3

「そういえば今日って同室者、部屋にいる?」
「え?」
 朝香が急にそんなことを言い出したのは、一週間後に控えた定期試験の話をしている時だった。
「寮長の塚原。同室だろ」
 辺りはまだ、夕焼けの気配も見えないほど明るい。
 部活がテスト休みに入った朝香と二人で、寮へ向かって歩いている。
「いると…思うけど。どうして?」
 聞かなくてもなんとなく分かってしまったけれど。
「話あるから。これから楓ちゃんの部屋行く」
「で、でも…いるかどうか分からないし、何かあるなら伝えるよ?」
「直接じゃないと意味ないんだ。楓ちゃんも逃げないで」
 反論を許さない口調に、あぁ、駄目だ、と思った。
 朝香は、塚原と楓和の確執に気付いてしまった。あとは雪崩のように勢いよく、全てが巻き込まれて壊れてしまう。


 部屋へ入ってきた朝香を見て、塚原はすぐに用件を察したらしい。普段の敵意を抱かせない穏やかな笑みはすっと消えて、代わりに冷たい薄笑いが浮かんだ。
「何の用だ?」
 一瞬の沈黙の後、憤った朝香の声がぶつけられる。
「…おまえなんだろ。楓ちゃんに酷いこと言って傷つけてんのは。去年楓ちゃんと同じクラスだった奴に聞いて回ったらすぐ分かった」
「何でそこまでして調べたんだ?」
 塚原に否定する気はないらしい。朝香の言葉に顔色ひとつ変えない。
「このままだと楓ちゃんが、追い詰められて駄目になりそうだったからだよ。
どうしてそんなことするんだ?優等生の鬱憤晴らしか?」
 聞かない方が幸せなのにな、と塚原が低く呟いた。
「おまえにとっちゃ、俺はとんでもない悪者で、倒してやるつもりでここへ来たんだろうが…それで全て解決すると思っているなら大間違いだ。これは勧善懲悪の型に嵌まったありきたりの物語じゃない。おまえが運んできたモノは、救いじゃなくて自爆装置なんだよ」
「理屈ばっかこねてないでどういうことなのか説明しろよ」
「…やめてっ!」
 思わず朝香に取り縋った。
「お願いだから、何も聞かないで!僕はこのままでいいんだから」
「俺は全然よくないんだよ!」
 必死の懇願を切って捨てられ、どうして分かってくれないのだと泣きそうになる。
「…朝香はそんなにこいつがいいのか?」
 塚原の口から、嘲笑いに似た音が零れた。
「――本当はこいつ、」
 時計の秒針が、カウントダウンのように時を刻む。
「人殺しなのに」
「違うっ!そんなことしてない!」
 塚原の言葉を遮るように叫んだ。
「まだしらばっくれる気か?」
「しらばっくれる、なんて…僕は、ただ…」
 苛立った声に、力なく反論する。
 確かに楓和は、酷い、事をした。けれども、塚原がこんなにも、人殺しと繰り返すのは、何故なのか…
「おまえ…突き落としたんだろう?」
「…え?」
 冷たい声に、切り付けられる。
「紅葵が言ってたんだよ。おまえに突き落とされたって」
 その、嘘が孕んだ悪意にぞっとした。
 紅葵に嫌われているのは気付いていたけれど、こんな形でそれを見せ付けられた事が、何よりもショックだった。
 何も言えなくなった楓和に、塚原が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「崖から突き落とすなんて、立派な殺人行為だよな?何が、そんなことしてない、だ」
「…もういい」
 静かに口を挟んだのは、黙って二人のやり取りを見ていた朝香だった。
「塚原の言い分はよく分かった。このまま話してても埒が明かないから、あとは楓ちゃんに話を聞く」
「結果は同じだろう」
 不愉快そうな塚原の言葉を無視して、俯いたままの楓和へやさしく笑う。
「おいで、楓ちゃん」
 差し出された手に怯えて後退ると、朝香が一瞬だけ傷ついたような表情になった。
 それでも、無理矢理連れていこうとはせずに、楓和が動くのを待っている。
 重たく続く沈黙に耐えられなくなって、後退った分だけ腕を伸ばし、どうにでもなれと朝香の手を取った。

 楓和を連れて部屋を出て行きかけた朝香は、扉を閉める前に振り返る。
 そして、宣言するように言い放った。
「自爆装置だって構わないよ。爆発する前に止めるから」
 それを、ありえないと笑ったのは、塚原ではなく楓和自身だった。



 廊下へ出ると、朝香の手が離れた。少ないながらも、学校から戻ってきた寮生が行き来していたためだろう。だから逃げることもできたのに、黙って朝香の後について歩いた。
 嘘も真実もあまり大差はない。それでも、殺意を持って人を突き落としたのだと、そう思われてしまうのは嫌だった。

