昔日の約束
『晴』を送り出した後、クレアはこの百年間、一度も開けたことのない箱を取り出した。
その中には、シモンファミリーとの思い出の全てが収められている。

コザァートの死を偽装した日、零れ落ちる涙を拭いながら封じ込めた思い出。今こそが、それを開くに相応しいときだった。
蓋を開け、一番上に入っていた写真立てを取り出す。コザァートが父の跡を継ぎ、行商人の長となった日に撮影した写真だ。

ガラス一枚の中に閉じ込められた彼の面影を、クレアは視線でなぞった。その姿が彼であることを確かめるように、彼の姿がそうだったことを思い出すように。

鮮やかな白と黒で写し取られた輪郭はとても鮮やかで、彼らが生きていた時代を簡単に想起させる。
照れくさそうに笑うコザァートと、彼を囲んで微笑む守護者たち。皆とても優しい人だった。彼らの子孫も、同じくらいに。

この百年、デイモンはありとあらゆる手を使って、彼らを執拗に殺そうとした。そして、クレアとP2がどれほど手を尽くしても、その手はいつも誰かの命を掠め取っていった。

今回は今までにない数の犠牲を出すことになるだろう。絶対的な自信に裏打ちされたあの宣言から考えるに、確実に根絶やしにするつもりだ。
最善の手を尽くしても、今回ばかりはボスや守護者の家から死者を出すことになるかもしれない。

ありとあらゆる最悪のケースが、希望を描いた絵に鋭く突き刺さる。人の命、国の命運が双肩にのしかかり、不安に揺らぐ心が俺んばかりに軋む。
救いを求めても、寂しさを教えるだけの風が両手をすり抜ける。

「切実に、貴方の手紙が欲しいわ。コザァート」

コザァートは筆まめな人で、旅先からたくさん手紙を送ってくれた。ジョットに宛てた手紙とは別に、兄達に内緒でクレアにも。
旅先での冒険譚、忌憚ない言葉で綴られた世界の景色。夢と希望を運ぶその手紙が、どれほど待ち遠しかったか。

血で血を洗う政争の中、残り少ない命を削り生きる日々の中。兄二人とも段々と気まずくなる中で、彼の手紙だけがいつも純朴に美しく輝いていた。
もし今、彼らからの手紙が届くなら、きっと天にも昇るような気持ちになるだろう。

最後に届いた手紙を開き、クレアは懐かしさに目元を和ませた。それは、クレアが先祖の貴族称号を取り戻すよう勧めた手紙の返事だった。

将来的に身分制度が崩壊するとしても、持っておいて損することはない。運が良ければ、それなりの所領を与えられる可能性もある。
面倒な手続きに煩わされたくないのなら、私が代わりにしても良い。クレアがそう提案すると、彼はたくさんの冒険譚の最後に、こう書いて寄越した。

――できれば、その称号は君が預かっていてほしい。今はまだだけれど、いつか君と一緒に貰い受けたい

思いがけぬ言葉に、当時のクレアは戸惑った。この手紙を兄達の目に入れてはいけないことだけは明らかだったが、どう答えたものか判らなかった。
悩んだ末に、クレアは貴族称号を取り戻す手続きをした。

気恥ずかしくて、それを知らせる手紙はとても素っ気ない文面になってしまって。どうか誤解しないでほしいと願いながら、彼の返事を待った。

結局、返事が届くことはなかった。クレアが手紙を送った時、彼は既にデイモンの術策に嵌り、戦場へ向かう途上だったのだ。

その後、クレアが称号を手に入れても、彼が迎えに来ることはなかった。
それでも、ごくたまに思い返しては、もどかしさを持て余す。芽吹く前に若芽を摘まれた枯れ枝の、もう一度を願う心のような――。

愛も恋もうらぶれる人の生に、一体何を期待するというのだろう。百年以上も生きたのだから、そろそろ諦めがよくなってもいい頃だろうに。
それでも諦められないのは、クレアは待つ身だからだろう。

