匪賊
少女は言った。たった十年で、彼を守るために必要なものはすべて準備すると。それがどれほど難しいことか、本当に判っているのだろうか。ことイタリアの社交界は、一言でいうならば富裕層の坩堝だ。あらゆる国から来た貴族が混ざり合い、奇妙な上下関係を築いている。さらに、貴族を騙して成り上がった大地主や大商人などの庶民階級もいる。ヴェネトやミラノ、ジェノヴァで幅を利かす軍属には、貴族階級出身でない者も多い。

生粋の貴族にしても、地理的な事情から複雑な立場にある。大国の属国であると同時に、自治権を有する公国ひしめく地であるが故だろう。加えて、フランスに端を発した革命思想や自由恋愛の気風が秩序を奪いつつある。少し前なら到底許されなかった振る舞いが、そこここで散見されるのだ。
そんな場所で、彼女は思い通りに振る舞えるだろうか。これは面白いものが見れそうだと、チェッカーフェイスはほくそ笑んだ。



「それでは、私はそろそろ暇しよう。これでも忙しい身でね」
「そうね。私ももう帰らないと」

話すべきことは話した。あとは彼が首尾よく事を進めてくれるのを待つだけだ。黒い炎に包まれて消えゆく男を見送り、クレアも帰途に就いた。

「疲れた……」

ズキズキと痛むこめかみを指で押し、クレアは溜息をついた。今まで全く使っていなかった頭を、無理に使ったせいだろう。クレアは庭の水場で足を洗い、そっと家の中に入った。抜け出た事はばれていないらしく、両親はまだ居間で話をしている。こっそり子供部屋の前まで行って、クレアはそこで足を止めた。

「……体を洗いたいわ」

長いこと寝込んだが、体も髪も思ったほどベタベタにはなっていない。おそらく、母が湯で洗ってくれたか、拭いてくれたのだろう。それでも、できることならば石鹸であますことなく洗ってしまいたい。好きな人の前では、いつだって綺麗な姿でいたいのだ。
しかし、もう夜も遅いし、病み上がりはダメと言われるのは目に見えている。諦めて寝るより他にないだろうと、クレアはドアノブに手をかけた。その瞬間、脳裏に山野の景色が浮かび上がる。千里眼が見せるそれは、村から少し離れた山中の光景だ。

暗い森の中、馬車道を駆ける馬がざっと二十あまり。馬上には粗野な身なりの男が乗っている。千里眼が勝手に動くのは、指輪の関係者に危機が迫る時だ。嫌な予感が矢のように心を掠め、クレアは階段を駆け降りた。家族に気付かれようと構わず、勢い任せに玄関扉を押し開く。そのまま畑の小道を抜けて通りに出ると、畑のあたりに火の手が見えた。

「匪賊……?!」

落ちぶれた農民や軍人が賊となり、徒党を組んで村を襲うことは珍しくない。しかし、稼ぎの見込めないこの村を彼らが襲ったことは一度もなかった。その彼らが、今このタイミングでこの村を襲撃している。それが決して偶然でないことを、クレアは理解した。

「チェッカーフェイス、あの男、なんてことを……っ」
「クレア?」

背後から呼びかける声に、クレアはびくりと肩を震わせた。振り返ると、両親が目を丸くしてこちらを見ている。

「意識が戻ったのか、よかった」
「一体どうしたの、階段を駆け下りたりしたら危ないでしょ」
「聞いて、パパ、マンマ。賊が来たわ、村を襲ってるの」
「賊だって?馬鹿を言うな、この村に賊なんて来ないさ」

夢でも見たと思ったのだろう、父はくすくすと笑った。クレアは頭を振り、夜目に明るく燃えている火を指差した。

「本当に賊が来たの!見て、畑が燃えてるわ」
「なんだって?!……おい、あいつらを叩き起こせ!」
「ええ、あなた、クレアをお願いね」

ようやく事態を理解すると、父は病み上がりで走れそうもない娘を抱え上げた。母は素早く踵を返し、慌ただしく階段を駆け上がって兄達を起こしに行く。二人はすぐさま、母に引っ張られるようにして起きてきた。

「一体どうしたんだ、まだ夜中じゃないか」
「眠ろうとしてたのに……」
「問答は後だ、山へ逃げるぞ!畑はダメだ、火を放たれた」

ジョットの質問を遮り、父は家族を率いて走り出した。その後を、母の両脇を固めるようにしてジョット達も追う。村の南側に広がっていた畑は既に火の海で、そちらから賊が迫っている。ならば、村の北側に広がる山へ逃げるより他に道はない。
しかし、さほども行かないうちに、突如目の前に黒馬が跳び出してくる。その後にぶち模様の馬が、さらにその後には栗毛の馬が現れる。

「なんてことだ!」

匪賊達は、村人が山に逃げると踏んで先回りしていたのだ。現に、クレア達の後ろには同じく山に逃げようとした村人がぞろぞろ居る。彼らはすぐに別の道へ走ったが、賊と鉢合わせして戻ってきた。

「あ、あんた達、一体何が望みだ。金なんてないぞ、こっちがほしいくらいさ」
「金なんて要らんさ、前金でたっぷり貰ってある。俺がほしいのは娘達さ」

黒馬に乗った賊は、まっすぐクレアを指差した。その両脇を固める賊二人は、軍から流れた銃を手で弄んでいる。

「旦那様の命令でね。この村の、十歳以下の女の子をみんな連れてこいとのことだ」
「なんだって!そんな命令を、一体誰が」
「知らん方がいい、その方が幸せだ。――さあ、その子を寄越せ」

でなければ――その先の脅しを、賊が口にする必要はなかった。両脇の賊二人が、銃口を向ければそれで十分だった。
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