 程なくして着いた朝香の部屋に、同室者の木藤はいなかった。
 汚くはないけれど住人の存在を感じさせる、雑然とした部屋へ入っても、いつものように穏やかな気持ちにはなれない。
「座りなよ」
 ベッドへ浅く腰掛けた朝香に隣を指し示され、少し離れた所へおずおずと座る。
 緊張で両手が、冷たく震えている。片手で押さえ込んでも止まらなくて、余計に手の平が凍えていくだけだった。
 隣から影が落ちてきて、朝香の手の平が重なった。
「落ち着いて。大丈夫だから」
 温めようとするように、そのまま両手が包まれる。
「俺は塚原の言ったこと、そのまま全部信じたりしてないから。本当のことだけ、聞かせてほしい」
「……」
 真剣な声に、言葉が出ない。
「…怖い?俺のこと…信じられない?」
 ちらりと窺った朝香の顔が、哀しそうで。
「…何から、話せばいい?」
 震えが朝香にまで伝わって、その温かい手を冷やしてしまうのではないかと、不安に思いながら声を押し出した。
「…まず、紅葵って誰?楓ちゃんと塚原と、どんな関係があんの?」
「紅葵は…兄弟っていうか…双子なんだ」
 紅葵のことを話し始めたのは、朝香を信じたからじゃない。ただ投げやりになっていただけだった。
「ここへ来る前はS学院にいたんだ。僕と、紅葵と、塚原と…三人とも同じ学校だった」
 と言っても、楓和は塚原を全く覚えていなかったけれど。
 朝香は特に口を挟んでこなかったから、過去を振り返りながらゆっくりと、全てを吐き出してしまうことにする。
「…小学校から受験して。その頃はそれなりに勉強もできたから。友達もいっぱいいて。…本当は、僕の、じゃなくて、紅葵の友達だったんだけど。
 僕はいつも紅葵と一緒にいた。体動かすのは好きじゃなかったから、校庭で遊ぶ紅葵たちのそばでオカリナ吹いてた。音楽で習った曲とか吹くと、皆歌い出して。そんな形でしか、友達と繋がっていられなかったけど、寂しくはなかった。それで、十分だったし、ずっとそんな毎日が続くんだと思ってた。けど…
 紅葵と、友達と、何人かで話してた時、内容はもう忘れたけど、誰かが何か、面白い話をして。笑いながら顔を上げたら、誰も僕を見てないってことに気付いたんだ。
 紅葵たちは盛り上がってワイワイ騒いでるのに、誰とも目が合わなかった。皆が見ているのは、紅葵だけだった。そんな事が、何度も何度もあった。いつだって、そうだった。それでも、置いていかれるのは嫌で、ひたすら紅葵の後を追いかけた。生まれてからずっと一緒にいたから、離れるなんて、考えつかなかった」
 朝香は、相槌を打つでもなく、ただ黙って耳を傾けている。
 隣合わせに座ったのは、この方が話しやすいだろう、という気遣いだったのだと、今更気付く。
 顔を見ながらなんて、とても話せる内容じゃないから。
 朝香の顔が軽蔑に歪む瞬間を見てしまったら、最後まで話すことなんて、できないに決まっている。
「…中三の、修学旅行で、山に行って。そんな、高い山じゃないんだけど。八人くらいのグループで、たまたま紅葵と一緒だった。
 朝から雨が降りそうな嫌な空だった。だから早くバスに戻りたかったのに、紅葵たちが、ふざけながら歩くから。他のグループは先に行っちゃって、きっと僕たちが最後だった。
 それで、やっと下り始めた頃に、すごい雨が降ってきて。皆傘さして急いでて。僕は、一番後ろで、傘の下から紅葵の背中だけ見ながら歩いてたから。気付かなかった。紅葵がグループから離れて、全然違う道を歩いてることに。どうしてグループから離れたのかは、分からない。僕がついてきてたのは知ってたと思うから、適当な所で撒いて、置いていこうとしたのかもしれない。分からないけど。そうなってたなら、まだましだった。
 雨と霧と、あんまり役に立ってない傘のせいで、視界が悪くて。それに、そこはちゃんとした道じゃなかったから。だから紅葵は、落ちちゃったんだ」
 激しい雨の音に紛れて、うわっ、という紅葵の声を聞いた。視界を覆っていた傘を傾けた時にはもう、そこに背中は見えなかった。斜面の低い樹木が、ガサガサと大きな音を立てた。やがて聞こえるのはまた、雨の音だけになった。
 しばらく呆然とした後、自分たちがグループから離れていて、正規のルートでない道を歩いていて、紅葵が崖下に落ちたのだということが、やっと理解できた。
「そう分かっても僕は、ただそこに立ってるだけだった。下を覗き込むことすらしなかった。紅葵が僕に、助けてくれって叫んだら。そしたら助けようとしたかもしれない。でも、そんな事は起こらないって知ってた。僕は…僕は背中を向けてそのまま山を下りた。元の道へ戻れれば、後は簡単だった。十分くらいで、集合場所に着いたと思う。言い訳するみたいだけど、その時はまだ、誰かに紅葵のことを話すつもりだったんだ。
 駐車場の、貸し切りバスの周りは大騒ぎだった。紅葵がグループとはぐれた、紅葵がまだ戻ってこない、紅葵が…
 男子はいつものようにふざけながらも、ずっと、山の方を気にしていたし、女子は泣いてて、先生たちは紅葵を捜しに、地元の人と山へ入って行った。
 皆が心配してるのは、紅葵のことだけなんだ。僕が、いなかったことなんて、誰も、気付いてなくて、そんなの、分かりきってた、いつものことなのに、その時は、なんか、耐えられなくて。この光景を見せるために、紅葵はわざと落ちたんじゃないか、って思った、それで、僕に、僕自身の汚さを自覚させるために落ちたんじゃないかって。紅葵は、何もかも持ってて、何も持ってない人の…僕の痛みなんて知らないんだ。紅葵も何もかも失くせばいい。死んじゃえ、とすら、思ったかもしれない。だから、誰にも、何にも、言わなかった」
 今でも思い出す度ぞっとする。こんなどす黒い感情が、一体自分の何処に隠れていたのか、と。
「ちゃんと、見つかったよ。紅葵は。病院に運ばれて。どっかを骨折、してたのと、身体を冷やしたせいで、肺炎になって、入院したって、担任が言ってた。急に、怖くなった。紅葵を殺してたかもしれない、って思ったら怖かった。いつも、誰も僕を見ないから、どうせなら透明になりたいって、思ってた。もともと誰にも見えてない方がましだって。でも、その時は、黒い油性ペンで自分の存在ごとぐちゃぐちゃに塗り潰したかった。自分が汚すぎて吐き気がした」
 それっきり言葉を止めてしまった楓和に、朝香が問い掛けてくる。朝香らしくない、とても遠慮がちな声で。
「それで、その、紅葵はちゃんと、治ったの?」
 楓和はかぶりを振りながら、知らない、と答える。
「え?」
「知らないんだ。あれっきり、会ってない。逃げたから。修学旅行が終わってすぐ、ここの編入試験を受けた。半端な時期だったけど、親戚のコネで無理言って受けさせてもらった。転校して、寮に入って、地元には一度も戻ってない」



