守れるものならば
クレアは目を覚まし、薄汚れた天井をぼうっと眺めた。
麻酔が残っているのか、ものを考えようにも頭がうまく回らない。

頭の中をむちゃくちゃに引っかき回されたらしい。頭痛と耳鳴りがひどくて、体を起こす気にはなれなかった。

「……?何か、忘れてる……?」

何かとても大切なことを忘れてしまった気がする。記憶を思い返してみると、どの思いでも欠落が多すぎて訳が分からなくなっていた。
ひどく損なわれた百科事典みたいだ。殆どのページを破り取られ、残った部分も虫に食われてしまったようだ。

「思いださななきゃ……」

何を忘れたか判らないのに、胸が張り裂けそうなほど悲しくて堪らない。
胸の中心に大きな洞があって、そこから泉のように喪失感が溢れ出て来る。

忘れてしまったものを、思い出さなくてはいけない。それはきっと、魂を掛けて守らなければならない大切なものだったはずだ。
わけのわからない使命感に突き動かされ、クレアは体を起こした。
研究所内の騒がしさに耳を傾け、様子を窺う。

制止の声と悲鳴、何かがひっくり返される音。しばらくの沈黙の後、誰かが逃げる足音がペタペタと聞こえる。
そんな風に足音を立てたら、追手に捕まるだろうに。

「追手?……誰が追われているの?」

まだ目眩はするが、壁に寄り掛かれば歩けないことはない。クレアは周囲を警戒しながら、実験室へ戻った。

そこはまさに死屍累々といった有様で、耳に痛いくらいの静寂に包まれていた。研究員達はいずれも鋭い刃物で殺害されており、血だまりの中に横たわっている。

さきほどの足音は、逃走する犯人か、運よく刃を免れた研究員のどちらかだろう。
どちらにせよ、こんな場所に長居しても、良いことはないだろう。

しかし、何処へ逃げればいいのだろう。記憶が曖昧すぎて、敵か味方かよく判らないのだ。下手に逃げて、敵の掌中に飛び込んだら大変だ。
不意に、見知らぬ景色が鮮明に、頭の中に浮かび上がる。千里眼が自ら発動したのだとわかり、うなじがぞわりと逆立つ。

場所はこの研究所の正面、三十名ほどの黒服を連れた青年の姿が見える。
彼の姿を見た瞬間、頭の中で錠を解く音が響く。同時に、『箱』の鍵が開き、抜け落ちていた記憶が戻ってきた。

「……思い出した」

秘密を隠すため、自らの記憶を『箱』の中に隠したこと。そして、その『箱』を自動で解錠するため、兄の姿を鍵にしたことを。

『箱』に隠した、誰にも知られてはいけない秘密の数々を。リングと共に受け継がれている、罪のことも。

クレアは深く深呼吸し、千里眼を閉ざした。そして、生身の目で室内を見渡し、目当ての女性を見つけた。
引っ繰り返ったソファの下敷きになっており、かなり血を浴びているものの、怪我はなさそうだ。

「アントニア、起きて」

彼女をソファの下から引きずり出し、クレアはそっと揺り起こした。
もともと覚醒が近かったのだろう、彼女はすぐに目を覚ました。

「お嬢様?これ、これは何が……何があったのですか」

アントニアはひどく狼狽し、血みどろの室内を見渡した。天井まで飛び散った血飛沫の勢いが、この惨劇の激しさを物語っている。

「私も目覚めたばかりで、よくわからないの。あなた、何か覚えていない?」

クレアに問われ、アントニアは必死に記憶を掘り返した。
しかし、気を失う前後の記憶がなく、何があったのかまるで判らない。

一緒に車に乗ったところまでは覚えているが、その後はプツッと絶えている。
まるで、シートに座った瞬間、気絶してしまったみたいに。

「……?」

ふと、奇妙な記憶が浮かび上がる。この部屋で、誰かと会話していたらしい。
前世が何だとか、記憶が何だとか。饒舌に、銀幕の女優みたいに身振り手振りを交え、得意げに話している。

何がどうなれば、カトリックの自分が前世などという異教の思想について話すのか。
そもそも、誰を相手にそんな話を持ち出したのか、まるで判らない。

「前世がどうとか、話していたように思うのですが……」
「……、そう。朧けでも、記憶は残っているのね」

デイモンがどこまで記憶を残しているかは分からない。
しかし、狡知に長けた彼なら、クレアに不都合な記憶を植え付けているかもしれない。

そもそも、彼女はデイモンに憑依された人だ。いつまた体を乗っ取られ、牙を剥くか知れたものではない。

クレアはハンカチを取り出し、足元に転がっていた銃を拾い上げた。
指紋が付かないよう気を付けながら安全装置を外し、彼女に銃口を向ける。

「貴女とはここでお別れね。さようなら、アントニア」
「お、お嬢様?!そんな、うそ……!」

神よと叫ぶ彼女に向けて、引き金を引く。雷撃に似た音が鼓膜を劈き、発砲の衝撃がクレアの体に響く。

幼い体にはかなり辛く、衝撃で痺れた手から銃が零れ落ちる。クレアはハンカチを仕舞い、苦痛に泣く肩を摩った。

「こんなことになるなら、貴女と仲良くしなければよかったわ」

誰とも仲良くならなければ、誰かの死に心を痛めることもない。
そうとわかっていたから、今までは――あの地下牢に居た時は、誰とも親しくしなかった。

「戦場はいつも悲しいことばかり。本当に嫌になるわね」

デイモンとの争いに、アントニアを巻き込んでしまった。その結果、彼女をこの手で殺さなければいけなくなった。
その上、こんな状況では、遺体を家族の元へ返してやることもできそうにない。

その事実が心を苛む一方で、頭の方は冷静に今後の予定を考えている。正面に居る兄はきっと、今の銃声を聞きつけて動くだろう。

どうすれば会えるか。そう考えた瞬間、爆発音とともに建物全体が激しく揺さぶられる。
断続的な振動は地下から響いており、外部からの攻撃でないことが察せられる。

大方、証拠隠滅の為に誰かが自爆装置を作動させたのだろう。クレアは部屋に居た子供達を思い出し、千里眼で彼らの様子を探った。
異変を感じただろうに、誰も逃げていない。皆一様に部屋の中で怯えているだけだ。クレアは踵を返し、子供たちのいる部屋へと急いだ。

たび重なる爆発に耐えかね、建物の至るところがひび割れている。床が抜けないよう祈りながら、クレアは崩れ落ちそうな廊下を駆けた。
あと少しで部屋に着くという所で、天井の一部が崩落する。クレアは降り注ぐ瓦礫を黒い炎の壁で防ぎ、扉を蹴破った。

やはり、子供達は部屋に残っていた。ガラクタの山が崩れているものの、幸いなことに、大怪我をした者はいない。

「みんな無事?誰か怪我をした人はいない?」
「う、うん……」
「……ガラスで、ちょっと切れたくらいだよ」
「良かった。みんな、部屋の中央に集まって」

クレアが手招きすると、おずおずと近寄ってくる。希望を見出したというよりも、命令に従うことが習慣付いてしまったせいだろう。

「この建物はじきに崩壊する。瓦礫に押し潰されたくなければ、大人しくしなさい」

そう命令し、クレアは『箱』の炎を出した。それは瞬く間に広がり、子供達を守る黒い箱に変わる。

『箱』の防御力があれば、何トンの瓦礫が降って来ても守り抜ける。
あとは、ザンザスが迅速に瓦礫を除去してくれることを祈るしかない。

「お願いよ、兄様……」
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