――必ず、絶望は希望になる。だから、信じていて待っていてくれ

同じ敵を相手に、異なる戦場へ行くことが決まった日。彼はジョットにそう言伝を託した。
彼は子孫という希望を託すと決め、クレアは一人空を見上げて、大地を照らす光を待っている。

「信じているわ、コザァート」

クレアは写真立てをチェストの上に飾った。そして、本部内にある図書室へ走り、必要な書類を自室に運び込んだ。
子供の身形では五回も往復することになり、不便さをしみじみと思い知らされる。

しかし、こればかりは嘆けど直るものでもない。クレアはすっかり癖になった溜息を付き、ローテーブルの上に地図を広げた。
その上に、複数のチェスセットから拝借した駒を、ファミリーの拠点を確認しながら並べる。

戦いを始める前に、情報を視覚化し、現状を把握するためだ。頭の中で考えているだけでは、必ずどこかを見落としてしまう。
戦火が散発的であればあるほど、大局を一目で理解できるようにしなければならないのだ。

デイモンの居城たるボンゴレには、黒のキング。コザァートのいるフィレンツェには、クレアの白いキングを置く。
大ファミリーにはクイーンを、末端組織にはポーン。中間層のファミリーは、攻撃力が高い所はナイト、防衛戦に長けた所はルーク、財や人脈を持つものはビショップと分ける。

全てを分類し終えた時、イタリアの国土は隅から隅まで黒白の駒で埋め尽くされていた。マフィアの根絶を願っていても、それは依然、遥か彼方に霞む夢物語のままだ。
努力が泡のように消える現実の哀しさをまざまざと見せつけられ、クレアは溜息をついた。

「まずは、どこから来るか……」

髪先を指で弄びながら、クレアは地図をじっと見つめた。そこにサインはなくとも、シモンの末裔たちの所在地は頭の中にある。
地図上の情勢とそれらを組み合わせ、クレアはこれから始まる戦いを推測する。

最初に火の手が上がるのはどこか。どう対処すべきか。どこを攻めるべきか。チェスの駒を動かしながら、思いつく限りの可能性を書き出す。
可能性を出し終えると、一つに付き一冊のノートを使ってその先の戦略を考える。

次第に作業に没頭していたクレアは、手元に差した茜色に気付いて我に返った。顔を上げると、明かりの無い室内を残照が赤く染めている。
周りを見ると、写真立てと地図のスペース以外はあらゆる紙で埋まっていた。戦略をまとめたノートや走り書きしたメモが、山のように積み重なっている。

床の上は書き損じや切り離した頁で埋まり、雪が降ったエトナ山のようだ。ソファの上も、開いたまま重ねた本が煉瓦の壁のように互いを支え合っている。
考え事をする時の癖とはいえ、見るに堪えない散らかりようだ。セコーンドにたびたび呆れられた事を思い出し、クレアは見苦しくない程度に周りを整えた。

それから、ぐうと鳴ったお腹に手を当て、苦笑した。いくら食が細くとも、空腹と無縁の人間は居ない。

「さすがに、お腹が空いたわ……」

厨房に行けば、何かしら食べるものをもらえることは分かっている。
しかし、できれば部屋を開けたくはない。情報の漏えいを防ぐためとはいえ、片付けるのも広げるのも面倒だ。

クレアは少しばかり悩み、床の上の不要なメモをかき集め、暖炉で燃やした。誰にも見られないよう、ローテーブルの上に予備のシーツを被せる。

それから、呼び出しベルを鳴らしてみた。誰かが来てくれたら、面倒が省ける。若干の願いを込めてしばらく待つと、そう遠くないところから足音が聞こえてきた。

アントニアの後任が来るようだ。クレアは旨を撫でおろし、料理が来るまで読もうと手近な書籍に手を伸ばした。
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