「話は、これで終わり」
 言いながら楓和は立ち上がった。
 背中に視線を感じながら続ける。
「突き落とされた、っていうのは、紅葵がついた嘘だけど、それと同じくらい、僕は、酷いことをした。許してもらおうなんて、許されるなんて、全く思ってないよ」
 朝香の顔を見ないまま部屋を出て行こうとすると、戸惑った声に引き止められた。
「待ってよ。何で、逃げようとするの?」
 朝香が、扉の前に立ち塞がる。
「何でって…」
 顔を上げると、またあの傷ついたような目が楓和を見ていた。
「怖がることなんて何もない。俺は塚原みたいに責めたりしないよ」
 そんな目をされるくらいなら、責められた方がつらくない、と勝手すぎることを考えて視線を逃がす。
「あのさ。紅葵に酷いことしたって言ってたけど」
 落ち込んだ思考を遮るように、あっさりと言われる。
「許すとか許さないとかじゃなくてそんなの、お互いさまだろ」
 それは一体どういう意味だろう。
 よく分からなくて首を傾げる。
 朝香は言い聞かせるように続けた。
「身体に負った傷の方が重いって?そんな訳ないだろ。楓ちゃんだって紅葵に散々傷つけられてきたんだろ。だから、お互いさまの兄弟喧嘩。それでいいじゃん」
 いつも前向きで明るい朝香は、未だ重く残る罪悪感を、そんな言葉で散らそうとしてくれる。
 引っ張られるまま罪を捨てるのは身勝手すぎる気がして、よくないよ、と泣きそうになりながら答えた。
「…紅葵は、傷つけるつもりで、無視とかしたんじゃないよ。ただ、僕が、つまらない奴で、あんまり透明すぎたから…」
 嫌われてもそれは、仕方のないことだと思う。
 聞こえないくらいの音でオカリナを吹く以外、何ひとつしてあげられることはなかった。紅葵は幼い頃、歌を歌うのが好きだったから。
 透明にされてからも、しばらくはオカリナを鳴らしていたけれど、音楽も声と同じで誰かに届いたりしないのだと気付いてしまった。
 だから、朝香に初めて会った日に鳴らした透明な音楽が、ちゃんと耳に届いていたと知った時、本当は息ができなくなるくらい嬉しかった。

