、モブには必要なくなる場所だからな。
 声に出すのが辛すぎる言葉は、心の奥の方にぎゅぎゅっとしまいこんでおく。
 エクボは何か思案しているのか、迷っているのか、黙って俺を見下ろしながら揺らめいていた。
 ややあって、躊躇いがちに言う。
「お前、顔だけは悪くねーし、このままあの仕事続けてたら、また襲われる可能性だってなくはねぇんだぞ」
「その時は正当防衛で華麗な金的蹴りかましてやる」
「…今日みたいに固まってそうだけどな」
「もう固まらねーよ。この天才霊能力者霊幻新隆さまが、何度も同じ手に引っ掛かると思ったら大間違いだ!」
「お前のその無駄な自信はどこから来るんだよ…」
 呆れ声でそう言った後、エクボが僅かに表情を緩めた。
「ま、いつものムカつく調子が戻ったってことか」
 ホッとしたような顔で見下ろされている。どうにもむず痒くて落ち着かないが、今なら言えるかもしれない、とも思う。
 お前のお陰だよとか、ありがとなとか。
「そんじゃ、俺様は帰るぜ」
「え、帰るのか?」
 言えなかった。
「用は済んだからな」
「いやここは『眠れるまで俺様が側にいてやるよ』とか言い出す流れだろ!」
「ねぇよ!!!」
 全力で否定された。俺自身、実際エクボに言われたら鳥肌が立ちそうだと思っていたから当然か。そんなことを言い出すエクボなんて、悪霊を喰っている姿より気持ち悪い。
「シゲオに頼め」とも言われたが、頼める訳ないこと解って言ってるだろ。この悪霊め。

 エクボは本当にあっさり帰るらしい。玄関とは逆の方へ飛んでいくから、追い掛けて窓を開けてやった。
「シゲオには話す気ねーから安心しろ。上手く誤魔化しといてやる。あとな…」
 するりと脱け出した実体のないものは、薄闇に溶けて消えていた。
 硝子に映る自分の顔とぼんやり向き合ったまま、俺は「あとな」の続きを思い出している。冷気の吹き込む隙間から捨て台詞のように届けられた言葉が、やっぱりむず痒くて笑えてしまう。
「どうしても駄目そうだったら病院行けよ」か。
「……おう」
 誰もいなくなった部屋の中で答える。室温が下がりすぎていることに気が付いた。ワイシャツ1枚で覆われているだけの腕に鳥肌が立つ。慌てて窓を閉めて暖房のリモコンを探す。この部屋、こんなに寒かったんだな。
 気付かなかったのは俺がおかしくなっていたせいで、今、寒さを感じるのは。
「怖かった」と声に出して言うことができたからだ。それをそっと引き出して聞いてくれた悪霊のお陰で、拍子抜けするくらい楽になってしまった。
「明日、病院行ってくるかな…」
 温い風を浴びながら呟いた。接触恐怖症とでも呼ばれそうなものの克服なんて後回しにして、即刻解決しなければならない問題があることに思い至ったのだ。病院で検査を受けておかないとまずい。変な病気をうつされていたら困る。
 明日の午前中に行ってしまおうと決め、芹沢に入り時間変更メールを打ち、閉じたケータイをベッドに放った。
 そこから先の記憶がない。

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