「…そうだ」
 過去へ沈んでしまった楓和の耳に、唐突すぎる質問が聞こえた。
「今の楓ちゃんにとって、一番の宝物って何?」
 朝香は朝香で何か考え込んでいたらしい。さっきまでの話と何の関係があるのかは分からないけれど。
 朝香が扉に寄り掛かるようにして座り込んだから、つられて座りながら考える。
「…朝香」
 一番最初に浮かんだ宝物を答えると、そうじゃなくてさ、と苦笑された。
「いや、すごく嬉しいんだけど、そういう意味じゃなくて。俺の聞き方が悪かったか」
「…ごめん、分かってなくて」
 うまくできない自分が情けなくて視線を落とす。
「そんな事で落ち込むなよー」
 困ったような声を出した朝香に頭を撫でられて、ますます顔を上げられなくなった。
「じゃあ、宝石でいいや。何が好き?」
「…見たことないし、あんまり知らない」
「想像でいいよ。楓ちゃんが、綺麗だな、って思うやつ。何?」
 教科書か何かで目にした原石たちが、頭の中をぐるぐると回った。
「…アクアマリン。青いのは好きだと思う」
「分かった。アクアマリンな。俺だって写真でしか見たことないけどさ、きっと実物見たらすごい綺麗なんだろーし、高い価値があるものだと思うよな」
「…うん」
 こんな話を急に始めた朝香の意図がまだ分からなくて曖昧に頷く。
「もし誰かがさ、アクアマリンなんて嫌いだとか、青い宝石なんて認めないって言ったら、その宝石の価値はなくなっちゃうと思う?」
「…思わない」
「だよな。その答え、忘れるなよ」
 楓和はやっと顔を上げて、何が言いたいの、と問う代わりに、朝香の目をじっと見つめた。
「楓ちゃんも同じだよ」
「え?」
「楓ちゃんだって宝石なんだよ。アクアマリンみたいにちゃんと価値がある。誰に嫌われたって、認めてもらえなくたって、価値がなくなる訳じゃない」
「……」
「少なくとも俺は楓ちゃんのこと見つけたし、楓ちゃんは俺のこと見つけてくれた。俺は、塚原じゃないから。忘れないで。
 お願いだからもう、俺のこと見失うのはやめて」
 それは確かに、懇願だった。
「…ごめん」
 信じてもらえないかもしれないと、紅葵のことを話す時はすごく怖かった。もしも信じてもらえなかったらすごく傷ついてしまうから、答えを聞く前に逃げようとした。
 けれど、信じてもらえないでいる朝香の痛みには、無頓着で。今更、傷ついたような目をしていた本当の理由に気付いた。
 自分のことばかり、必死で守っていた。一番傷ついていたのは、朝香の方だったのに。
「…僕、本当に汚いよね。弱くて、臆病で、疑ってばっかりで、信じられなくて……朝香のこと…いっぱい傷つけた」
 大嫌いだ。
 心の中で吐き捨てた。
「自分が、大嫌い」
 言葉と一緒に涙が零れた。
 苦しくて、苦しくて、もう食い殺されてしまいそうなのに。
「何でこんな感情があるんだろう」
 答えを求めるでもなく、呟いた。
「愛されたいから、だよ。たぶん」
 言いながら目元の涙を拭ってくれる。
「愛され、たい?」
 思いもしなかった言葉をぼんやりとなぞった。
 俺が勝手に思ったことなんだけど、と前置きしてから、朝香はゆっくりと話し始める。
「自己嫌悪感と自己愛ってきっと表裏一体でさ。心の何処かで愛されたいって思ってるからこそ、愛されないような自分を嫌いになる。もうどうしようもないんだよ。人はみんな愛されたいって生まれてくるんだと思う。生まれた時から持ってる感情だから、どんなに苦しくても捨てられない」
「…人間は、汚いね」
 少し悲しくなって言う。
「うーん。確かに汚いかもしれないけどさ。ちょっと汚いくらいが丁度いいんじゃない?綺麗すぎたら触れないじゃん。何でこんなに綺麗なんだって、相手を好きになるより先に嫉妬しちゃうよ。
 俺は…何もかも綺麗に取り繕った楓ちゃんのことを、好きになった訳じゃないんだよ?」
「…ごめん」
 そのままでいいんだよと言ってくれる朝香に、隠してばかりだった自分を思い返す。
「謝んなくていーから。信じられないのは、今まで何度も裏切られてきたせいだろ?楓ちゃんのせいじゃないよ。それに、楓ちゃんは弱くなんかないと思う。嫌いだって思っても自分から逃げないで頑張ってるから」
 それは逃げなかったんじゃなくて、諦められなかっただけだ。
 俯いてしまった楓和に、朝香が苦笑するのが分かった。
「ま、だからって、あんまり落ち込みすぎるのはよくないけど。俺だって自分が嫌になることくらいあるから人のこと言えないし」
 朝香が落ち込んでいるところなんて、見たことがない。いつも明るいように見えて、だからこそ気になる。
「そういう時、朝香はどうやって立ち直るの?」
 どうしたらいつも明るくいられるのだろう。落ち込んでばかりの楓和には、想像も付かない。
「走ったりとかいろいろあるけどこれからは…どんなに俺が自分のこと嫌っても、楓ちゃんは好きでいてくれるって…勝手に思うことにするけど、いいかな?」
 照れたように告げられて、勿論だよと頷いた。
 これからも、信じるのが怖くて不安になることはきっとあるけれど、嫌いになんて絶対にならない。それだけは自信を持って言えるから。
 嬉しそうに笑った後、朝香が言う。
「楓ちゃんも同じこと思ってて。落ち込んだ時こそ俺のこと信じてよ。自分に自信持てとか言ったって、すぐには無理なの分かってるけどさ。でも俺は、自分が嫌いで、それでも愛されたいって一生懸命な、楓ちゃんのことが大好きだから」
 笑おうとしたら涙が出た。楓和のことを丸ごと全部受け入れてくれたみたいで、胸がいっぱいになった。
 こんなに温かくて優しい人が、楓和を好きでいてくれる。今まで独りぼっちだったことなんてどうでもよくなるくらい、幸せだと思った。
 今度こそちゃんと朝香を信じる。
 目に溜まった涙で霞んだ朝香に向かって、泣き笑いのまま頷いた。


「よし。じゃ、あの裏表野郎のことは俺に任せて?」
「…誰のこと?」
 渡されたティッシュで顔を覆いながら聞く。
「塚原だよ。あいつ本当外面いいよな。最初塚原の名前が上がった時は、俺も半信半疑だった」
「…」
 確かに楓和も、初めて穏やかな表情が消え失せるのを見た時は呆然としたけれど。その呼び名はちょっとどうかと思う。
 ティッシュの影でいろいろ考えていると、もう止まってるんだろ、と奪われる。
 朝香が放り投げたティッシュは、綺麗な曲線を描いてごみ箱へ吸い込まれていった。
「ま、塚原の人間性なんてどうでもいいけど。とにかく俺が話しつけてくるってことで、いいよな?」
 頷くにはだいぶ、躊躇いがある。
「…朝香は、巻き込まれただけなのに。僕のせいで揉めて、るんだし」
「でも、塚原と二人で話したって何も解決しそうにないだろ」
「それは…うん」
 渋々頷く。
「相性悪いもんな」
 それも認める。
 楓和が話しかけるほど塚原の苛立ちが募って、棘のある言葉で傷つけられる。何度繰り返しても交わらない、平行線の会話。
 紅葵ともそうだったのかもしれない。追いかければ追いかけるほど嫌われていったのかもしれない。
「それって、楓ちゃんが悪いんじゃなくて、塚原とか…紅葵の方に原因があるんじゃないかな」
「え?」
 考えてもみなかったことを言われて、きょとんとする。
 朝香は、分からないよな、と笑った後、ふっと表情を改めた。
「俺は、塚原や紅葵の気持ちが、少しだけ分かる気がするんだ。勿論楓ちゃんの事うっとおしいなんて全く思ったことないよ。むしろもっともっと甘えてほしいくらいだし」
 からかうように額をつつかれた。些細な接触なのに鼓動が騒ぐ。
 そんな楓和に気付かない朝香は、真面目な顔に戻って話を続けた。
「塚原みたいな奴はさ、助けてくれとか愛してくれなんて言えないんだよ。なに贅沢なこと言ってんだ、十分愛されてるだろって言われて終わりだよ。だから、楓ちゃんみたいに一生懸命な人を見ると疎ましく思っちゃうんじゃない?楓ちゃんだって俺が、今すっごい不幸だ、独りぼっちだ、助けてくれ、なんて言ったらふざけんなって思うだろ?」
 冗談みたいに付け加えられた言葉に、笑って返そうかとも思ったけれど。
 少し考えてから、かぶりを振った。
「…思わないよ。僕が助けられるなら何でもする。朝香はいろんなもの僕にくれたから、少しでも返したい。それに……朝香は僕の…恋人だから。朝香を助けられる人が、周りにどんなにたくさんいたって、僕が助けてあげたい…て、うわっ」
 気付いたら朝香の腕の中だった。
 サラサラとした髪が、首筋にあたってくすぐったい。
 動転して脈拍が一気に跳ね上がった。
「急に、どうしたの?」
 うろうろと視線をさ迷わせながら聞く。
「何か今すっごく楓ちゃんの愛を感じた!」
 そんな内容のことを言ったつもりはないけれど、朝香が喜んでくれたなら嬉しいと思う。
 それよりも抱きしめられている今の状況をどうすればいいのか。居心地悪く身じろぐと、よし、という声が聞こえて、また唐突に朝香の体温が離れていった。
「じゃ、塚原のとこ行ってくる。楓ちゃんはここで待ってて」
 あっさりと言いながら朝香が立ち上がった。
「えっ今から?!」
「善は急げって言うだろ」
 見上げた先の朝香は、不安を隠せないでいる楓和に笑顔を向けて言う。
「大丈夫!あいつの弱み二つくらい知ってるから」
 そして引き止める間もなく出て行ってしまった。


 一人残された部屋の中で、塚原も辛いことがあるのだろうかと考えた。苦しかったり寂しかったりするのだろうか。
 楓和が助けられるなら、助けるのに。でもきっと、逆に塚原からふざけるなと言われて終わるんだろう。そこまで考えて、落ち込むよりも笑ってしまった。
 それから、笑った自分に驚いた。ついさっきまで立ち直れそうにないほど真っ暗だったのに。朝香の中には、楓和を明るくする言葉がいくらでも詰まっているみたいだ。
 制服のポケットをひっくり返すと、カッターナイフが鈍く光った。
 もう、いらないよね?
 聞く者のいない独り言を零す。
 見事ごみ箱へ飛び込んだその破片が、カランと小さな音を立てて消えていった。



「あ、ふーちゃんと哲だー」
 食欲をそそる匂いの漂う食堂に入るなり、トレイを持った松矢が駆け寄ってきた。
 昼休みはまだ始まったばかりだというのに、昼食を求める生徒の列は出入口付近まで伸びていた。
 松矢は楓和に、おはよ、と笑いかけた後、軽く咎めるように朝香を見た。
「哲が非常にもてるのは知ってるしどうでもいいんだけどさ…振った女子にまで優しくしちゃダメだろ」
 わざとらしく作った顰めっ面で松矢が言う。
「急に何の話だよ?」
「陸上部のマネージャー。二週間くらい前に振ったんだって?断る時まで優しくて、泣き止むまでそばにいてくれて、やっぱり諦めるなんて無理、だってさ。どうすんのー?」
 そう言いながら、列の最後尾についた朝香を追い掛けて肘で突く。
「そもそも何で松やんにそんな話すんの?」
 怪訝そうに朝香が尋ねると、ぼそりと声が返ってきた。
「…女だと思われてるからだ」
 振り返ればそこには木藤がいて、いつからいたのかと目を丸くする。
「ちげーよ。失礼なこと言うなっ!」
 松矢は憤慨して木藤に向き直った。
「早くしないと席がなくなる」
 対して木藤は全く取り合わず、背中を向けて席を取りに行ってしまった。
 待てよ、と松矢も追い掛ける。
「楓ちゃんも行ってていいよ」
 ぼんやりその様子を眺めていると、朝香に軽く背中を押された。
「買うの俺だけなんだし。俺の席も取っといて」
 反論する理由も見当たらなかったから、任せて、と頷いて列を離れる。
 辺りを見回すと、すぐに松矢たちが見つかった。ちょうど四人分の席も取ってある。近づいていくと松矢が、ぽんぽんと隣の席を叩いて、ふーちゃんはここね、と言ってくれた。
「そりゃ、俺が多少、女顔なのは認めるけどさー」
「多少、か?」
「多少に決まってんだろ!」
 二人はまだ揉めているらしい。松矢が周りの喧騒に負けじと騒いでいる。
 隣にすとんと腰掛けた楓和は、長い列の中に塚原の姿を見つけて、昨日のことへ思いを馳せた。

 あの後、朝香は意外と早く戻って来たけれど、部屋に木藤がいたから詳しい話は聞けなかった。ただ、大丈夫だよ、と笑顔で言われただけで。そんなにあっさり解決するものなのかと、半信半疑で自室へ戻ってみたけれど。
 確かに塚原の態度は変わっていた。いつものように冷たくではなく、少し気まずそうに一瞥されて終わりだった。
 朝香とどんなやりとりがあったのか気になるけれど、松矢たちと一緒では聞けないな、と軽くため息をつく。

「ふーちゃんもさー、あんな無自覚タラシは止めて俺にすれば?」
「へ?」
 いきなり話を振られて我に返る。
 いつのまにか話は朝香のことへ戻っていたらしい。
 どう?なんて言いながら松矢が顔を近付けてきて、からかわれているのだと分かっても、どうすればいいのか分からない。
「え、えっと、その…」
 間近に迫った顔に、反応に困って固まっていると、
「俺の楓ちゃんとるなよ」
 ガシャンとトレイを置く音と共に朝香が割り込んで助けてくれた。
「うわー哲のヤキモチやきー」
 引き離された松矢はケラケラと笑う。
「別にとったりしないぜー。俺はとりあえず恋人いるし?危ないのはハルカだよな」
「俺だって好きな奴くらいいる」
 黙々とうどんを啜っていた木藤が、少しだけ赤くなってそっぽを向いた。
「えっ」
 意外、というように木藤を見たのは、楓和と松矢の二人だけだった。朝香は知っていたのだろうか。
「それはともかく…からかってばっかいないでちゃんと応援してよ」
 話を逸らすようにぼやかれて、松矢と一瞬だけ目を見合わせた。
 それは本当に一瞬のことで、文句をつけられた松矢が黙っている訳がない。
「言われなくてもずーっとしてた!」
 胸を張って言い切る松矢に、朝香は呆れた顔をする。
「ずっとって…まだ付き合い始めて一週間なんだけど」
「えーっ!?一ヶ月くらい前から付き合ってると思ってたのにー!」
 心底意外、というように松矢が大声を上げた。
「俺も」
 木藤まで平然と同意する。
 一ヶ月前といったら、朝香と知り合ったばかりの頃だ。
 そんな風に誤解されていた理由が気になって、おかしいなぁ、と首を捻る松矢に聞いてみる。
 そしてその後、二人に真顔で言い切られた答えを聞いた楓和は、真っ赤になって俯いてしまった。

「だって、人形みたいにきれーなふーちゃんがさ」
「哲といる時だけ笑うから」






「ちょっと寄り道してもいい?」
 少し前を行く朝香に問い掛ける。
 今日は試験六日前だし、早く帰って勉強しなければいけないことは分かっているけれど。昨日のことが気になって、とても勉強なんてできそうにない。
「いいよ。何処行くの?」
 朝香が歩調を緩めて楓和に前を譲った。
 楓和は特に何も答えないまま歩き続けて、普通なら見落としてしまいそうな路地へ入っていく。
 すぐに目的地を察したのか、朝香も黙って後をついてきた。


「へー、ここって意外と高いんだな」
 ブロック塀の上に立った朝香が、駐車場の遥か下に広がる町並みを見下ろして言う。
「高いところ平気?」
 その様子を見る限り平気そうだけれど、一応聞いてみる。
 同じように隣に立っている楓和へ視線を戻した朝香が、何とも言えない顔になった。
「…ある意味、高所恐怖症かも」
「ごめん!下りる?」
 怖いのなら言ってくれればいいのに、と慌てて尋ねると、そうじゃなくてさ、と手の平が重なってくる。
「楓ちゃんが高いところに立ってると、落ちそうで怖い。とりあえず座って?」
 朝香も同じ場所に立っているくせに、と思いながら、足を空中へ投げ出して座り込む。コンクリートにはまだほんのりと、昼間の熱が残っていた。
 とても心地好くて、このままずっと空を眺めていたい気分になるけれど、あまりのんびりしている訳にはいかないから。
 繋がれたままの右手を気にしながら、楓和は話を切り出した。
「聞いても、いいかな」
「何でもどうぞ」
 朝香に手を離す気はないらしい。諦めて指を絡めると、ギュッと握り返されてドキンとした。
「さっき…昼休みに松矢が言ってた、陸上部のマネージャーって…」
 俯いたまま続ける、塚原とのやり取りと同じくらい、気になっていた事。
「二週間くらい前の放課後、自販機の傍のベンチで、朝香といた子のこと?」
「…楓ちゃん見てたの?」
 気まずそうな声が、返ってきた。
「…たまたま通りかかって。でも、慰めてるみたいに見えたし、朝香はすごく…優しくしてたし。振った後だなんて、思わなかった」
「もしかして結構気にしてた?元気なかったのもそれが理由?」
「…そればっかりじゃ、ないけど」
 誰にでも優しい朝香を見てショックを受けた。けれども、そんな優しい朝香のことが好きだから、仕方ないのだと思う。
「本当に、断ってただけなんだ。それに、泣かれたら放っておけないしさ」
 俯いた顔を覗き込んだ朝香が、ごめん、と言う。
「…朝香って…どうしてそんなに優しくできるの?」
 責めるつもりなど全くなかった。ただいつも、その優しさの理由が気になっていたから。
「後悔したくないんだ。ただそれだけ」
 何かを思い出すかのように、遠い目で朝香が空を見上げた。
「後悔?」
「そ。俺、昔から人の感情に敏感でさ。誰が誰のこと好きとか何となく分かっちゃうの。それで中三の時、この子は俺のこと好きなんだろうなって思ってた女子が…自殺しちゃったんだ」
「え」
 淡々とした口調の中に、ぱかりと開いた傷口が見えるようで。繋がった右手に自然と力が篭った。
「同学年の子で、クラス一緒だったのは二年の時だけだし、死んじゃった理由も分からない。受験ストレスとか、そういうのだったのかもしれない。でも俺は、すっごい後悔した。好意寄せられてるの分かってたのに、目の前の勉強とかで精一杯で、優しくとか、何にもできなかった。何かできることがあったはずなのにな。
 だから、もう後悔しないように、できる限り優しくしたいって思ったんだ」
 逆に残酷だとも言われるけど。
 そう言って朝香は苦く笑った。
 そんなことがあったから、楓和の傷を見た時あんなに過剰反応したんだ、と納得する。置いていくなと苦しそうに言っていた朝香を思い出して、また少し胸が痛くなった。
「あ、でも」
 朝香が、しんみりした空気を追い払うように明るく続ける。
「楓ちゃんにはそういうのと関係なしで特別に優しくしたよ。下心込みだったからね」
「下心…?」
「俺のこと好きになってくれないかなぁって」
 あんまり優しい顔をして言われたから、照れてしまって視線を逃がした。
 朝香はちゃんと特別をくれていた。でも、それをもらわなくてもきっと、神様みたいに優しい朝香のことを、絶対好きになっていたと思う。
「楓ちゃん、今オカリナ持ってる?」
 ふと、思い付いたように聞かれる。
「持ってるけど…どうして?」
 結局いつも持ち歩いているオカリナは、カバンの底の方に埋まっている。
「ゆうやけこやけ、吹いてよ。空がすごく、綺麗だから」
 夕陽に染まった朝香の方が綺麗に見えると思いながら頷いた。
「僕のオカリナじゃ、綺麗な空が台なしかも」
 躊躇ったけれど、オカリナをくわえた。今は、何となく吹いてみたい気分だった。
「そんなことないって。すごく優しい音がする」
 促されてぎこちなく指を添える。
 とても小さくて、誰にも届きそうにないCの音。夕焼け空には遠すぎて、下の駐車場にすら響かない。
 それでも、隣に寄り添う朝香の耳に届いているなら幸せだと、合わせて歌ってくれる声を聞きながら目を閉じた。

 最後に残ったFの音が、赤い空の向こうへ消えていった。
「そろそろ帰るかぁ」
 空を仰いで思い切り伸びをしたその横顔に、一週間程前の会話を、ふと思い出した。
「…朝香も、帰れないの?」
 オカリナを持ったまま、問い掛ける。
「何で?」
 朝香がくるりと楓和の方を見た。
「あの時言ってた。僕の吹いたゆうやけこやけが…帰れない唄に聞こえたって」
「あぁ、あれは…」
 朝香は一度言葉を切ってから、さばさばとした口調で話し始めた。
「前に転校の理由話しただろ?俺の親とか親戚とかってやたら高学歴でさ、俺にもおんなじこと求めてたんだけど。俺は頭使うより身体動かしてる方が好きだし。で、やってられないって爆発したから、半ば追い出されたみたいな感じ」
「そうなんだ…」
 ぽつりと呟くと、朝香が頭を撫でてきた。
「そんな寂しそうな顔するなよ。もうちゃんと帰る場所だってあるんだし」
「…?」
 何処のことを言っているのか分からなくて首を傾げる。
「ま、あと一週間くらいは塚原と同室だけど。とりあえず試験終わるまでに荷物まとめといて」
「…どういうこと?」
 帰る場所が寮を差していることは分かったけれど。話が見えそうで全く見えない。
「試験終わったら楓ちゃんは引っ越し」
 楓和の困惑を面白がるように笑顔で、あっけらかんと告げられた。
「もちろん引っ越し先は俺の部屋だから」
「…えぇぇっ?!」
 そんなの聞いてない、と呆然とする。
「こないだ話つけに言った時、塚原に部屋替え頼んだ、というか、無理矢理要求飲ませたんだ」
「…どうやって?」
 聞きたいような聞きたくないような面持ちで尋ねる。
「弱み突いたら一発だった」
 得意そうな顔で朝香が人差し指を立てる。
「まずは一つ目な。これは松やん情報なんだけど。三年の芳原先輩知ってる?」
「名前は、聞いたことあるかも」
 確かけっこう派手な容姿の上級生だった。無断外泊やら夜遊びやらで何度か生徒指導に捕まったという話を、誰かから聞いたことがある。最近は特に耳にしていないけれど。
「塚原って毎晩部屋抜け出してたんだろ?その先輩の部屋で寝てたらしいよ。先輩の無断外泊見逃す代わりに。寮長としてはまずいだろ」
 楓和が頷くのを見た後、朝香は少しだけ真面目な顔になって続けた。
「二つ目。友情か愛情かは分からないけど、塚原は紅葵のこと好きなんだよ。指摘されて明らかに動揺してたから愛情かもな」
 予想外のことを言われて、思わず塚原の顔を思い浮かべた。
 人当たりはいいけれど冷たくて、本当の感情は表に出さないあの塚原が、紅葵を好き?
 簡単には信じることができなかった。
「どうしてそんな事分かったの?」
「ちょっと考えてみればすぐ分かるよ。
 塚原は、知り合い程度の奴のために嫌がらせとか復讐とかするタイプじゃない」
「…そうかも」
 言われてみれば、妙に紅葵のことに固執していたような気がする。それに、楓和と紅葵は、性格は正反対でも見掛けはそっくりなのだ。塚原はきっと、楓和を見る度に紅葵のことを思い出していただろう。
 愛しい人と同じ顔を持った加害者。更に憎しみが募ってしまったとしても、それは仕方のないことだ。
「という訳で、楓ちゃんと木藤が入れ替わることになって、試験明けから楓ちゃんは俺の同室者」
 考え込んでいる楓和に気付かない振りで、明るく結んだ朝香が左手を差し出す。
「歌詞の通り、手繋いで帰ろ?」
 少し迷ってから、その手を取った。辺りはもう、暗く夕闇に包まれている。
 世界が闇に染まるその瞬間さえ、朝香と一緒なら綺麗に見える。それはきっと明日も同じように日が昇ることを、疑わず信じていられるからなんだろう。





「ふーちゃんおはよっ」
「ぅわっ」
 背中にいきなり飛びつかれて、楓和は思わず転びかけた。朝香が引っ張ってくれたから転ばないで済んだけれど、その代わり傘に溜まった水滴が盛大に身体を濡らす。
 テストが終わって迎えた今日は、生憎朝からじめじめとした雨だ。でもそのおかげで陸上部の朝練が中止になって、朝香と一緒に登校することができた。
「朝っぱらから危ないことするなよ」
 朝香が軽く睨みつけた先には、意味深な笑みを浮かべた松矢と、相変わらず無愛想な木藤がいる。
「ふーちゃんと哲、昨日からとうとう同棲始めたんだって?」
「ど、同棲って…」
 とんでもないことを言われて真っ赤になった。
「誤解招くようなこと大声で言うなっ」
 朝香が、にやにやと笑う松矢の頭を薙ぎ払う。既に傘は全く役に立っていない。
「冗談だって。事情は軽ーくハルカに聞いたし」
 軽く、がどの程度なのか少し気になる。木藤は、楓和と塚原の確執について、どのくらい把握していたのだろう。
「ていうか俺は、ハルカがあっさり部屋替えに協力したのが不思議なんだけど。あんな陰険な奴と同室でいいの?」
「別に。俺は寝れれば何処でもいい」
 素っ気なく答えて、唯一濡れていない木藤はすたすたと先に行ってしまった。何か用事があるのか、朝香がそれを追い掛ける。
 二人が随分先に言ったのを確認してから、楓和は松矢にこそっと打ち明けた。
「僕も、木藤に悪いんじゃない?って聞いたんだ。そしたら朝香が、交換条件だからいいんだって言ってた」
「なにその条件って」
 松矢が興味をそそられたように、何故か自分の傘をたたんで楓和の傘の中へ入り込んできた。
「冗談か本気か分かんないけど、恋に協力するって言ってたよ」
「もしかしてふーちゃん、ハルカの好きな人聞いたの?!」
 勢い込んで聞かれたけれど、それには首を振って否定する。
「…教えてって言ったら、僕が意識しまくってすぐばれそうだから駄目、だって」
 自分だけ知らないなんて寂しい、とちょっと拗ねた。
 それで、隠し事の中身は全然違うけれど、朝香もこんな気持ちだったのかな、と分かって反省した。
「ばれるってことは…ふーちゃんが知ってる奴だよな?誰だろう…」
 足を止めて真剣に考え始めてしまった松矢につられて、楓和も何となく立ち止まった。
 耳につくのは、ポツポツと雨が跳ねる音。傘の下から見える雨と、知らない人たちの霞む背中。
 こんな日には、やっぱり罪悪感が重く胸を過ぎる。
 けれど、自分を許せなくなる程の罪を犯した時、目の前には二つ道があるのだと知った。最初は一つしか見えなかった。行き止まりで真っ暗闇で、もうそれを抱えて墜ちてゆくしかないと思った。
 朝香が腕を掴んで離さなかったから、もう一つの道に気付いた。それは忘れる、ということ。過去を丸ごと抱えて生きることはできない。前へ進むのなら忘れるしかない。
 卑怯だと思う。許せないとも思う。それでも朝香が、好きだと言ってくれた自分のことを、少しずつ許していきたい。いつか過去が薄れてしまっても、それを責めたりしないように。


「何やってんのー?置いてくよー?」
 遠くから朝香の呼ぶ声が聞こえる。顔を上げると、こちらを向いて立っている大好きな人の姿が見えた。
 解決していないことなんてまだ山積みで、前を見るのが怖くて俯いてしまう時だってあるけれど。
 とりあえず今は、数メートル先で待つ笑顔に向かって、滴を跳ね上げながら思い切り走った。



2010.2.17

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